第11話 少年院にはいりキリストに巡り合えて本当に良かった
野田師は、悪さの世界、暴走族の世界では、人から認められるスターもどきだった。
腕力が強いとか、ビビらずに悪いことをするとか、度胸があるとか、警察に捕まってもチンコロ(仲間の名前を密告)しないとか、そんなことで、悪さの世界では、同じ仲間から評価を受ける。
そんな狭い社会の中での評価が、かつての私にとってはすべてだった。
しかし、今の野田師は「更生を果たして、今度は他人の更生を支えるモデル的人物」と評されて市民権を得たように勘違いし、良い気分になることもある。
でも、自分の本当の心を知っている私は、真実で誠実な人間とは言えないこともよくわかっている。
また、更生支援という、こんなに裏切られることが少なくない活動は、しんどいからやめようと思うことも時にはある。
どこからも予算がつかず、持ち出しばかりの活動の大変さに、やっぱり自分にはこんな活動は向いていないと思うこともある。
それでも、自分と同じような境遇で非行に走った少年を助けたい、協力してあげたいというのも本音である。
結局、野田師に力があるからできている活動ではない。
野田師に情熱があるから、愛があるから、そんな英雄的な要素などない。
ただ、自分が少年院の中で、聖書のおかげで、天を恐れて生きることを知ったから。虚しい罪を犯していても、そのときは寂しさと不安を紛らわす刺激にはなるが、幸せにはなれないと知ったから。
反社が金儲けのとき使う「シノギ」という言葉通り、そのときは雨風をしのげても、そんなものが長続きするはずがない。
すべてはムダではない。
野田師は少年院に入って良かったと心から思う。
きっと、少年院に入っていなかったら、現在のような生き方を選択することはできなかっただろう。
現実は、マイナスはマイナスでしかない。
マイナスは帳消しにはできない。でも「あの時期を通って良かった」と思うことはできるし、新たなプラスを作ることもできる。
野田師は、少年院のなかで、このまま悪の道を進むか、それとも人生をやり直すか、その狭間で真剣に考えた。そして、キリストを信じて、やり直そうと聖書を熱心に読んだ。
「聖書の御言葉は生きていて力があり、骨をも突き刺す」(聖書)
もし、あのとき人生をやり直す生き方を選択していなかったら、今頃、野田師は野垂れ死にしているか、刑務所の中だったろう。
野田師は、十九歳のとき、少年院の中で、神の視線を感じた。
不思議だが、あの日以来、人生の方向性は百八十度変わった。
その神の視線は、今も変わりなく私に注がれていて、私は毎日それを肌身に感じている。
そして、野田師は否応なく気付かされた。私の信じている神は、野田師が悪事を働かないかと見張っているのではなく、野田師を見守ってくれている神だということを。
このことは、私自身よりもあてはまる。
私が初めてキリストに触れたのは、小学校二年のとき、母から「イエスキリスト」という絵本を買ってもらったのがきっかけだった。
母はクリスチャンではなく、当時私の家は浄土真宗 門徒であり、家には仏壇があり、月に一度お坊さんに拝みにきてもらっていた。
しかし、お坊さんが帰ったあと、部屋中になんともいえないドロドロとしたムードが蔓延していたことを覚えている。
クリスチャンでもなかった母がなぜ「イエスキリスト」の絵本を選んだのか、不思議であったが、のちに母は私が飲酒癖から解放されたことがきっかけで、イエスキリストに祈るようになった。
その後、小学校五年のとき、クラスメートに誘われて現在通っている地元の教会に通い始めた。
五人で待ち合わせして、毎週教会の日曜学校にかよっていた。
初めて手を組み、目を閉じてお祈りをしたとき、闇の向こうに細く淡い一筋の光が見えたのを今でも覚えている。
現実は暗闇であっても、神は未来から光を与えて下さるのだと実感した。
クリスマスのキリスト生誕の劇のとき 天使のドレスのかわりにネグリジェを代用したのを覚えている。
中学に入学してからは、私一人だけがときおり教会に通うようになったが、中学一年の春にフェイドアウトしてしまった。
しかしその後も、別の教会に通い続け、十年前から元の教会へと戻ってきた。
現在は、長老とピアノ奏楽を担当している。
教会も現在は、限界集落状態である。
若い人はほとんど来ることはなく、高齢者が多いが、その高齢者も年月と共に来られなくなってしまう。
私にとって、教会の礼拝は一週間のかなめである。
教会にたどり着いたとき、今までの一週間は終わり、礼拝が終わったあと、これからの一週間が始まる。
牧師から「あなたほど神に愛されている人はいない」と言われたことがある。
確かに三年前から、疲労回復のために週三回飲んでいた日本酒一合もきっぱり断酒することができたのも、たった一度の祈りのおかげである。
野田師同様、私は神という水のなかでしか生きていくことができない。
神の水はときには肌に心地よいときもあれば、皮膚を刺すほど冷たいときもある。水槽のように身を守ってくれるときもあれば、身体ごと襲ってくる荒波のようでもある。
しかし、いつも神は信じる者を、ベストな方向に導いて下さる。
犯罪者に幸せな家庭の人は、誰一人いないという。
野田師も例外ではなかった。
「世の中はどうしてこんなに不公平なんだ。俺の家庭はどうしてこんなに恵まれていないんだろう」
野田師は小さいときからいつも独りぼっちで、おなかをすかせていた。
そういった地元の仲間や、同じような境遇の人たちに、一緒に悪さをやめようと本気で声を大にしただけだ。
野田師は自分が不完全で弱く足りないからこそ、私に与えられている使命だと感じるから、この更生活動をさせてもらっている。
そう、自らの力で裏切られることも少なくない更生活動ーどこからも予算がつかず、持ち出しばかりの活動の大変さに、やっぱり自分はこんなしんどい活動は向いていないと思うこともある。
このように不完全で弱く足りないからこそ、私に与えられている使命だと感じるから、この活動をさせてもらっている。
野田師は、こんな自分でも変われたから、どんな非行に走った人でも変われる、やり直せると言いたい。
野田師が面倒を見た少年のなかで、行方知らずになった人もいるが、のちに更生して自ら自動車修理工や塗装の会社を立ち上げ、社長として経営しているという知らせがあるたびに、ああ、やっぱり自分のやってきたことはムダではなかったと歓喜に震えることもある。
どこからか、目には見えない神の力が働いていたのだろう。
非行にはしった少年のなかには、事情があって親と一緒に暮らせず、児童養護施設で育ち、非行に走った少年少女と関わることは少なくない。
彼らが非行に走れば、児童福祉から切り離され、さらに自立が困難になる。
頼れる大人も周りにはそうそういない。
最悪の場合、暗号資産の投資詐欺など、若者を狙ったマルチ商法まがいに巻き込まれるケースもないとはいえない。
最も現代は、投資を勧誘しただけで、犯罪に問われることもあるというが。
困った顔をしている若者に狙いを定め、デート商法まがいのやり方で、クレジットカードやサラ金で借金させるという。(NHKスペシャルより。4月23日までNHKプラスで放映中)
なかには誘われるままに、サラ金から借金をして投資をした挙句、自殺をした女子大生もいるくらいである。
一部の投資は、商品の無い実態のないマルチ商法、ネズミ講といわれるが、まさにその通りであり、金額は徐々に膨らんでいく一方である。
気がつくと、借金だらけで首が回らないという事態に陥ってしまう。
まず、執拗に勧誘してくる投資会社、そして契約書も領収書もない会社、自動車ローンなどで借金を強要してまで投資させようとする会社には要注意!!
新学期の季節、法律にも疎く相談相手もいない新入生は、カモにされているといっても過言ではない。
特に女の子の場合は、帰る家も住む場所もないと、悪い男に引っかかって売春や風俗で働かされたり、言うことを聞かせるために覚醒剤を覚えさせたりすることもある。いわゆるシャブ漬けというパターンである。
そんな毒牙にかかる前になにかできないかと、祈りに力が入る。
「受け入れる住居と財力、スタッフを与えて下さい」
今できることは限られているが、いつかこの祈りがかなえられることを期待していると、現在はNPO法人チェンジングライフ活動をし、そういった少年を受け入れている。
非行のなかでいちばん厄介なのは、薬物依存であろう。
そのためにも「ティーンチャレンジ」の存在は必要不可欠である。
依存症からの回復には、本人の「やめたい」という意志が大事だ。
だから、本人の意志を確かめることが大切になる。
親や周りに「薬物をやめろ、ギャンブルをやめろ」と言われて更生施設に入っても、本人にやめる気がないなら、回復は難しい。
野田師は、ティーンチャレンジ沖縄センターの所長である山城氏に相談した。
山城所長は、ティーンチャレンジの生徒を依存症から回復させるプログラム全般を導く、現場のプロフェッショナルである。
実はテモテ氏は十三年間、薬物の蟻地獄の中にいた。自ら選んだ道とはいえ、クスリ漬けの日々、数年刑務所に入っても、結局は病院と警察を行ったり来たりの往復の日が続いたという。
ところが、母親の半ば強制的な強い勧めで教会に通うようになったことがきっかけになった。その教会の牧師が必死に捜してみつけてくれた、ハワイにあるクリスチャンのリハビリ施設、それがティーンチャレンジ・ハワイセンターだった。
さまざまな体験を通して神を信じるようになり、薬物からも解放された。
野田師は、いつも自分が牧師には向いていないのだろうかと自問自答することがある。辞めたいと思ったことは、星の数ほどである。
しかし祈るたびに神は
「今、お前はそれでいいんだ。お前のやり方で続けていけばいい。私(神)がついてるではないか」
野田師は神によって生かされている。
医療少年院で知り合った少女は、紆余曲折を経て都会の韓国人牧師の教会で、ピアノ奏楽をしていた。
おとなしいガラスケースからでてきたような人形のような彼女は、ある日教会で覚醒剤で医療少年院出身であることをカミングアウトした。
そのあとで、教会員の女性から「覚醒剤ってフラッシュバックとかあるっていうけど大丈夫?」
すると彼女はすかさず「いや、イエス様がいるから大丈夫です」
彼女のキリスト信仰のきっかけは、野田師が彼女のいる医療少年院に福音を伝えにいったことである。
少年院を退院した彼女は、その後の生き方について悩んでいたが、野田師の福音を聞いて「この道だ。私もこの道を進みたい」と野田師と同じ神学校へ入学したという。
現在、彼女は神学校で知り合ったさわやかな青年と結婚し、子供も授かっている。
そう、野田師も彼女もイエスキリストによって生かされているのである。
イエスキリストは弱い人の味方であった。
社会的にも見下げられていた人に、いつも寄り添っていた。
当時の女性は、一人前とはみなされていなかったが、イエスキリストを最初の伝えたのは、なんと当時売春婦であったマグダラのマリヤであった。
人類の罪の身代わりになって十字架にかかり、三日目に蘇ったなどという荒唐無稽な話を、なんと売春婦というきわめて社会的に地位の低い女性が伝え、それを信仰する人が広まっていったとは、なんという奇跡だろう。
このことは人間の技ではなく、神の聖霊が働いたとしか言いようがない。
そして、これを書いている私も今、神によって生かされている。
私は神という水のなかでしか生きられない。
ときには肌を心地よく暖め、しかしときには肌に刺すような冷たい水であるときもある。
神の道は、さざ波のように私を呼んでくれるときもあれば、荒波のように呑み込まれそうになるときもある。
私は現在通っている日本基督教団 大阪住吉教会に通っている。
教会とは私にとって、一週間のかなめである。
教会にたどり着いたとき、私の今までの一週間は終わりを告げ、礼拝が終わったあと、新たな一週間が始まる。
教会にいかなければ、私は過去の嫌な思いにとらわれてしまう。
私は教会をさぼって仕事をしてもうまくいかず、遊びにいくと迷子になりかけることさえもある。
十年前からSNSの洪水のように押し寄せる膨大な情報によって、この世は押し流されそうになっている。
チャットGPTが出没してきたが、残念ながらその情報のなかにはフェイクも含まれる。過去の事実をもとに作られているので、これからはフェイクを見抜く洞察力、今までに類をみなかった神出鬼没ともいえる想像力を創造していく必要がある。
いくら世の中が変化しても、私の日常生活の継続、人生は教会によって生かされている。
ハレルヤ(神に感謝します)
ちなみにアーメン(神よ。その通りですので神に従いますの意味)
END(完)
(参考図書「私を代わりに刑務所に入れて下さい」著 野田詠氏)
隠れ宗教二世女と非行更生元暴走族 すどう零 @kisamatuma
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