第12話 口紅と、お怒りの黒猫
「ふう~ん。逃げようとしたんだ?」
黒髪の少女のとがめるような口調に、僕は恐怖のあまり肯定も否定もできず、床の上にへたりこんだまま彼女を見上げていた。
ところが意外にも、彼女は器用に肩をすくめただけだった。
「ま、いいか。言うのを忘れてたけど、扉には近づかないでね。」
彼女はニッコリと僕に微笑みかけた。その表情に、僕は不思議な既視感を覚えた。僕は勇気を振り絞って彼女に抗議することにした。
「わざと言わなかったな!」
彼女は僕の反撃を完全に無視して窓際まで歩いて行き、お盆を机の上に置いてから窓をいとも簡単に開けた。冷たい清々しい空気が部屋に流れこんできた。
「部屋の空気を入れ替えなきゃね。」
彼女はまた僕に微笑みかけてきた。どうやらこの部屋には、僕には理解できない仕掛けが色々とあるようだった。しぶしぶベッドに戻る僕に、彼女はわざとらしく遠くを見る時のように手のひらを目の上に当てた。
「あれえ~? まだ体を拭いてない人がいるぞ~? 何をしていたのかな~?」
僕は子ども扱いされているようで不快になり、彼女と視線を合わさないようにした。彼女は近づいてくると、タオルを桶の水に浸して絞りはじめた。
「脱いで。私が拭いてあげるから。」
彼女の突然の申し出の意味が一瞬理解できず、次の瞬間、僕はまたうすい布を盾にした。
「絶対にいやだ!」
彼女は微笑みながら僕の拒絶を優しく諭そうとし始めた。
「何を今更、恥ずかしがってるの? どうせもうぜんぶ見…」
「その先は言わないでいい!」
汗と血まみれだった筈の僕の体は起きた時には綺麗にさっぱりとしていた。
(彼女が綺麗にしてくれたのか…。)
明らかに彼女は僕の反応を見て楽しんでいる様子だった。わざと立場の優位を見せつけて喜んでいるのだろうか。
「ほんっとにおかしな奴ね。いいわ、朝ごはんにしよ。」
楽しげにそう言うと、彼女はスプーンでまだ温かそうなスープのような食べ物をひとすくいした。
「はい、あーん。」
僕はその行為が不気味で仕方がなくて、質問をこれ以上我慢することができそうになかった。
「ねえ、君はあの『黒猫』なのか? 手当をしてくれたのも君?」
僕の言葉に、彼女の持つスプーンが止まった。
「その呼び名をまたここで言ったら、殺す。」
彼女が真顔になったので、これ以上怒らせないように僕はおとなしく食べさせてもらうことにした。スープは薄くて、具がほとんどなかった。
「レイちゃん、おいしい?」
彼女の言葉に意表を突かれて僕はむせ返ってしまった。
(なぜ僕の名を!?)
「大丈夫? ゆっくり食べなきゃだめだよ?」
彼女はまた微笑みながら布で拭いてくれたが、ずっと目だけは笑っていないようだった。彼女は彼女で僕に対して不信感でいっぱいなのかもしれなかった。
(聞きたいことが山ほどあるのはお互い様か。)
薄いスープにパサパサのパン、傷んだリンゴのような果物、干からびたチーズらしきものに飲み物は水。それでも多少は僕のお腹は満たされた。
僕は手を合わせてごちそうさま、と言った。
「ゴチソウ…サマ?」
そう言って首をひねる仕草も可愛い彼女は、お盆を脇に置いて僕をまっすぐに見つめてきた。
「レイちゃん、まずは私に言うべきことがあるよね?」
「僕にだって言いたいことが…」
反論しようとした僕を手で遮ると、彼女はたまったものがいっきに爆発したみたいだった。
「まず、『助けていただき、ありがとうございました』でしょ!
あのね、いったい誰が死にかけのあんたを真夜中にここまで担ぎ込んで看病してやったと思ってんの? 冗談じゃないわ、こちとら一年以上も追ってたあのクソババアをようやく追い詰めたと思ったら、いきなりわけのわからないあんたに邪魔されて全ておしまい!
死にたくなけりゃ教えるのね、あんたはいったい何者なの!?」
彼女は一息で言い切ったからか、肩で息をしていた。
「ク、クソババア?」
彼女の口からまさかそんな単語が飛び出すとは僕は予想外で、つい繰り返してしまった。僕のずれた質問は彼女の怒りに火をつけてしまったみたいだった。
「パルミエッラよ! 占領軍とつるんでるあの赤いドレスの悪党! あんたはね、あいつの魔道具『操りの口紅』のせいで私に徹底抗戦しちゃったのよ。」
そういえば僕は彼女に降参しようとしたのに、なぜか戦う衝動に駆られて執拗に襲いかかった。
(あれが魔道具の威力か。)
僕は身震いがした。あの女性がひどい悪党なんて信じられないが、目の前の彼女が嘘をつくとは僕には思えなかった。そうだとすると、僕は大変なことをしてしまったようだ。
「大けがを負わせてあんたを止めるしか、方法がなかったの。」
少しうつむきながら彼女が言った。
(少しは罪悪感を持っているのか?)
と思った僕はすぐに裏切られることになった。
「でも私、絶対にあんたには謝らないから。はい、この話はもうおしまい。次はあんたの番だけど?」
彼女は吸い込まれそうなくらいに綺麗な瞳でじっと僕を見つめながら言葉を待っていた。どうやら彼女の美しさは表面だけで、性格はかなりの難ありのようだった。いっそのこと僕の正体を彼女に話してしまおうかとも思ったが、どうせ信じてはもらえず嘘つきとしか思われないだろう。
「ごめん。言えないんだ。」
僕の返答に彼女は目をパチパチしたあと、大げさにのけぞった。
「なにこいつ! わけわかんない、もうヤダ! ムカつく! 信じらんない! 最低!」
怒り心頭の彼女の罵声に僕は凍りついた。
彼女の瞳孔が獲物を狙う猫のように大きく開いているのでなおさら怖かった。彼女は僕の胸ぐらをものすごい力でつかむとぐいと引き寄せた。彼女の吐息を感じるくらいに顔と顔が近かった。
彼女は怒りを押し殺しているのか、ゆっくりと口を開いた。
「あのねレイちゃん? これはもう、私とあんただけの問題じゃないの。沢山の猫の命がかかっているのよ、わかる?
とにかく、隠している事をすべて洗いざらい話してもらうわ。あなたの意思なんかどうでもいいの。全て聞いてから、あんたをどうするかは私がぜんぶ決めるの。わかった?」
彼女のふるまいは、まるで猫がけんかの相手を威嚇しているかのようだった。あまりの彼女の剣幕に、僕は恐れおののいて固まっていた。
「レイちゃん、返事は?」
「は、はい。」
僕の返事を聞くと、彼女は満足げにうなずいて手を離してくれた。
(なんてすごい力なんだ!)
僕が咳き込んでいると、慌ただしく廊下を走る音の次に部屋のドアを激しく叩く音が聞こえてきた。
「院長! 大変です! 占領軍の方々が家宅捜索だとか申して大勢押しかけて参りまして、庭で遊んでいた子猫たちが捕まってしまいました! 早く来て下さい!」
それはたしかベラベッカと呼ばれていた人の、かなり緊迫した声だった。
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