第5話 猫の城塞都市
驚きのあまり、僕は眠気が一気に吹き飛んだ。
思わず声を出そうとしたが、肉球に口を塞がれた。僕はうなずいてわかったと目で訴えた。
「驚いたかニャ?」
囁くように言うと、ユキはクスクス笑いながら僕に体を寄せてきた。暗くて僕はユキがよく見えないが、そういえば猫は暗闇でも見えるということを思い出した。
(父親がすぐ側にいるのに、猫だけに肉食系なのかな?)
猫とはいえどう見てもユキは子供だし、僕は彼女を傷つけずにかつ、優しく諭すという難題に挑もうとした。
「ユキさん、眠れないの?」
ユキは首を振った。
「まだきちんとお礼を言えてなかったからニャ。ありがとう、レイ。」
ユキが目を閉じて、僕の顔にスリスリしてきてくすぐったかった。僕は焦って、彼女に背を向けてわざとらしくアクビをしたが首筋に違和感を感じてふりかえった。
「な、何をしたの?」
舌を出したミルがこともなげに答えた。
「毛づくろいをしてあげようと思ってニャ。」
なんのためらいもなく続けようとするユキだったが、僕は必死で猫少女を押しとどめた。
「ま、待って! い、色々き、汚いから。いや、君が汚いという意味ではなくて。」
僕の目が暗闇に慣れてきたのか、ユキが不思議そうな顔をしているのが見えた。
「汚いから毛づくろいするんだよ?」
そういえば、猫の唾液には殺菌成分が含まれており体を清潔に保っていると聞いた事があった。
「ま、待った! わかったから、わかったからまた今度、ね?」
僕の拒絶に、不服全開で頬を膨らませて怒りの目で睨んでくるユキは今にも威嚇してきそうだった。
(猫は確か鋭い爪を出し入れできるはずだし、牙もあったような気がする。)
何とかユキの怒りを沈めないとまずそうだった。
「じ、じゃあ…そ、添い寝だけお願いしようかな。」
僕が努めて平静に申し出ると、猫少女は機嫌を直したようで、ゴロゴロと彼女の喉が鳴り出した。僕が頭を撫でてあげると、ユキは疲れていたのかすぐに寝息をたてて眠ってしまった。
僕は安堵のため息をつき、彼女の眠りがもう少し深くなったら隣へ運ぼうと待つことにした。その時、ユキの寝言を聞いた。
「ママ…。」
彼女の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
一見明るく見えるが、戦時下だしこの子なりに心配や苦労があるのかもしれなかった。彼女の体はポカポカと暖かく、懐かしい香りがした。それは陽の光で乾かした洗濯ものの香りだと思い出した。
そして僕もそのまま眠ってしまった。
次の日の朝になり、僕はぐっすりと眠れたようだった。以前はしばしば不眠に悩まされていたのが嘘のようだった。ユキはいつのまにか横からいなくなっていた。
テントの外からはもう朝の支度をしているような音や匂いがしていたので、僕も服を着て外に出た。
顔を洗い、景色を見ようと歩いていると少し遠くにキャリアンさんがいた。彼は鳥のような青い生き物を腕に乗せて話しかけている様子だった。それは元気よく彼の腕から飛び立ち、空の彼方に消えていった。
「おはようございます。」
僕が声をかけると彼はすこし焦ったような様子だった。
「レイさんでしたか。今のは伝令インコでして、店の者に連絡をしました。さあさあ朝ごはんにしましょう。」
彼は僕の背中を猫手でおした。
それにしてもこの世界は自然豊かで雄大な景色ばかりだった。朝食後、再出発してから街道は遠景に巨大な山々を望みながら広大な畑や田園の中を通り、お昼にさしかかる頃に目的地が見えてきた。
その大きさに僕は驚くばかりで、石でできた高い城壁が延々と続いていた。はるか上の壁にはいくつもの櫓や尖塔が見えた。堀を渡る巨大な上げ橋の先にはこれまた巨大な門があり、門扉には鉄板の装甲がついていてまさしく城塞だった。
(こんな立派な城壁があるのに簡単に負けたのはなぜだろう?)
僕の疑問を察したのかキャリアンさんが説明してくれた。
「第一に、戦線布告無しの奇襲だったこと。第二は私たち猫族の特性ですね。」
「というと?」
「私たち猫は俊敏ですが、非力であまり戦いには向いていないのです。それに、自分が一番大事という者が多くて団結力がないのです。」
(なるほど、猫は個人主義か。)
猫の城塞都市に近づくにつれて行列ができ始めた。出入りに検問があるようだった。占領下でも取引や交易に来る者は通行できるようだった。
橋の手前には簡易な木造の建物や天幕が並んでいて、制服を着た兵士が検問や手続を行なっていた。
「この人は雇った護衛の方です。」
キャリアンさんの言葉に係官は興味なさげにうなずいただけだった。僕たちはあっさりと検問を通り、橋を渡り大門をくぐって街に入った。まず僕の目に飛び込んできたのは無残に破壊された大きな石像の土台だった。
「これは、私たち猫族が信仰する猫女神様の石像です。占領軍に壊されてしまい、そのままです。」
僕はふと疑問を感じた。
「この街から逃げないのですか?」
「人質がいるのです。」
冷静だったキャリアンさんが急に顔を伏せて言葉を濁した。すすり泣く声に気がつき、振り向くとユキが大きな目に一杯の涙をためていた。
「私のママが…。」
猫の街が急襲された時、ユキの母親は幼いユキをかばおうとして人間兵の顔をひっかき、収容所に連行されてしまったという。僕はユキを慰めようとしたが、急に彼女は明るい表情になった。
「でも、いつか黒猫さまが助けてくれるニャ!」
僕は黒猫と聞いて激しく動揺してしまった。詳しく聞きたかったがキャリアンさんが毛を逆立てて怒りだした。
「ユキ! やめなさい、赤シャツ兵に聞かれたらどうするんだ!」
「だって、みんな言ってるニャ! 黒猫さまがいつか占領軍なんかみんなやっつけて、街から追い出してくれるってニャ!」
「やめなさい!」
よく考えるとあの時、手榴弾の効果範囲に黒猫も入っていた筈だった。ということは、黒猫もこの世界に来ていてもおかしくはなかった。黒猫なら元の世界に帰る方法をすぐに見つけるかもしれない。手を組むのは不可能だろうが唯一の手がかりだった。
「ユキさん、その黒猫って全身黒ずくの人?」
僕がヒソヒソ声で聞くと、ユキは身をのりだしてきた。
「そう! レイ、まさか知り合いなのかニャ?」
「いや、まあね。長い黒髪の?」
「そうそう! なんで知ってるニャ?」
やはりと思って僕も身をのりだした。
「年齢は20代後半くらい?」
「ハニャ? 黒猫さまはボクより少し歳上くらいらしいよ。」
「え? じゃあ違うのかな…。」
「でも、あくまでも噂ニャ。誰も直接見たわけじゃニャいし。」
ユキが教えてくれたのはこんな噂だった。
数年前、占領軍兵士の間で恐ろしい話が囁かれ出した。日中、街中で乱暴をはたらいた兵士が夜間に抹殺されるというのだ。占領軍司令部は緘口令で噂をおさえようとしたが無駄だった。
いつしかその噂は兵士だけではなく街の猫たちの間にも爆発的に広まっていった。夜な夜な現れては占領軍に罰を与える全身黒ずくめの抵抗者。いつしかそれは黒猫と呼ばれるようになった。
その姿は…。
黒いマントにフードと覆面で隠しているが、月夜に照らされ輝く美しい黒髪は長く漆黒のビロードのよう、容姿は猫女神ように美しく、神業の剣技で敵を無情に切り裂くという。占領軍司令部は必死で黒猫を探しているがいまだに正体さえつかめていないそうだった。
占領軍が恐れていた通り、黒猫に触発されて立ち上がる猫も出始め、抵抗組織がいくつかできたらしい。
ユキから聞けた噂話はこれが全てだった。
元の世界と似たような話で僕は身震いしたが、黒猫は同一人物ではないような気がした。現れた時期や年齢が合わないし、この世界の黒猫は猫族のはずだった。
しばらくして馬車がとまった。
「レイさん、本当は当家に滞在頂きたいのですが、猫族と人間族は同じ地区で生活してはいけないという占領軍が決めた決まりがありまして…。」
キャリアンさんが僕に皮袋と紙を差し出した。受け取ると、重くてジャラジャラと金属音がした。
「これはほんのお礼です。当面はこれで宿屋に滞在して下さい。お困りの時は連絡をください。」
紙は街の地図だった。バツ印がつけてあるのがキャリヒトの店だった。
ユキがまた僕に抱きついてきた。
「また会いたいニャ!」
僕はキャリアンさんに礼を言って馬車を降り、遠ざかる馬車の姿が小さくなるまで手を振って見送った。
僕は猫の街の大通りを歩き出したが、誰かに見られているような気がした。
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