6 あき と はじめ
亜紀は夕飯のお味噌汁を作っていた。揚げとねぎを入れて、あとはお味噌を入れるだけ。塩サバはもう焼けるし、キュウリの塩もみもいい感じだ。
明日香に見せるチラシはクリアファイルに入れてテレビの前に置いといた。
今日見せようと思っていたのに忘れていたのだ。明日にでも来てくれるといいけど。
五月の連休にオープン予定の、近くのキャンプ場の案内と場内にあるアスレチックの無料券だ。これを明日香にあげようと思っていたのだ。小さい頃から身体を動かすことが大好きだった孫に。
連れ合いの健がまだ元気だった頃は、忙しく働く娘夫婦の代わりに小さな明日香をあちこち連れて行ったものだ。
健はバイク好きで、明日香を後ろに乗せてよく走っていた。キャンプ場だって、県内はもとより山の向こうの隣の県まで出かけていた。
「大きくなったら、一緒にツーリング、いこうな、明日香。」
「どんなバイクがいいかな、明日香は」
小学校の入学式を終えたばかりの孫は困ったように笑っていた。
昔のことがやけに思い出される。浮かんでくるのは楽しいことばかり。
ほかに誰もいないのに、思わず忍び笑いになっていた。
だから、気が付かなかったのだ。
「あ、き、さん・・・」
「ふふふっ、」
「あき、さん、」
「ん?」
何だか誰かに呼ばれたような気がして、耳をそばだてたけれど静かだ。
気のせいだったようだ。
ところが、
「あきさん」今度ははっきり聞こえた。すぐ後ろから。
「ん、・・・」驚いて振り向くと、そこに、彼がいた。
「えっ、」言葉に詰まった。
そこには、先週亡くなったはずの、高橋一がいたのだ。
「は、じ、めさん?・・・」
死の間際よりずい分若返ったように見える。やせ細り息も絶え絶えだったのに嘘のようにはつらつとしている。
そして身に着けているものはあの装束。これから山へ入るのかと思う出で立ちだった。
怖いとは思わなかった。ただもう驚いただけだ。
その横顔に、いたずらがばれて苦笑いしていた、あの遠い昔の面影があったせいだ。
「どう、したん、です?」
それしか言葉のかけようがなかった。
「実は、あきちゃん、頼みがあって・・・」
子どもの頃の呼び方と消え入りそうな声に、亜紀もつられて
「え、なに?なんだって、はじめちゃん。」昔のように答えていた。
ちいさい頃、あきは、はじめによく遊んでもらった。
はじめとは十も離れていたが、ふたり暮らしのはじめの父が留守がちで、
普段の食事や身の回りの世話をあきの母がしていたから、まるで家族のようにすごしていた。
中学生の男の子が、まだほんの三つか四つの女の子の相手を嫌がらずしてくれていた。本当の妹のように思ってくれていたのかもしれない。
「大きくなったら、はじめちゃんの、およめさんに、なってあげるよ。」
「大きくなったらきっと、あきちゃんは、ぼくのこと忘れてるよ。」
「そんなことない。ぜったい、ぜえーったい、およめさんになって、
ずっといっしょに、いてあげる。」
(だから、そんな、かなしい顔しないで、はじめちゃん。)
ふと遠くに目をやり、ため息をつくことの多いはじめだった。
早くに亡くなった母親を思ってか、帰ってこない父親を思ってか、悲しい目をしてぼんやりしていることが多かった。
それもあきが小学校に入る頃までだった。
はじめの父親の事情で引っ越していくと、それからは行き来がなくなり、いつの間にか消息も途絶えた。再会したのは五十年後、二人、もういい大人になってからだった。
そして今、彼は、あの世とこの世の狭間、黄泉の国へ一緒に行ってくれないかという。そこにいるある人に、どうしても会わなくてはいけないのだと、そういうのだ。
戸惑い、躊躇したが、その熱意に亜紀は渋々承知した。
ふと気付くといつの間にか、子どもの頃の姿になったあきがいた。
そして、同じように子どもに戻ったはじめに手を引かれ、トンネルの入り口に立っていた。黄泉の国はこれを抜けた先にあるという。
大きなトンネルだった。そこへ一歩また一歩と足を踏み入れていった。
岩盤をきれいに削って造ったようなそこは、照明はなかったが、ちょうど夕方、黄昏時のような薄ぼんやりした明るさだった。
ふたりの足音だけが響いていた。
ちいさなあきは、進むうちに段々楽しくなってきた。まるでハイキングにでも行くような気楽な足取りで鼻歌まで出てきた。
しばらく歩いていると向こうの方に、丸く切り取ったような出口が見えてきた。
そこですぐにあきは目隠しをされた。
「いいかい、ここからはとても怖いところだから、決して目を開けてはいけないよ。一応目隠しはしたけど、これがいつ外れるかわからないし。
そんなことになっても、ぜったい、目は閉じていてね。」
なぜ目隠しをするのかよくわからなかったが、それも何かの遊びのようで楽しくなっていた。
「うん、わかった。」ひとつひとつが、何にしても楽しくて、あきはここへ来た目的が何だったのか、いつの間にか忘れてしまっていた。
また歩き出すと、足の裏にはまったく違う感触がした。ざくざく砂利を踏む音がする。外に出たのだ。
目隠しの布越しにでも辺りの明るさがわかった。それは温かな柔らかな明るさだった。そしてほのかに花の香。頬をなでる風も柔らかだったが、怖いところといわれ、あきははじめにぴったり身を寄せた。
次に、今度はふかふかの草の感触がした。
そしてそこで立ち止まったはじめは、あきの手を前に伸ばして、木の幹なのか、その肌に触れさせた。「桃の木だよ。いいにおいもしているね。」という。
「ぼく、ちょっと、用事をしてくるから、ここで待っててくれるかい?
すぐに帰ってくるからね。」
「えっ、はじめちゃん、どこに行くの?あき、ひとりはいやだ。いやだよ。」
あきは、ひとりなんて、いや。いっしょにいくよ、とぐずった。
「大丈夫だよ、すぐに帰ってくるから。」
そういわれても、べそをかきそうになったが、
「そうだ、待ってる間、数を数えていてよ。この前、教えたよね。」
困っているような声になったはじめに、あきは、急に罪悪感がわいてきた。
そして「うん、わかった、わかり、ました。」
むりやりにでも聞き分けのいい、あきになろうとした。
「かずを、かぞえるんだね。いくつまで、かぞえたらいいの?」
「そうだね、百までにしとこ。できるだろう?」
「ひゃくまで・・・うん、できる」
「よしじゃあ、行ってくるよ」
「いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、しち、はち、くう、じゅう、・・・」
一生懸命数えた。数えることにだけ集中した。
途中つっかえてもう一度最初からやり直した。同じ数を口にして、わからなくなってまたやり直した。あきは次第に時間の感覚を失くしていた。
突然誰かに肩をつかまれ、あきは「きやあー」と叫んでいた。
「ごめんごめん、お待たせ、」はじめの声に、あきはほっとした。
「もう、はじめちゃん、びっくりしたよ」
ほっとして、思わず目隠しの布を額に押しあげてしまった。
「あっ、だめだよ、あきちゃん」
辺りはテレビか何かで見たことのある景色だった。
低い木々が広がる果樹園の中、遠くまで小高い丘が広がり見晴らしのいい場所だった。丘のすぐ下には川が流れていた。
(なーあんだ、ちっともこわいとこじゃないじゃない)と思ったのだが、はじめにすぐに抱き寄せられ、あきは顔を隠されてしまった。
そのとき、ちらりと目の端に、何者かの姿を捉えていた。遠くの丘の上に立つ誰か。こちらを凝視しているようだ。
時代劇で見たことがある鎧武者に見えた。
腰に刀を帯びている。兜はつけていないから、顔を見たような気もする。
「はじめちゃん、あの人、だれ?」「いいから、そのまま目を閉じていて」
「はじめちゃん、はじめちゃんったら・・・」
息苦しくなって身をよじったが、はじめは強くあきを抱きしめて離さなかった。
それはまるで懸命にあきの姿を見られないようにするかのようだった。
「あれはね、昔むかしのお話しに出てくる偉いお人だよ。
ぼくはあの人に、会いに来たんだよ。
もう用事は終わったから、帰ろうね、あきちゃん。」
「もう、かえれるの?よかった。やっとかえれるんだね。」
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