第37話 キス
『どうぞ』
楓子と紅葉はそれぞれの婚姻届けにサインをしてテーブルの向かい側に座る美耶に手渡す。楓子は弟の雅琉と、紅葉は美耶と結婚する。この書類を市役所に提出すれば、めでたく二組のカップルが産まれることになる。
「証人欄はどうするの?」
婚姻届けには証人が二人必要になる。しかし、楓子と紅葉が書いた書類は空欄のままだ。両親に頼んだ方がいいだろうか。
「ここにちょうど二人いるでしょう?お互いがお互いの婚姻の証人になりましょう!」
「俺は別に構わない。親を説得するのは面倒くさい」
紅葉は美耶の言うとおりに、私と雅琉の婚姻届けの証人欄にサインする。そして美耶も隣の欄にサインを終える。紅葉と美耶の婚姻届けが完成した。
「この証人欄にサインすればいいんでしょう?」
次は楓子の番だと言わんばかりに三人からの圧がかかる。楓子は一度目を閉じて深呼吸する。そして、通常は親に書いてもらうことが多い証人欄をじっと見つめる。
(私たちの関係はいびつだ。でも、せめて両親に報告してから結婚したかったかな)
今更、こんなことを思うのは間違いかもしれない。でも、両親には社会人になるまで育ててもらって世話になっている。とはいえ、ここで婚姻届けの証人を両親に頼みたいなど言える空気ではない。
楓子もまた、紅葉と美耶の婚姻届けの証人欄にサインをした。書き終えた書類に今度は雅琉がサインをする。
こうして、二通の婚姻届けが完成した。
「じゃあ、婚姻届けも書き終わったし、今日のメインに移りますか!」
婚姻届けは美耶と雅琉が明日、市役所に提出するらしい。二通の婚姻届けは美耶が自室にもっていく。リビングには楓子と美耶、雅琉の三人が残された。
「ねえさんは、今日をかなり楽しみにしていました。本来なら、明日も仕事のあなた方のために、遠慮ということを覚えてもらいたいものですが、ねえさんに期待はしないでください」
「楽しみ、遠慮……」
神妙な顔で雅琉が発した言葉の意味をすぐには理解できない。楓子と紅葉は顔を見あわせた。
「まあ、俺もいざことが始まってしまえば、遠慮できるかわかりません。明日は仕事を休まなければならないことを覚悟してください」
「休む……」
「姉ちゃん!」
楓子は雅琉の言葉を繰り返す。なんとなく理解できてきたが、はっきりと理解することを頭が拒んでいた。しかし、紅葉は違ったらしい。顔を赤くして楓子の服の袖を引っ張り耳元でささやく。
「とうとう、俺たち、美耶先輩たちと、せ、せっ……」
「なっ!」
さすがに姉である楓子に最後まで言葉を口にするのは恥ずかしい。紅葉は最後まで言わなかったが、楓子はようやく美耶が期待していることが何か理解する。
「どうしたの?あれ、楓子たち、顔真っ赤だけど大丈夫?」
そこに書類を置いて戻ってきた美耶がやってくる。美耶の顔を見たら、二人の顔はさらに赤くなる。今まで意識していなかったが、若い男女四人で一緒に生活しているのだ。男女のあれこれが一緒に住み始めて一か月の間、一度もなかったことが奇跡に近い。
「雅琉、もしかして楓子たちに夜の事伝えた?」
「さすがにいきなりことに及ぶのは……」
「ふうん」
美耶は何か考え込んでいたが、すぐに笑顔になり楓子たちに顔を近づける。いったい、何をされるのかわからず、楓子たちはつい、一歩美耶から離れるように椅子ごと後ろに下がってしまう。
「ねえ楓子、婚姻届けにサインをしたということは、当然、その後の家族計画も了承したと思っていいのよね?例えば」
美耶は一歩下がった楓子の顔を両手でつかみ、強引にキスをする。
「せ、先輩」
紅葉の焦った声が聞こえるが、なにか言おうとしても美耶が楓子から離れない。楓子は初めてのキスに戸惑ってしまい、反応が遅れてしまう。
「楓子、まさか」
「べ、別に今時、キスしたことない人なんて山ほどいるでしょ。わ、私は普通だから!」
美耶が楓子の顔から手を離すと、二人の間に唾液の糸が出来た。それを見て、急に美耶とキスしたという現実が頭を駆け巡る。美耶の言いたいことが理解できたとたん、楓子は言い訳のように叫んでいた。
「それで、今日から本当の新生活がスタートという訳だけど、覚悟はできているのよね?キスでこんなことになっていたら、今後がかなり不安なんだけど」
「だ、だいじょうぶに、き、決まっているでしょ。わ、私だって、もう、20代も後半。さ、さっきは、不意打ちでお、驚いた、だけ」
「本当に?なんだか、今この瞬間だけは紅葉君の方が年上にみえるけど。ねえ、紅葉君?」
急に話を振られた紅葉は楓子とは反対にまったくの無表情だった。姉と親友のキスを見ても何も思わないのだろうか。それとも。
「ちょっ」
紅葉は突然、美耶の身体を自分に引き寄せる。男性にしては低い身長でも女性に比べたら高い方だ。そして女性よりも男性は力がある。美耶は紅葉の胸の中に抱きかかえられる体制になる。そしてそのまま。
(紅葉は美耶のことが好きなのだろうか)
目の前の光景を見て、楓子は先ほどまで自分が親友とキスして動転していた気分が一気に冷静になる。弟と親友がキスをしている。しかし、不思議と楓子に怒りの気持ちはわいてこなかった。弟は自分のことも好きでその親友も好きなのかもしれない。自分たちの関係は複雑でそれくらいでおかしくなるような関係ではない。
「俺は楓子さんにキスはしないほうがいいですか?」
楓子の近くには、同じく自分の姉弟の痴態を見せられている人物がいた。この男は姉である美耶に執着しているが、どうしてそんな冷静に彼らを見つめていられるのか。そして、このタイミングでの発言に狂気を感じた。
「私は構いませんよ。キスは好きな人だけとしたい、とか思ってはいません」
ちゅ。
つい、目の前の弟と親友のキスに感化されてしまった。楓子は二度目のキスだというのに大胆にも雅琉の唇を奪っていた。テーブルの向かい側に座っていた雅琉に身を乗り出して近付いたが、雅琉の目を見開いて驚いているのが間近に見えた。無表情が多い雅琉のいつもとは違う表情が見えて、楓子はなんだかうれしくなる。
キスくらいで動揺していたら、今後の生活はどうなってしまうのか。だったら、今この場で大丈夫なことを証明したほうがよい。
(ああ、私はもう、彼らに囚われている)
弟と親友がキスは激しさを増していた。舌と舌が絡み合っているのが横目に見える。その光景を見ながら、楓子もまた美耶の弟の口をこじ開け、舌を絡ませた。
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