こじれ

荒川 麻衣

第一部 「母」と私

一、


 私はその人を常に「母」と呼んでいた。だから、ここでもただ、母と書くだけで本名は打ち明けない。これは、個人情報保護と言うよりも、その方が私にとってしっくりくるからである。私はその人の記憶を呼び起こすことにすぐ「母」と言いたくなる。スマートフォンに音声入力しても心持ちは同じことである。よそよそしい頭文字などはとても使う気になれない。


 私が「母」と知り合いになったのは山形である。その時、私はまだ5歳であった。休暇を利用して、私と、父と、母と一緒に住んでいた山形の家に、「母」が訪ねてきたのである。私は山形までの生活を気にいっていたので、この馴れ馴れしく話しかける人は誰だと私は思った。父と母も押し黙っており、私はこの、顔のない「母」と、もう1人を、本当に恐ろしい人間のように感じていた。


 山形の家は、市内では辺鄙なところにあったと記憶している。私は山形での生活を覚えていないため、友人とどのように過ごしていたのか、同窓生はどうしていたのか、幼稚園で、近所で、仲良くなった人間が、今どうしているのかがはっきりと覚えていない。


 もし有名になったとして、私の前に名乗り出てきたところで、その人のことを私は記憶していないのである。顔も名前も全て忘れてしまったので、山形に関しては、ただぼんやりとした、暖かなぬくもりが残っているのみである。

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