あと3000文字

Planet_Rana

★あと3000文字


 あと三十分。講義の時間まで三十分を切った。


 脳裏に浮かぶ過去の自分。机の上にぶちまけられた筆記用具と、涎のハンコがついた算数ドリル。ああ、今何時だと顔を上げてみれば時計の針は六時を回っていて、それはそれは大層に驚いたのをついさっきのことのように思い出せる。

 夏休みは一カ月あると思われがちだが、実際にはもっと短いケースも存在する。例年のカリキュラム内容の改定やら大人の事情やらで、外を走り回れない程暑い猛暑日が増える一方、休みの日にちが増えることはない。

 さて、昨夜途中で力尽きた算数ドリルのノルマは果たして何ページだったか。書き取りの宿題は今日の提出では無かったはずだが悲しいかな真っ白である。自由研究は課題が見つからずに塩の結晶をつくろうとして失敗した。毎年なんのコンテストに応募しているのかも分からない紙粘土貯金箱も、例年通りペットボトルを覆うだけの簡易な物にした。絵日記はまっさらなので、提出日デッドラインまでの猶予を使って妄想の思い出を語り上げるつもりだった。

 宿題を最後までやらない派だった私には、その夏の半時間がとてもとても長いように思えてならなかった。やらないというよりは、やれなかったというべきか。子どもは遊ぶのが仕事で、寝るのが仕事だ。遊んで疲れて眠る。その繰り返しをした夏は確かに充実していたし、休暇そのものを体現していたといえるだろう。だがしかし、往々にして幼少期に所属しうる団体は「宿題」なるものを休みの期間に課すのである。休みとは、休む為の期間ではなかっただろうか。

 小学校だろうが中学校だろうが高校だろうが、果ては専門学生や大学だろうがそれは同じことで、人によれば生活費を稼ぎながらこなすものである。体感で七日なら遅い方で、一カ月など瞬く間に過ぎると理解してからは休みが休みだと感じられなくなった。これが社会人になれば金と人と信頼が関係してくるというのだから、人間は何とも生き辛い生活スタイルに収まったものだとつくづく思う。


 講義まで二十分を切った。時計の秒針が一周するのにかかる時間は六十秒の筈だが、目でそれを追いかける時間すら惜しい。タイピングの為に動かす指先が攣るのではないかと思うほどバタバタバタバタと大粒の雨が降る様な、高速タップダンスを踊るかのような軽快さを伴なって「あいうえお」の五文字を雨のように羅列していった。コントロール+Aを押してデリートし、また「あいうえお」を羅列する。

 正直、諦めている。宿題を真面目に仕上げられたことはないし、それを誤魔化せるほどの好感度も持ち合わせていない。教授が講義室に現れたらそれが単位の終わりである。通年授業の四単位を落とした瞬間、私の留年が決まるのだった。


 さてさて、言葉の羅列をどう使おうか考える内に残り十五分をきった。最早手元のノーパソが「くぁせfgyjこ」と意味を成さない文字を入力している。完全に脳内がパーリナイで全ての事象がどうでもいい。どうしてこんな残念な人間が小学校を無事に卒業できたのか分からないし、大学に入学して四年生まで浪人せずにやって来られたのかが分からない。謎だ。謎が多い。なぞなぞなどと打ちこんでいる内に講義開始まで十分を切った。あと十回腕時計の針がぐるぐるぐるーっと回ったら教授が来てしまう。こんな事になるなら昼休みの時間に仮眠をとるんじゃなかった。課題の内容は論文で、とてもじゃないが完成とは程遠い出来のテキストが上部数十ページを埋め尽くしている。不安で不安で仕方がない、夏休みの二カ月間顔も合わせずメールもしなかったゼミ生に彼はどのような反応をするんだろうか。当たり障りない論文を書くことがこんなにも難しい。日本語ってどうだったっけ、敬語ってなんだ、謙譲語が挟みたくなる。専門用語ばかりでとても分かり辛い。自分でも読めない文章を他人に差し出すのは辛いことだ。残り五分を切った。タイムアップだ。もう、ここから三千文字の挽回は不可能である。私は「あああああ」とあをあああああと入力しつづけてあああああと打ちこみながらゼミ部屋の壁に貼られたカレンダーと時計と鳴り響いた鐘を脳内で反芻して反芻して飲み下して机に突っ伏す。


 しかし、誰も来ない。パソコンの画面が「あ」で埋め尽くされた。手を放し、スマホを開く。追加の連絡も入っていない。どうやら、来ないらしい。


 バクバクと動悸が収まらない心臓と共に、震える指先でスマホを開く。


 後期第一回目の講義は、二十四時間前の出来事らしかった。




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