第20話 出発前夜、最後の散歩

 出発の前日には、一通り仕事を終え、サヴォーカさんに借りていた素材や道具類を返却した。

 代役探しは最終的にはエルバでなく、サヴォーカさんに頼むことにした。

 代役捜しの経験がないことはエルバもサヴォーカさんも変わらない。それなら、エルバよりも行動範囲が広く、連絡をとりやすいサヴォーカさんのほうがいいという結論になった。

 出発前日は、ルルの布団と枕をばらし、ルフィオに治癒力を込め直してもらって縫い直して過ごす。

 あとは余りの時間と布地を使い、ルル、エルバ、ウェンディのために小物をいくつか作ってみた。

 夫役が無事に終わっても、スルド村には戻らない。

 代役を雇って夫役を逃れるとなると「その金はどこから」という問題が出てくる。

 今まで通りの暮らしを続けることは難しいだろう。

 どこかで新天地を探したほうがいい。

 可能なら、前にサヴォーカさんが言っていた養父の居た店を見に行ってもいいかも知れない。

 縫い直した布団と枕を持って行くと、ルルに捕まった。

 スルド村で過ごした三ヶ月の間に、ルルとも大分仲良くなった。それが災いして、だいぶ泣かせることになってしまった。

 エルバやウェンディまで罪悪感やら心配やらで愁嘆祭りだ。

 一応夫役を抜け出す算段はあるんだが、流れ者の逃亡犯という立場で「代役を雇える金がある」と説明することも難しい。どうにかルルだけは寝かしつけ、ルフィオの待つ小屋へと戻る。


「おかえり」

「ただいま」

「終わった?」

「ああ」

「じゃ、いこ」


 ルフィオは尻尾を振る。

 おれが夫役に出る前に、もう一度散歩に行きたいらしい。ルフィオの散歩をなめてかかるとひどい目にあう。サヴォーカさんに回してもらったホワイトキメラの毛皮で作った上着と手袋を入れたカバンを吊し、気配を消したルフィオと村を出る。

 牧草地で防寒具を身につけ、ルフィオが脱いだ服をカバンにしまう。

 大狼の姿になったルフィオの背中に横座りで乗った。


「つかまった?」


「ああ」と応じると、ルフィオは「いくよ」と言って空へ駆け上がった。

 あっと言う間に高度が上がり、気温が下がる。防寒具の襟を立てた。


「寒い?」

「そうだな」


 冬が近づいているから当然かも知れないが、前に散歩に出たときより冷え込みがきつい。


「すこし低めに飛ぶね」


 氷の森から距離を取る形で、ルフィオは東へ駆け出す。

 暴風みたいな速さだが、空気の動きをコントロールすることができるらしい。吹っ飛ばされるような風圧は感じなかった。

 あっと言う間に海上に出たルフィオは夜の海上を突っ切り、小さな島の上に出る。

 いや、違う。

 小さな島じゃなくて、島みたいに大きな亀だ。

 体長でいうと五百メートルくらい。甲羅のあるところに平べったい島を背負っている。

 甲羅の真ん中には金色に輝く巨大な水晶柱みたいなものが立っていて、あちこちに小さな池や民家のようなものが見える。


「なんだこれ」

「温泉ガメ。体のあちこちから温泉が出てるの、降りるね」


 そんなのがいるのか。

 世の中知らないことばかりだ。

 空中から駆け下りたルフィオは、一軒の建物の前に降りた。

 遠目には普通の民家にみえたが、降りてみると、スルド村の民家の五倍くらいの大きさがあった。

 構造は三階建て。サイズが大きいのは住人が大きかったせいらしい。

 建物の中から緑色の肌をした、身長三メートルくらいの、東方のキモノ姿の人影が二つ現れた。

 オークのようだ。

 始めて本物を見る。

 ブレン王国では豚頭の恐ろしい蛮族のように言われている種族だが、確かに顔つきは人間と大差ない。凶暴そうな雰囲気もなかった。

 ルフィオと面識があったようだ。オーク達は降りたルフィオに向かって恭しく一礼をすると、「こんばんは、ルフィオさま」と告げた。


「こんばんは」


 おれを背中に乗せたまま、ルフィオはゆっくり尻尾を振った。


「お泊まりでいらっしゃいますか?」


 オークの男は落ち着いた調子で言った。

 客商売の声。この建物はオーク達が営む宿屋のようだ


「ううん。温泉だけ。病気をふせぐ温泉ってどこだっけ?」

「それであれば、七番湯がよろしいかと、ご案内いたします」

「ありがとう、ちょっとまって」


 ルフィオは身を低くしておれをおろし、金髪、尻尾の少女の姿になった。

 もちろん全裸なので、カバンから出した服を着せてやる。


「そちらのお客様は?」


 キモノのオークがルフィオに訊ねる。


「カルロ、人間だけどだいじょうぶ?」

「ルフィオさまのお連れであれば支障はございません。ただ、七番湯ですと、お連れ様には深すぎますので、十二番湯にご案内いたします」


 キモノのオークに先導され、島を歩き出す。

 少し歩いて行くと、頭の上を大きな魔物が飛んでいった。

 羽の生えた、ライオンみたいな生き物。


「なんだ今の」

「マンティコア」


 ルフィオは物騒な単語をあっさり口にした。

 人食いの魔物じゃなかったか? 確か。


「ここは、アスガルのまものの湯治場なの。夫役に行くまえに、病気になりにくくなる温泉に入ってもらおうと思って」

「そういうことか」


 ブレンにいたころは週に何度か公衆浴場に通っていたが、スルドに来てからは縁遠くなっていた。

 ルフィオの言ったとおり、温泉ガメの島はアスガルの魔物の湯治場であるらしい。

 歩いて行くと、ドワーフやゴブリン、巨人、馬鹿でかい大蛇などと次々と行き会った。

 始めて見る種族や生き物ばかりだ。襲われはしないかと肝が冷えたが、湯治場でのもめ事は御法度というルールがあるらしい。

 何故人間がというような視線や、ルフィオに驚いたような視線を来ることはあったが、ちょっかいをかけられるようなことはなかった。

 やがて、目的地である十二番の湯とやらにたどり着く。

 キモノのオークたちが準備してくれた湯浴み着という白く薄いキモノをつけて、ルフィオと並んで湯に浸かった。

 裸ではなく、キモノをつけたまま入る、というのは始めてだが、悪くない。

 というか、ルフィオが裸でないだけでも助かる。

 ルフィオの裸はだいぶ見慣れてきてはいるが、平気になっているというわけじゃない。


「いいところだな」


 時々低空をワイバーンなどの魔物が飛んでいったり、得体の知れないなにかの咆哮が轟いたりして落ち着かないのが難点だが、いい湯だし景色もいい。


「よかった」


 ルフィオは湯の中で尻尾をゆらし、ぱちゃぱちゃと水音を立てた。

 案内された十二番湯には、おれとルフィオ以外には客はいない。


「ケガとか、病気とか、しないでね」

「ああ」


 この心配ぶりだと、ケガをしようものなら大騒ぎしそうだ。


「カルロ」


 ルフィオはおれに目を向けた。


「もうひとつ、したいことがあるんだけど、していい?」

「なにがしたい?」

「まりょく、入れていい? 口から」


 ルフィオは小さな舌を出す。


「舌入れさせろって話か?」

「うん」


 ルフィオはうなずく。


「ケガしたとき、治りが早くなるはずだから。あと、変なまものがよってこないように……だめ?」


 だめだ。

 とは、言えなかった。

 ルフィオは、口づけという行為にそう重い意味を感じていない。

 単純に心配だから、万一の時のために魔力を入れさせろと言っているだけなんだろう。

 そう考えると、無碍に断ることも難しい。

 夫役に行ってしまえば、当分ルフィオとは顔を合わせられなくなる。

 強硬に拒絶して、気まずい別れ方もしたくなかった。


「しかたないな」

「いいの?」

「今回だけだからな」

「うん」


 尻尾をぱちゃぱちゃ振ったルフィオは、湯の中から立ち上がる。

 濡れた湯浴み着が体に張り付いていた。

 普段の全裸より、大人びた風情に見えた。


「じっとしててね」


 おれの前で中腰になったルフィオは、顔を近づけてくる。

 呼吸を整えるような間を少しおいたあと、小さい唇をおれの唇にかさね、舌を差し入れてきた。

 舌先に、柔らかいものが触れた。

 暖かく、柔らかい痺れが舌から首筋、背筋を伝って頭の芯、腰の中心あたりまで広がる。

 ルフィオの魔力が流れ込んできているんだろうが、想像以上に強烈な感覚だ。

 害はないはずだが、甘く、濃い酒を飲まされているような陶酔感、酩酊感があった。

 ルフィオの唇が離れる。

 少し紅潮した顔のルフィオは、珍しく気恥ずかしそうに「どきどきする」と笑った。


「なんでかな」


 気にしないタイプだと思ってたんだが、そうでもないらしい。

 それとも、気にしないタイプじゃなくなったんだろうか。

 そんな風に感じたが、深く考察する余裕はなかった。

 こっちも鼓動と呼吸を整えるのと、変な気分にならないようにするので精一杯だ。

 注がれた魔力の影響か、不思議と欲情はしていないんだが、あくまで「不思議と」だ。

 いつそうなってもおかしくない気がした。

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