月はチーズでできている
ペチカ
1 既知との遭遇
「月はグリーンチーズでできている、って
わたしは知りませんとこたえた。「無理もないわね。北欧の言葉らしいから」わたしは面接官さん——ではなく、今日からわたしの上司になるらしい狐崎さんの速足についていくので必死だった。
一週間前、わたしはネットでみつけた求人に応募した。必要な情報を入力して送信ボタンをクリックすると、ものの数秒でメールが届いた。あす面接できるか、という内容だった。あまりに急だったので驚いたが、私はそれを受けることにした。
電車で一時間くらいの地方都市の駅を降り、バスに揺られること四〇分。車窓はどんどん緑色に染まっていき、じきに畑と水田とまばらな民家しか見えなくなった。結局、そういう景色すら見あたらない薄暗い山間部へとバスは突進していった。気がつくと乗客はわたしだけになっていた。
山肌の隙間に白い建物が見えて、それは最初ダムかなにかに見えた。その建物の前にはバス停のポールがぽつんと立っていて、停車したバスはその横にわたしを放りだし、来た道を引き返していった。わたしはその施設へと入り、狐崎さんに面接を受け、電極のようなものを左手に握りしめながら心理テストみたいな質問用紙(「あなたは動物を飼ったことがありますか」「一年のうち何月が好きですか」「猫とウサギ、どちらが好きですか」といった奇妙な内容)に記入した。
翌日合格の連絡が来たので、住んでいたアパートの部屋の引き払いなど諸々の手続きを済ませ、今日、初出勤日を迎えたのだった(狐崎さんは、そんなにあっさり就職を決めて本当に大丈夫か、と何度も聞いた。そして、引越しに係る手続きや、寮の部屋に必要そうなものの購入まで手伝ってくれた)。
「どういう意味の諺なんですか」
わたしは狐崎さんにきいた。すると、狐崎さんは振りかえって不思議な表情でわたしを見たあと、言った。
「そのままの意味でしょう。乗るわよ」
見計らっていたかのように、チンと音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。
🌙
エレベーターは7階で止まった。清潔な、音のない廊下の先に、両開きの厳めしい扉があった。狐崎さんがノックすると、ドアの向こうから「どうぞ」と男性の声がきこえた。狐崎さんは少し力を込めてドアを開けた。わたしは狐崎さんの後ろについて部屋に入った。
まず目についたのは、丸一面壁を抜いたような大きな窓だった。冬枯れの山を映すその窓の手前には、重厚なデスクと革張りの椅子が据えてあった。その座席には白いウサギが手を組んで座っていて、 傍らにはメガネをかけた黒いウサギが控えていた。黒目がちな4つの目がこちらを見つめていた。ウサギがいる、とわたしは思った。
「やあ、よく来たね。所長の本田です。きみが丹羽くんだね」
白いウサギは低音の効いた良い声でわたしの名前を呼んだ。
「狐崎くんから、期待の新人だと聞いていますよ」
「所長、あまり褒めると調子に乗ります」
バイオリンをつま弾いたように張りつめた、それでいて滑らかな声で、黒いウサギがそう言った。
「ははは。手厳しいな宇留賀くんは。大丈夫だろう、狐崎くんの見立て通りの子なら。ほら、この状況で、全然表情変わってない」
「驚き過ぎて気を失っているのでは」
「む? そうなのかい?」
狐崎さんが小声で大丈夫か聞いた——わたしは大丈夫ですと答えた。
「それは良かった。それにしても、色々と混乱していることだろう。なにぶん急だった上、説明も少なかった。お察しの通り諸事情ある施設でね、許してくれたまえ。だが安心してほしい。これからきみの目に映るどんなものも、喋るウサギよりは、だぁいぶましだろうからね!」
所長はそう言って高らかに笑った。黒いウサギは黙ったまま、五月蝿そうに耳を畳んだ。
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