11 山を渡り 森を駆ける  

 高橋一は各地を巡っていた。


 大学に職を得た三十代の頃は、現地調査で地方の山里や沿岸部などへ入っていたが、職を辞してからは気にかかっていたあるものの調査に出かけていた。

 

 それは彼がまだ二十代の頃亡くなった、父の言葉を思い出したことから始まった。

 死の間際に残した言葉。

「俺が、小さい頃亡くした、弟の、弟の魂を、奪った鬼を、探してくれ。

 弟の魂を、あの、鬼から、解放してやってくれ。」

 

 父に弟がいたなんて知らなかったし、これまでそんな話しを聞いたこともなかった。

 だから、父はいったい死の床でどんな夢を見たのだろうと思うだけで、深く考えずすぐに仕事に紛れて忘れていた。

 

 彼は子もなく連れ合いと二人暮らしだったから、退職した後は夫婦で旅行や趣味にと悠々自適な余生にすることも出来たはずだった。

 ところが元々冷え切っていた夫婦関係を修復することが出来なかった。

 

 急に暇を持て余すようになったせいだろう。父をこの頃よく思い出した。

 あんなに気にしていた鬼とはなんだったのだろう。

 

 そして記紀神話、昔ばなし、お伽話、黄表紙、錦絵、古文書、古民家の襖の裏張など、あらゆる文献から鬼に関することを洗い直していった。

 

 そんなことをしているうちに妻には先立たれてしまった。

 まったく悪いことをしたと悔やんだ。

 温かな思い出も作ってやれず申し訳のないことだった。 


 彼には孤独が付きまとう。

 母は早くに亡くなっていて、ずっと父と二人暮らしだった。

 その父は常に留守がちだったから、親戚の家に預けられてもいた。


 父と出かけたことも遊んだ記憶もない。

 彼自身、家族での楽しい思い出はなにひとつなかったのだ。


 思い返してみると、父はずっと探し続けていたような気がする。

 それはもう憑りつかれたように探し回っていたのではないか。

 

 妻が亡くなった後に残ったのは、父の昔の姿とあの言葉だった。

 もしかすると父は、孤独を紛らすためににすがっていたのではなかったのか。

 父もまた孤独に付きまとわれるたちだったのだろう。


 そして高橋一は巡っていた。


 鬼の伝説の地である鞍馬山、葛城山、吉野、叡山、熊野から鈴鹿山とその周辺を。 

 今度は自分がそれにすがっているようだと思った。


 だが、老年期に差し掛かろうとしている身体には堪えた。

 山歩きには慣れていたが、ここのことろ体力の低下が著しい。

 

 ある日、山へ入ってすぐ寒気がしたと思ったら震えが止まらなくなった。

 膝にも力が入らず、眩暈もする。


 快晴だったのに霧が出てきたように辺りが薄ぼんやりしてきた。

 少し休もうと道端の倒木に腰をおろそうとした。


 下を向くと周りが大きく歪んで、そして、そのまま崩れ落ちた。

 ゆっくり地面に突っ伏し、そこで記憶がなくなった。


 気が付くと、どこかの小屋の板敷の上に寝かされていた。そばには人影もある。

 起き上がろうとしたら白装束に黄色い袈裟懸けけさがけの人に止められた。

 そのまま休んでいろ。もう救急車が来る。なんともいえない穏やかな声だった。

 

 それが最初の出会いだった。 

 あれから何年になるのだろう。

 

 頭に頭襟ときん、首には念珠、そして右手に錫杖しゃくじょうという出で立ちで、彼は今、熊野本宮から大峰山へ入り、玉置山を越えて北へ向かっていた。

 

 釈迦ヶ岳を抜ける予定だったが、もうすでに鈴懸すずかけ結袈裟ゆいげさも脱いでいた。

 板についた山伏装束だったが、今日はなぜか着心地が悪く途中で外していた。

 

 共に行動していた者たちはまだこない。ひとり無暗に進んでいた。

 焦ることはなにもないのに。


「あなたは、常に何かに追われているかのようだ。

 全てを山々にゆだね、己を解放し、神仏の叡智に繋がる。

 それが肝心です。」

 最古参の頭はいつも穏やかに語る。

 

 高橋一は焦っていた。

 でもその焦りがいったいどこからくるのか分からなかった。

 修行を始めてから体力は向上している。気力も若い頃より漲っている。


 ただ探しているものの正体がつかめないでいる。

 それを背後から誰かに責められているような気がしてくるのだ。


 ところがそんなとき思わぬ出来事があった。


 どこか見覚えのある小さな建物を目にした。

 辺りはすっかり変わってしまっていたが。

 

 杉林からのぞいている古びた外壁や玄関口に確かに覚えがあった。

 そして、その建物の処分のために来ていた彼女を見かけたのだ。


 遠い昔一時期、家庭の温かさを味わったあの親戚の家と小さな女の子。

 それが一瞬にして目の前に甦った。生涯心に残っていた光景だった。


 年は取っていたが、その声や話し方、仕草にかつての面影を見た。

 だから、声をかけずにはいられなかったのだ。

 

「あ、き、ちゃん?」「ええっ、と、あなた、どなたです・・・」

「ぼくだよ、ぼく、はじめ、だよ、はじめ。あきちゃん。」

 

 それが運命の再会だった。

 彼女の中にも遠い情景が浮かび上がってくる。


「大きくなったら、はじめちゃんの、およめさんに、なってあげるよ。」

「大きくなったらきっと、あきちゃんは、ぼくのこと忘れてるよ。」


 山々と一体になる修行では五感が研ぎ澄まされる。教義体系はもう習得していた。

 それが相まってまったく思いがけない、理性的な説明のつかない事象を引き寄せる。


 そしてもうひとつ。

 

 山歩きのある日、予定のなかった場所に出た。

 それは屏風岩の前だった。鈴鹿山の「大嶽丸」で知られている場所だ。

 

 気になる場所でもあったから、これまで何度となく訪れていたが。

 その日はここを進む行程ではなかった。間違えようのない道だったのに。

 なぜかここへ来ていた。それがどうにも不思議だった。


 もう早い月が出ていた。峰の向こうに赤い月が見えている。

 月明かりが岩に反射して、表面に動くものがあった。


 吸い寄せられるように近付き食い入るように見つめた。

 それはまるで幻灯機から映し出される映像のようだった。

 

 次から次と映し出されるそれは無声映画のようだった。

 しばらくして気が付いた。

 これは屏風岩の前で繰り広げられたもの。これまでの記録ではないのか。


 そこから彼が変質していく。

 彼のすべてが記憶と共に溶け出し、

 父親の嘆きと怒り、解消されなかった自分の孤独が、再び彼を形作る。


 そして亜紀。彼女を守らねばならなくなった。

 それができるのは自分だけ、自分にしかない力が今ここに沸き起こる。


 一足飛びに森を駆け降りていた。

 と思う間もなく、今度は山々を空の上から見下ろしている。


 身体が自由自在に浮き上がり駆け回る。手をかざすだけで周りがよける。

 ・・・これは、なんだ・・・なにが起こっている・・・

 信じられない力を手にしていた。

 

 

 と次の瞬間、まったく違う場面にいた。

 病院のベッドの上。枕元には彼女がいた。

「はじめ、さん」

「亜紀ちゃん、頼みが、ある、んだが・・・」

 

 彼は人としての自分の最期の姿を見ていた。

 

 


 

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