第16話 妙な味

   *由奈由*


 水無月さんと、ザクロくんと別れて、私は一度家に帰った。荷物を地面におろし、姿見で全身を確認する。

 可愛らしい髪型と、服装になっていた。


 きっと、水無月さんが強引に誘ってくれなかったら、こんなことにはならなかっただろうし、ザクロくんが選んでくれなかったら、こんな素敵な服にはならなかっただろう。何より、髪を切るつもりなんて、一ミリもなかった。


 カールした髪にふわりと触れる。店員さんが塗ってくれたワックスの匂いが鼻腔をくすぐる。

 髪の毛を切った時の常として、明日この状態をキープできるとはまるで思えないが、今日この瞬間は、水無月さんの言葉もあって、自信を持ってデートにいけそうだ。

 私は日課である仏壇の前に行った。この姿の前でここに立つのは、父と母が見ているわけもないのに、少し恥ずかしいような気がした。


「ただいま」


 ちんと、りんを鳴らし、数秒手を合わせる。


「よし……!」


 立ち上がり、買ったばかりのバッグに、手荷物を詰め替える。もうすぐ、約束の時間だ。同じく買ったばかりの靴を履き、家を出る。靴ずれが少し心配だから、無理をしないように。

 外に出ると、夕陽が目にしみた。眩しさに目を細め、歩き出す。

 待ち合わせ場所は、昨日出会った公園だった。学校から家までの、ちょうど中間にある位置だ。


 待ち合わせ時間のちょうど15分前についたのに、キリクさんはすでにベンチに腰掛けていた。

 長い足を組んで、カバーのついた文庫本をめくっている。服装は昨日とほとんど変わらず、黒一色の長いコートを身に纏っている。

 落ちた夕陽が、もう夜の始まりを告げていて、その光の加減もあって、写真に収めたくなるような情景だった。もちろん、そんなことは盗撮になるので、やりはしないけれど。


「お、お待たせしました……!」


 声をかけるときは、緊張した。本から顔を上げて、キリクさんの青い瞳が私を捉える。彼は私の様子に、ちょっと驚いたようだった。


「可愛いね」


 シンプルな一言。

 それだけで、どくんと胸が高鳴ってしまう。頬の熱に、冷めろ、冷めろと念じながら、平静を装う。


「あ、ありひゃとうございます」


 免疫がなさすぎて、無理だった。

 そんな、緊張と動揺が100%伝わってしまうような返事をしてしまう。くすりと笑ったキリクさんが立ち上がって、歩き始めた。慌てて、その背中を追いかける。


「行こう、ユナ。お店は調べてあるんだ。イタリアンは好き?」

「あ……、はい。好きです」

「そう。よかった」


 その笑顔を見上げたいのに、カッコ良すぎて、まともに視線を合わせられない。だから、隣を歩いているのに、ちょっと不自然なほど距離が空いてしまう。

 と、背後から急なエンジン音が響いた。急スピードで通り過ぎていく。近すぎる、と言うほどの事もないけれど、その音にびくんと反応してしまう。


「大丈夫?」


 壁際で少し震えていると、キリクさんが近づいてきてくれた。うなづく。そこから、キリクさんはずっと道路側を、私とペースを合わせて歩いてくれた。

 小さな気遣いと優しさに、嬉しさが溢れ出てしまう。


 キリクさんに案内されたのは、住宅街にぽつんとあった一軒家レストランだった。近所に住んでいるのに、こんなところにイタリアンレストランがあるなんて、初めて知った。

 一見、ただの住居と言った風貌だが、入口付近にOPENと書かれたプレートがある。ここがレストランであるという心持ちで見てみれば、石畳やうさぎの置物やセンスの良い寄せ植えなんかは、いかにもお店らしいような気がした。


「いらっしゃいませ」


 からんころんとベルの音。

 室内は外側から想像していたよりも広く、カウンター席やテーブル席が、ゆったりとゆとりを持って整列していた。出迎えてくれたのは年配の女性で、身内だけの小さなお店を、丁寧に営んでいる様子が伺えた。


 奥の席に案内され、向かい合って腰を下ろす。

 すぐにおしぼりとお水がやってきて、テーブルに2組並べられる。

 目の前にキリクさんが座っているという状況に、心臓がとくとくと高鳴っていく。どうやら、予約をしていてくれたようで、コースのお客様ですね? と確認された。


 コース、という単語に高級そうな気配を感じ、びびってしまったが、メニューをちらりと盗み見ると、5000円くらいだった。それが高すぎるものではないことに安心するが、高いのか安いのか、どう判断したらいいのか分からなかった。居住まいを正す。


 目の前のキリクさんの表情は読めず、爽やかな笑顔でにっこりと、私を見つめている。大抵の女子がいちころになりそうな美貌の笑みで、大抵の女子である私はくらくらしてしまう。

 店員さんがやってきて、テーブルにワイングラスが置かれた。慌てると、「ノンアルコールだよ」とキリクさんが言った。

 ワイングラスに注がれる、発泡する淡い色の液体。


「乾杯」


 キリクさんがグラスを軽く持ち上げて会釈をした。私は彼と同じようにワイングラスの膨らんだ部分をそっと掴み、軽く持ち上げる。

 一口含むと、意外なことに、甘い風味が広がった。これは……美味しい。まるでジュースのようだが、ジュースのような甘ったるい甘さではなく、風味の奥に酸味がある。なるほど、お酒というのは大人のジュースみたいなものかもしれない。


 ノンアルコールという言葉を疑うわけではないが、お酒のような味と感覚がして、くらくらする。雰囲気に酔ってしまっているのかもしれない。

 その後、自家製フォカッチャと前菜の盛り合わせが、テンポ良く運ばれてくる。

 作法がまったくわからないので、優雅に振る舞うキリクさんに、何もかもを合わせていく。パンも前菜も、とても美味しかった。手はさくさくと進んでいき、皿が空になる。次の料理までは、しばらく時間があるかもしれない。


「あの」


 会話がないことに耐えきれず、口を開く。


「良かったんですか……今日、私なんかをさそって」


 うん? というように、小首を傾げるキリクさん。


「お礼と言われても……大したことはしていませんし、この街には探している人がいて、来たんですよね」

「うん、そうだね。でもそれは大丈夫だよ。知らない街で、1人でご飯を食べるのは寂しいからね。こうしてユナとご飯を食べれて嬉しいよ」


 にっこりと笑みを浮かべられる。

 1人で食べるご飯は寂しい。その感覚は、とても分かるものだった。

 高校に入学してから1ヶ月。友人と席を囲むクラスメイトたちを尻目に、私はいつも1人だった。教室で1人に耐えきれず、学食に行っても結局は1人。隠れるようにパンを食べて、図書室に駆け込むことも一度や二度ではなかった。


 でも、今日のお昼には水無月さんがいた。

 それがどれだけ嬉しくて、救われる気持ちだったかは分からない。

 異国の知らない街で1人、という感覚もそれと似たようなものかもしれない。

 次の料理が運ばれてきた。ミネストローネのようだった。

 キリクさんの作法を見ようと顔をあげる。すると、キリクさんは私をじっと見つめていた。


「それにね……」


その真剣な眼差しに、思わずごくりと唾を飲み込む。


「昨日も言ったと思うけれど、ボクが探していたのは、君かもしれない」


 それは一体、どんな気持ちで言っているのだろう。

 心の奥底を知りたくて、青い、宝石みたいな瞳を見つめ返す。1秒、2秒……慌てて視線を逸らす。自分でもはっきりと分かるくらい、顔が、ゆでだこみたいに真っ赤になってしまった。


「あ、あの……! すみません、少しお手洗いに……」


 鞄を手に、そそくさと席を立つ。キリクさんは何も言わなかった。

 店の人に案内され、お手洗いにいく。鏡を確認すると、やはり真っ赤だった。髪を整えながら、気持ちを落ち着かせようと試みる。

 しかし、落ち着け、落ち着け、と繰り返すと、逆に落ち着かなくなってきてしまった。


 多分、なんの気もない言葉なんだろう。彼のような人が、私なんか相手にするはずがないし……。で、でも、もしも、万が一、そんな気持ちがあったらどうしよう……。


 妄想はぐるぐると回転し、どんどん頬が熱くなってしまう。

 しかし、頬が冷めるまでいつまでもトイレにいるわけにもいかず、私は用を済ませて出ていった。

 キリクさんは私が戻るまで、スープに手をつけていなかったようだ。


「す、すみません」


 構わないよというような、小さな笑みが返ってくる。席に座り、キリクさんの作法を真似て、私はスープを口に含んだ。

 緊張のためか、スープは、妙な味がした。

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