シーグラス

Planet_Rana

★シーグラス


 産まれて初めて素足で踏みつけた砂浜は中途半端に鋭い硝子片を撒き散らしたかのような、そんな痛みを伴う邂逅だったように思う。


 珊瑚と貝殻が流れ着く波打ち際。帽子を被ろうと黒髪を燻す日差しが緩む訳じゃない。日に焼けて色が抜けた毛先を一つまとめにして、私は一人で敷物を用意する。四方の重しになるペットボトルは今日の私の生命線だ。突風で吹き飛ばされそうになるそれらを抑えながら、上に乗った砂を払い落とした。


 この海岸には誰もいない。干潮とはいえ、月齢は満月にも新月にも近くないのだ。中途半端に引いた海水は、真昼を過ぎた海岸線に珊瑚類の亡骸を黒々と隆起させている。


 指の長さ程ある大きな珊瑚と共に打ち上げられた魚にたかる虫と、岩に張り付いたフジツボと、カピカピに乾燥した海藻。鼻に衝くような潮の香りとヤドカリの足跡。どれをとっても故郷を想わせる、あまり好きになれない匂いだった。


 泳ぎに来たのかと聞かれれば首を振ろう。大人ぶって買ったワンピースを車の荷台で着替えたばかりである。海で肌を出す必要はない。


 釣りに来たのかと聞かれれば首を振ろう。ゴカイもワームも、千切るのはもうごめんだ。


 潮干狩りにしては引きがたりない。こんなに水浸しでは獲れるものも獲れない。


 何をしに来たのか。

 何もしに来ていない。それが、私の回答だ。


 世間の喧噪に疲れたわけじゃないし、順風満帆な人生にうんざりしてもいない。誰かと待ち合わせをしているなんてこともなく、予定を立てて来たのでもない。


 ただ、ぼうっと、する時間が欲しかった。


 敷いたブルーシート一枚では、ごつごつとした珊瑚が尻に突き刺さるようになるのでやってられず、体育座りでは耐えかねて胡坐を組む。普段はスカートを履くことが多いのでこのような足を開く座り方はしないが、誰も居ないこの海岸で人目を気にしてどうするという話でもあった。現に、私は今ズボンを着用している。何の問題も無い。


 波が打ちつけて、引いていく音が遠くから聞こえる。空気はねっとりと湿度を含んで蒸し暑い。すがすがしい夏は何処にもない。ここには私が好きになれなかった夏が詰まっていた。


 このまま昼寝でもしてみようか。脱水状態で車を運転などすればどんな惨事になりかねないか分かっていることでもある。腐らない食事は持ってきたし、この辺りには物取りも蛇も野犬も出ないそうだから、精々野良猫に霞めとられないよう気を付けなければならないと思った。


 五分ほど座っていて、そろそろ尻が痛いので立ち上がる。ビニールの敷物は汗で湿っていた。靴を履いてきたのだが、これを脱ぐ。ズタボロにならぬよう靴下も脱ぎ捨てて、柔い足の裏を熱された砂の上にのせる。熱い。肉が焼けるような痛みが突き抜けたが、しばらく我慢すると落ち着いた。ぴりぴりと痛いのは、角が取れず流れ着いたサンゴと貝の欠片のせいだ。巷で星砂ともてはやされる有孔虫までも、私の足の裏を襲撃する。


 構わず歩く。波打ち際に近づくにつれ破片は大きくなって、私は一つ目の山を越え、二つ目の山を越え、三つ目の山の前に辿り着いた。波打ち際から数えて二つ目の、この辺りで一番大きなサンゴ殻の山である。打ち上げられた海藻と、それに纏わりついた塩の結晶と、やはり腐した匂いがした。


 手袋を持って来るんだったと後悔しつつ、貝殻の山に指先をつっこんでひっくり返す。見たことも無い奇妙な生き物の存在に思わず石を放り投げ、その辺を走っていたフナ虫が飛び退いて走り去った。後にはヤドカリの足跡が残る。


 てんてんてん、と、砂を引き摺って刻まれた小さな足跡の上に転がった石。ヤドカリは何事も無かったかのように行進を続けた。


 体重をかけた足の裏は、フローリングの固い床に慣れている故の耐久性を発揮できていなかった。敷物の有無は関係ないか、とその場に腰を下ろし、懲りずにサンゴの亡骸をかき分ける。見覚えのない社名のラベルと見覚えのあるペットボトル。それらの横に、小さな緑色の光が反射した。


 砂の中に半分ほど埋まったそれは、明らかに人工物。いつから波に揉まれたかも分からない、小さな欠片とも粒とも言える硝子。集めたところで量が無ければお金にはならないし、ハンドメイドの趣味も無い。海に放たれた人の創造物が砕けて摩耗して産まれた曇り硝子。揉まれ続けて形を失ったその様は、どうやら私によく似ている。


 流されて削れて、勝手に角が取れてひびが入る。太陽の光を乱反射する緑色は、私が知るどの植物よりもはるかに人間的で、私が知るどの硝子よりも自然的だった。


 何処から流れて来たかも分からないそれは、私の手元を離れれば誰に拾われるか。拾われないのか分からない。一つだけ確かなのは、これを持ち帰ろうが持ち帰らまいが、私の人生には影響しないだろうし関係せず、瓶に詰めて机に飾りでもしない限りこの海の記憶も薄れて霞んで、全く鮮やかには思い出せなくなるということだ。


 理由のない休暇に理由が必要なように、何もしないということが罪とされるこの時代に、私がした無意味な行動に理由をつけたがる日が来るかもしれない。それなら、今日この一日で私が身に染みさせた日の光と、目を焼くような砂の色と、遠く聞こえる白波の音とを憶えているように努力しよう。理由なく不快に思う潮の匂いも、肌を突き刺す砂浜を走ろうと努力して馬鹿をした一日を、何事もなく憶えていよう。


 温い海水が足を浸し、引き、そして浸す。

 ふやけた日常も悪くない。今日はどうしようもなく、夏だと思った。




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