第30話 記憶
氷の森から溢れ出した雪はイベル山を埋め尽くし、そして一匹の大ミミズのような氷獣となり、イベル山を取り巻いた。
氷の森は、雪で埋め尽くした山の中腹から、賢士ドルカスの体を浮かび上がらせる。
水蒸気の爆風に巻き込まれ、雪崩に押しつぶされたドルカスは、既に虫の息である。
溶岩忌避説などという珍説を唱え、氷の森への挑戦を主導した愚かな人間。
まずは殺しておくことにした。
一人一人は無力で愚かであっても、的外れな試みを繰り返すだけだとしても、知識や経験の蓄積を許せば、百年後、二百年後には、氷の森を脅かしうるかも知れない。
イベル山を覆う雪を細い
その記憶を吸い上げつつ、凍り付かせて、バラバラの肉片にする。
手に入った記憶は、存外に興味深いものだった。
魔力や知的水準などは知れているが、ブレン王国の内情に通じており、ブレン王国を深く憎んでいる。
ならば、ドルカスにやらせてみてもいいだろう。
ブレン王国は、氷の森に挑戦した。
ドルカスという男の憎しみに、力を与え、復讐をさせてやるのも一手だ。
氷の森は、復讐が下手だ。
すぐに凍らせて、殺してしまう。
人を苦しめ、絶望させ、後悔させることには、人間に一日の長がある。
氷の森は雪を動かし、人形を作る。
そこにドルカスの記憶と意識を流し、人型の氷獣に仕立てた。
○
(なんてデカブツだ)
(山が埋め尽くされちまったぞ)
(なんてこった)
(こちらコットンリーダー、全小隊、現状を報告しろ!)
イベル山が、雪と氷獣に飲まれた。
イベル山にはまだ黒綿花が残っていたが、ほとんどが雪崩や水蒸気の爆発に飲まれてしまったようだ。
イベル山にいたバロメッツたちはどうにか難を逃れ、最初からおれのそばに居た四匹と合流した。
「なんで、今更氷獣が……」
バカ事業は中止になった。
おれとトラッシュがここからいなくなって、ルフィオがここに来る理由もなくなるっていうのに、どうして今更。
あるいは、いなくなるからこそ動いたんだろうか。
そんなことを思ったときには、もう、地獄は目の前まで迫っていた。
氷の森から、白い霧のようなものが押し寄せてくる。
トラッシュが叫ぶ。
「俺を着ろ! バロメッツを逃がせ!」
事態は飲み込めてないが、ともかくトラッシュが突き出してきたトラッシュ本体である赤マントを受け取り、羽織る。バロメッツたちにも「空に逃げろ」と指示を出した。
(コットンリーダーより全騎、雲の向こうに抜けろ! のみ込まれるぞ!)
バロメッツ達が次々と灰色の雲の向こうへ消えていく。
おれに赤マントを渡したトラッシュの人間体の姿も消える。
その刹那。妙な光景が脳裏に浮かんだ。
見覚えのない、宮殿のような空間。
そこにたたずむ、見覚えのある男の姿。
それは、おれが知っているものより一回り若い、養父ホレイショの姿だった。
誰かの記憶、タイミングからすると、たぶんトラッシュの記憶が流れ混んできているんだろう。
脳裏に浮かぶのは。
養父にマント作りを頼んでいる光景。
養父に採寸を受けながら、談笑をしている光景。
養父から納入されたマントを「ロッソ」と名付けている光景。
養父に裁縫を教えろといい、大きな手で、不器用に針を動かしている光景。
腫瘍による激痛にのたうちながら、「ロッソ」を引き裂いた光景。
狂気に苛まれながら「殺してくれ」と、養父に懇願した光景。
鮮血の中で立ち上がり、慟哭した光景。
姿を消した養父を探す風景。
そのあたりで、頭に声が響いた。
『どうした、しっかりしろ』
トラッシュの声だ
気が付くと、白い霧のようなものに取り囲まれていた。
足もとの土や草などが白く凍り、霜に覆われている。
「なんだこれ」
『寒波が押し寄せてきた。霧は水蒸気が凍ったものだな』
異様に冷えるのはそのせいらしい。
トラッシュが防護してくれているのか、凍傷などは起こしていないが、靴や衣服、髪などのあちこちに霜が浮いている。
『離れるぞ。長居しても益はない』
そうトラッシュが告げたとき、霧の向こうから人影が現れた。
銀色の髪に赤茶色の眼。おれと同じような背格好。
見覚えのあるような、ないような顔だ。
ともかく、普通の人間じゃない。
氷の霧の中を平気で歩いている上、大量の氷獣を伴っていた。
こんな人間がいてたまるか。
おれに目を向けた男は、強い敵意を帯びた声で「カルロというのはおまえか」と言った。
「そうだが、なんの用だ?」
男は鼻を鳴らした。
「おまえに用はない。用があるのは、おまえのもとにいる魔物のほうだ」
「あんたは?」
「私はドルカス。かつてのゴメル統治官ナスカの長子であり、今は氷の森の獣の一匹だ。アスガルの魔物よ。おまえを喰らいに来た」
ドルカス。
言われてみると、眼や髪の色がおれと同じだ。どこかで見た顔だと思ったのはそのせいらしい。官憲に追われていると聞いたが、巡り巡って氷の森に取り込まれたってことだろうか。
世の中の巡り合わせってのはよくわからないものだ。
『俺を喰らう?』
トラッシュは『カカカ』と笑い声をあげた。
「そうだ。カルロの元に集まった魔物の中で、おまえは突出して弱い。内在する魔力は他の二体に劣らないが、それを充分に使いこなすことができていない」
『よくも抜かした。試して見るか?』
トラッシュはおれのつま先で地面を叩く。
いわゆる憑依状態らしく、おれの体の制御権は、今はトラッシュに渡った状態のようだ。
『しばらく足を借りるぞ』
一方的にそう言うと、トラッシュはおれの体で足を踏み出した。
かと思った時には、ドルカスの正面まで踏み込み、その首を足で蹴り飛ばしていた。
おれの足を使っているとは思えないスピードと、関節の可動範囲だった。股関節が外れたんじゃないかという不安さえ感じた。
足に魔力をこめていたようだ、ドルカスの首は斧でもたたきつけられたみたいな勢いで千切れ飛ぶ。
ドルカス本人が言ったとおり、ドルカスは人の自我を備えた氷獣となっているようだ。首をはねられたドルカスは、そのまま氷の塊になって砕け散る。
次いでドルカスが従えていた氷獣達が襲いかかってくるが、相手にならなかった。
大型の熊、狼、鹿などの氷獣たち。リス、ネズミ、ウサギなどの大量の小型氷獣群、さらには守護氷獣と思われる大型氷獣すら現れたが、トラッシュはそれらすべて、一撃のもとに蹴り殺した。
足しか使わないのは、裁縫屋のおれの手を傷つけまいとする配慮のようだ。
『これで終わりということはあるまい?』
氷獣達を一通り片付けたトラッシュは鼻を鳴らすように言った。
そこにまた、声が響く。
「もちろんだ」
そう答えたのは、最初に粉砕されたはずのドルカスの声だった。
そのことは、大した問題じゃない。
問題は、ドルカスが増えていることだ。
推定百人のドルカスが、おれたちをぐるりと囲んでいた。
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