Ⅵ
——父は……皇帝は、どこへ行ったのかな。
——わからない。だが、オマエのことを簡単に諦めるとも思えない。
——わたしのこと、探してる?
——かもな。
——……。
——そんな顔するな。何も心配しなくていい。
——……わたしの心配はしてないよ。ただ、島のみんなが危ない目に遭うのは、いやだなって。
——……守るから。
——え?
——全部、オレが守るから。島のことも。オマエのことも。全部。
——……マリスが言うなら、きっと大丈夫だね。……ねえ、マリス。
——どうした?
——……ありがとう、わたしのこと見つけてくれて。ここに、連れてきてくれて。
わたしのこと、お嫁さんにしてくれて。
❈ ❈ ❈
実に小気味のいい音を弾ませて、鍋の中でコーンが躍る。ひとたびポンッと爆ぜれば、固い粒が白いふわふわへと形を変えた。さながら小さな魔法のよう。
乾燥させたコーンを密閉して加熱しようだなんて、いったい誰が考えついたのか。もう何度目かの感動に、ジーナは目を輝かせた。
「終わったと思っても、まだ爆ぜてないのが残ってるかもしれないからね。蓋を開けるときは気をつけて」
「はい。……お鍋、ちょっと揺すってみてもいいですか?」
「いいよ。ゆっくりね」
ルテアの指示を仰ぎつつ、円を描くようにゆっくりと鍋を回す。
すると、最後にポンポンッと、ふたつの白いふわふわが咲いた。
「すっげ! うまそ! 食ってもいい?」
「もちろんです。少し冷まして味つけするので、ちょっとだけ待ってくださいね」
ちょうどルテアの食堂へと遊びに……もとい、肉を届けに来ていたテオが、カウンター越しに身を乗り出してジーナに迫った。
熱々のポップコーンに塩とバターを絡める様子を、食い入るように見つめる。鼻孔をくすぐる香ばしい匂い。あまりの手際の良さに、思わず見とれた。
「ジーナ、ほんっと料理上手くなったよな。マリスも上手いし。お前んちの食卓、強すぎだろ」
「セオも上手いだろ。あんたも練習しな。教えてあげるから」
「んー、肉も魚も焼くのは自信あんだけどなー。料理ってなったら、てんでダメ。俺は食う専門でいいや」
「テオさん本当においしそうに食べてくれるので、とっても嬉しいです。たくさん食べてくださいね」
「ジーナ……!!」
感激のあまり、まるで崇めるような視線をジーナに送る。テオには見えた。ジーナの後ろに差す光輪。
最初こそ値踏みするような嫌味な態度をとってみたけれど、まったくの杞憂だった。ジーナの指に光る指輪に、たとえようのない喜びが込み上げてくる。
差し出されたポップコーンを勢いよく頬張れば、優しい味が口いっぱいに広がった。
「あまりこいつを甘やかすなよ、ジーナ。調子に乗る」
そこへ、仕事終わりのマリスがやってきた。テオの隣に腰を下ろし、足を組んで頬杖をつく。「お前の嫁さんの料理めちゃくちゃうまいぞ」とテオが言えば、「知ってる」と誇らしげに笑った。
「マリスも食べる?」
「いや、今はいい」
「飲み物は?」
「あー……氷水もらえるか?」
「それだけでいいの?」
「ああ」
「わかった。ちょっと待っててね」
パタパタと忙しなく厨房を動き回るジーナに、おのずとマリスの口もとが綻ぶ。食堂での所作も、すっかり板についてきた。
サクラは島外からの人出も多く、それが食堂の客層にも反映されている。最近ではジーナの料理(というよりジーナ本人)を目当てに来る客も増えており、マリスはいささか複雑な心境をかかえていた。
けれど、今まで極端に人との関わりがなかったジーナにとって、好ましい傾向であることは間違いない。何かあれば自分が守ってやればいいだけのこと。そう、マリスは明るく捉えるようにした。
「港の拡張工事、順調に進められそうか?」
いまだジーナのポップコーンを口に詰め込みながら、テオが尋ねる。マリスが持っていた図面から、彼の今日の仕事を正しく推測したらしい。
海に囲まれたサクラは、連邦内での水揚げ量がもっとも多い。世界でも有数の漁場で、昨年の漁獲高は過去最高。それに伴い、漁船の増大や港の拡充を計画している最中なのだ。
「ああ。政府も協力的だしな。あと少しで詰められそうだ」
「そっか。……やっぱお前すげーな」
「なんだ突然。頭沸いたか?」
「純粋に褒めてんだよ! 素直に受け取れ馬鹿!」
まるで犬がじゃれつくように、マリスの銀髪をくしゃくしゃに撫で回す。まごうことなき愛情表現の一種だが、マリスは至極迷惑そうにその手を払いのけた。マリスが睨みつけるも、テオはどこ吹く風。ダメージなど皆無である。
先代の長であるマリスの父が亡くなったとき、マリスはまだ元服していなかった。だが、島民はマリスを次期長として強く望んだため、マリスが元服するまでの繋ぎとして、テオの父親が代理を務めたという経緯がある。
当時、テオは元服したばかり。そのとき父親から言われた言葉を、テオはずっと胸に灯し続けている。
「マリス……!!」
突として轟いた声に、呼ばれたマリスをはじめ、全員の視線が集中した。
声の主はセオだった。苦しげに息を切らしながら、屋内へと駆け込んでくる。
尋常ではないその慌てように、同じ顔のテオが駆け寄った。
「んな慌ててどうしたんだよ。らしくねーな」
そう。いつも沈着冷静な彼にしては珍しい。生まれたときから一緒にいるテオでさえ、はじめて見る様相だった。
「……何があった?」
幼いころからともに過ごしてきたマリスもまた然り。だからこそ、努めて冷静に振る舞った。
マリスの問いかけに、乱れた呼吸でセオが答える。
「……っ、帝国艦隊だ……!!」
室内の空気が淀む。
カルヴァリアは、まだ死んではいなかった。
「視認できるだけで、沖合に四、五隻……もしかすると、後ろにまだ……っ」
「皇帝のヤツ、ただ逃げ隠れてただけじゃねーってこと?」
「そんな……。目的は、やっぱり……」
双子とルテアの視線が、ジーナに向けられる。
予想していなかったわけではない。近い将来、こうなることは覚悟していた、つもりだった。
けれど、いざ直面すると、激しい恐怖に体がすくむ。
自分のせいで島が危険にさらされる。自分のせいで島民が傷つけられる。自分のせいで——。
「オマエは何も心配しなくていい」
「マリス……」
「すぐに戻る。だから、オマエはルテアとここにいろ」
「で、でも……っ」
「ジーナ」
カウンターの上できつく握られたジーナのこぶしに、マリスがそっと手を添える。
ぴくっと、ジーナの手が跳ね上がった。怯え、震える手に、マリスが優しく力を込める。すると、震えはおさまり、少しだけこぶしが緩んだ。
「言っただろ? 全部守るって」
マリスの双眸に宿った、揺るぎない信念。ゆらゆらと、めらめらと、まるで炎のように美しく燃え立つ。
ジーナを娶ったあの日からずっと……否、ジーナを見つけたあの日からずっと、運命に挑む覚悟はできていた。
ジーナは、一度だけ強く肯くと、マリスの手を握り返した。泣き出しそうになるのをぐっとこらえ、夫を、仲間を、信じて送り出す。
島の空は、今日も高く澄み渡っていた。
白い波頭をかき分け、巨大な戦艦が近づいてくる。
風にはためく軍艦旗は、まごうことなき帝国の表徴。城が落ちた今、以前のような勢いがあるとは思えないが、残滓と決めつけるにはまだ早い。
マリスの指揮のもと、海岸線にサクラの戦士たちが集結した。短時間で臨戦態勢を整え、真正面から待ち受ける。
歴史上、島が戦場となったことは一度もない。攻め込まれそうになったことは幾度かあれど、いずれも上陸間近というところで海が荒れ、戦わずして勝利をおさめているのだ。
「……撃ってこねーな」
アイガードから鋭い目つきを覗かせ、テオが呟く。
すぐそこまで迫っているというのに、一向に砲身を構える気配がない。それどころか、前進してくるのは一隻のみで、残りの艦は海上にとどまってしまった。
「油断するな。やつらの目的は明らかだが、手段は不明だ」
ジーナを連れ戻しに来たのなら、ジーナに危害が及ぶような真似はしないだろう。他害により出血云々の言い伝えも、皇帝が知らないはずはない。ゆえに、直接の手出しも難しいはず。
ならばどうするか。
マリスは、得も言われぬ不気味さを感じずにはいられなかった。
翡翠色の美しい湾内に、一隻の戦艦が投錨する。やはり、と言うべきか。後方の戦艦たちが、一斉に砲身を高く掲げた。
軽々しく手は出すな。そう、威嚇している。
「お前か。連邦一の戦士というのは」
まるで地を這うような野太い声。
兵を従え、艦から降りてきた人物と、マリスはついに対峙した。
白髪交じりの金髪に、蒼い目をした初老の男。
カルヴァリア帝国皇帝アングイス二世——ジーナの父親である。
「……真名を渡したか」
マリスの首筋にくっきりと浮かぶ紋様を見つけ、皇帝は忌々しそうに吐き捨てた。この紋様が何を示すのか、何がきっかけとなって発現するのか、すべて知っているようだった。
「ここへ来るまで半信半疑だったが、やはり生きていたか。……アレを返せ。アレはお前の手に余る代物だ」
「断る。ジーナはオレの妻だ」
皇帝の言を、マリスは剣で薙ぎ払うようにぴしゃりとはねのけた。
腹が立ってたまらない。これが愛する妻の父親など。
いまだかつて激昂したことなどないが、娘を娘とも思っていないこの態度に、マリスははらわたの煮えくり返る思いがした。
「気に入らん目だ。……アレの母親と同じような目をする」
白髪交じりの眉を吊り上げる。再度忌々しそうに吐き捨てると、皇帝はすっと右腕を上げた。
ズド・ン
後方に停泊している戦艦が、一発の砲弾を発射した。宙に向かって放たれたそれは、緩く弧を描きながら、少し離れた港に命中した。凄まじい衝撃とともに水しぶきが上がる。並んでいた数隻の漁船が、粉々になって海底へと沈んでいった。
「出てこいジーナ!! 聞こえただろう!! お前のせいで島民が死ぬぞっ!!」
ジーナを傷つけるリスクを回避する最大の方法。それは、ジーナがみずからの意思で皇帝について行くこと。
娘の優しさにつけ込み、とことんまで追い詰め、がんじがらめにする。とても血の繋がった父親の所業とは思えない。
「野、郎……っ!」
「テオっ!」
今にも皇帝に切りかかりそうな弟を兄が制した。とはいえ、兄とて寸分たがわず気持ちは同じ。必死で理性を保っている。
「次は民家だ」
感情を顕わにすることなく、皇帝は淡々と言い放った。その内側に滾るのは、執念。狂気とも呼ぶべき執念だ。
「……」
マリスの中で膨張する、冷たい怒り。氷柱のように鋭利な視線を、静かに皇帝へと突き立てる。
有事こそ冷静であれと、父から教わった。しかし、島を侵され、民を傷つけられて、自分は冷静さを保つことなどできるだろうか。それに——。
マリスは懸念していた。港への着弾も、皇帝の声も、きっとジーナに届いている。責任感の強い優しい子だ。聞こえないふりなどできるはずがない。もし、この場にジーナが来たら——。
その懸念は、無情にも現実のものとなる。
「マリス!!」
海岸へと続く丘の上。
ルテアの制止を振り切って、一目散にジーナが駆け下りてくる。もつれそうになる足を必死に動かして走ってくる。
「……っ、来るな!!」
はっとしてマリスが叫ぶも、ジーナの足が止まることはなかった。
マリスが駆け出す。後方で呻き声がした。振り向くより先に、激しい戦慄にかんばせを歪めたジーナが見えた。
「テオさん!!」
虚空を劈くジーナの悲鳴。
マリスがジーナを注視していた隙を突き、帝国兵士ふたりがマリス目がけて躍りかかった。とっさにテオが割って入ったが、ひとりを仕留め損ね、腹を切られて地面に沈んだ。
「……き、さまぁあぁぁぁっ!!!!!」
この状況に誰よりも早く反応したのはセオだった。
血を吐かんばかりに叫び声を上げ、テオを切った帝国兵士の胴体に容赦なく長槍を突き入れる。胸当てを貫通させるほどの剛力。そのおぞましい姿は、まさに鬼神そのものであった。
ついに、戦端が開かれた。
皇帝が青ざめた顔でしきりに何かを訴えているが、戦闘の喧騒にかき消され、誰の耳にも届かない。剣戟の響きと鉄の臭いが、あたり一帯に充満する。
「後方へ運んで手当てを!! 早くっ!!」
血溜まりの上でマリスが指示を飛ばす。戦士たちが兵士たちを薙ぎ倒しながら向かってくる。
不意に。
「……マ、リス……」
テオが口を開いた。
力なく泳いだその声を、マリスはしかと受け止めた。
「テオ、喋るなっ!」
「い、いから……っ」
「!」
渾身の力を込めて、マリスの腕をぐいと引き寄せる。マリスの耳もとに、自身の口を近づける。
呼吸が定まらない。寒気もしてきた。それでも伝えなければと、テオは命を削って喉を震わせた。
胸に灯し続けた父親の言葉が、声が、脳裡に蘇る。
——いいか、テオ。マリスと、あいつが選んだ花嫁を、必ず守り抜け。……お前が守るものは、この島の未来だ。
「向こう側の、海岸に、船を用意してある……。俺たちが、時間を稼いでるあいだに、ジーナを連れて、島を出ろ……」
「……ふ、ざけるな……そんなことできるわけないだろう……!」
「ふざけてねーわ……こちとら、いつでも大真面目だっつの。……お前たちさえ生きてれば、島は、死なない……」
守るべきは、島の未来。
マリスとジーナ。このふたりが、島の未来だ。
「早く、行け……っ」
「……っ!」
血まみれの体のいったいどこに、こんな力が残っているのか。
テオは、マリスを突き飛ばすと、ふらつく足をもかえりみず、次々と兵士たちを切り殺していった。迸る血は、もはやどちらのものかわからない。その形相は、先ほどのセオとうりふたつ。
島のために鬼神と化した、おぞましくも勇敢な戦士。
「マリス……」
マリスの苦悩が、ひしひしと、ジーナの胸に迫ってくる。
迷っている。いつだって揺るがないこの人が。島を、民を、導いてきたこの人が。
テオは言った。ふたりで逃げろと。でも、本当にそれでいいのだろうか。
自分がいるばかりに。自分のせいで。
血と鉄が渦巻くこの場所から。生と死が峻烈にぶつかり合うこの場所から。
目を背けて。逃げて。
本当に、それでいいのだろうか。
……いいわけない。
自分は、マリスの——この島の長の、妻なのだから。
「ジーナ……っ!!」
ひゅっと、マリスが喉を鳴らした。
眼前の敵に応戦するため、ジーナから体を放した、一瞬のことだった。
負傷したテオを援護するセオと、襲いかかる兵士のあいだに、ジーナは両手を広げて駆け込んだ。セオはとっさに槍を引っ込めたが、兵士は間に合わず剣を振り下ろした。どうにか回避を試みたらしかったが、逡巡した
双子が叫ぶ。倒れ込んだジーナをマリスが支える。裂けた皮膚からどくどくと鮮血が溢れ出す。
刹那。
それまで雲ひとつなく晴れ渡っていた空が、急に暗澹と垂れこめた。
分厚い雲が、島の上空を覆う。
しだいに強くなる風。視界を奪うしのつく雨。
嵐が、巻き起こる。
ド・ン
一撃の落雷が、大地に突き刺さった。まるで何かの怒りが顕現したかのような轟音と閃光。
その瞬間、ジーナを切った帝国兵士が、悲鳴を上げる間もなく消え去った。
文字どおり跡形もなく消えてしまったその光景に、全員が息を呑む。
そうして、雲間から悠然と降り立ったのは。
『<竜の子>を傷つけた愚者に裁きを』
夢の中で何度もジーナの真名を呼んだ、あの巨大な白竜だった。
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