第32話 嫉妬

「おはようございます」

「おはよう」


 家から会社まで特に変わったことは無く、楓子は無事に会社にたどり着いた。そしていつも通りの一日が始まった。


(何事もなく一日が過ごせますように)


 楓子は中小企業の営業アシスタントとして働いていた。電話対応をするのも楓子の仕事だった。電話が鳴るたびに美耶からの刺客ではないかと疑ってしまい、定時になるころにはぐったりと疲れ果てていた。


「お疲れ様です」

「お疲れ様。中道さん、なんだか調子が悪そうだったけど、大丈夫?」


 定時になり、今日の分の仕事を終えた楓子はタイムカードを切って事務所を出ようとした。しかし、それを止めた人物がいた。営業の楓子より二歳年上の男性社員だった。楓子と同じくらいの年齢の若い社員は少なく、男性社員とは一緒に帰りにご飯を食べることもあって、会社の中では親しい方だった。スーツを着た姿は年上の女性社員から人気があった。


「斎藤さん、すいません。ちょっと、先週末にいろいろあって……」

「何かあったらじゃ遅いからね。悩んでいるのなら相談に乗るよ」

「大丈夫、です」


 心配してくれるのはありがたいが、この問題は誰かに相談できるような内容ではない。そもそも、目の前の男性社員は既に彼女がいるのだ。相談したところで、世間の常識通りに人生を歩んでいる男に話すことはない。


「私の事よりも、彼女さんのために時間を使ってください」

「彼女、彼女って。別にオレはそんなこと気にしな」


「お先に失礼します」


 男性社員とのくだらない会話で時間を無駄にしたくはない。楓子は男性社員の言葉を最後まで聞かずに事務所を後にした。


(誰かに後を付けられている?もしかして)


会社から家に向かって5分程歩いたところで、誰かの視線を感じて振り返る。1mほどの距離に彼女が立っていた。


「そんなに警戒しないでよ。私たち、親友でしょう?」


 美耶は定時後に楓子の前に現れた。必ずどこかで会うとは思っていたが、週初めの月曜日にさっそく姿を見せるとは思わなかった。驚きはしたが、親友の言葉に冷静に対処する。


「嘘の結婚式でだますような形でしか会えない人間を親友と呼べるのなら、ね」

「ずいぶんというようになったわね。それで?会社で話していた男は何者?」


 楓子に何を仕掛けていたのか知らないが、定時に終わった後の同僚の会話はばっちりと盗聴されていたようだ。ストーカー行為に怒りを感じる前に、楓子は別のことが気になった。


(嫉妬、している)


 美耶は楓子に執着している。恋愛感情を持っているのだ。楓子が別の男と親しく話しているのを聞いて怒っている。


「ただの同僚だよ。今はまだ、ね」


 楓子は自分の気持ちについていけなかった。本来なら、勤務先の会社まで押しかけてくる親友を『気持ち悪い』『同性なのにそこまで執着して不快だ』と負の感情を持つべきだ。それなのに、今の楓子は、親友が男性社員に嫉妬したことに嬉しさを覚えている。


「ずいぶんと良いご身分ねえ。自分の状況をわかっているの?あなたは」

「わかっているよ。それは美耶にだって言える話だよね」


(どうしてこんなに気分がいいのだろう。嬉しいなんて、思っちゃいけないのに)


 話をしながら、楓子はポケットに入れたスマホに手をかざす。念のための保険である。楓子はいつでも警察が呼べるように準備した。空は夕暮れ時で空は真っ赤で不気味な色をしていた。

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