島後観光
下船準備のアナウンスがあり、車両甲板デッキに。待つうちにランプウェイが開き、係員の誘導に従って、
『ガタンガタン』
フェリーを使ったツーリングでランプウェイから下りた瞬間が好き。ついに上陸したぞの感動と、これから始まる冒険にわくわくしてくるもの。ここが西郷港のターミナルビルなのか。七類港も立派だったけど、ここも負けず劣らずだ。道路の正面に見えているのは隠岐ビューホテルか。なかなか立派なホテルじゃない。
「まずメシや」
西郷の町内は鄙びてはいるけどちゃんと街だ。
「そりゃそうや。島後は全島が隠岐の島町やけど、一万五千人ぐらい住んどるからな」
コトリが選んだ店は民芸風と言うか蔵風と言うか、
「味乃蔵丼と隠岐そば」
店内には有名人の色紙がたくさん貼ってあるから、フェリーからも近いから御用達みたいな店かもしれない。味乃蔵丼は海鮮丼の事だけど、ビッシリって感じで刺身で埋まってるよ。
「隠岐の海鮮を食べてるって感じがエエな」
初っ端がこれならテンションあがるよ。お蕎麦の方は・・・う~ん、これは、
「十割蕎麦やからな」
蕎麦にはグルテンが含まれていないから麺にするのは難しいのよね。やたらと十割蕎麦を崇める人もいるけど、どうしたってぶつ切れ感が出てしまう。素直に小麦粉と合わせる方が良いと思うけど、
「隠岐の名物になっとるからな」
これも隠岐で食べたというのが重要なグルメよね。それなりに満足して出発。西郷の街から西郷大橋を渡る。隠岐にも空港があるのか。
「六便ぐらい飛んでて、伊丹にも羽田にも福岡にも行けるで」
なかなか便利じゃない。空港が目的じゃなくてその先にある西郷岬灯台に。あっちに見えるのが島前だ。さすがの眺望だよ。見終わると引き返して玉若酢神社へ。
「これが八百杉か」
隠岐の三大杉の一つで八百比丘尼が参拝した時に植えた伝説が残ってるとか。随神門と本殿は茅葺なんだ。ここは隠岐の総社とされてるけど聞きなれない神様だな。
「景行天皇の息子の大酢別命が隠岐に遣わされて、その息子が玉若酢命やそうや。国造になったんやろうが、玉若酢命の子孫が億岐家で、今でもこの神社の神主や」
それは古いよ。日前宮の紀家とか、出雲大社の千家とか北島家に匹敵そうな家柄だよね。この若玉酢神社があるのは甲野原と言うらしいけど、これは『国府の原』が訛ったそうで、この辺が古代の隠岐の中心だったそう。
そこからコトリの趣味で寄り道。北に上がって隠岐国分寺。現在の建物は二十一世紀の再建だけど、コトリの興味は後醍醐天皇の行在所。隠岐国分寺が行在所とされる理由は増鏡に、
『海づらよりは少し入りたる国分寺といふ寺を、よろしくさまにとりしひておはしまさむ所にさたむ』
こうあるのが最大の根拠かな。だけど島前の西ノ島にも後醍醐天皇の行在所して黒木御所跡があって争奪戦をやってるのよね。
「コトリはどっちも行在所やったと思うてる」
隠岐の守護は佐々木氏で、後醍醐天皇が隠岐に遠流された時が清高なんだ。この清高は執権の北条高時が烏帽子親で『高』は高塒からもらった諱になる。清高は幕府の引付衆にもなるのだけど、
「引付衆は評定衆に昇進できるエリートコースみたいなもんや」
評定衆は幕府の内閣みたいなものと思えば良いかな。つまりって程じゃないけど清高は幕府のエリートだったことになり、隠岐守護ではあるけど隠岐に在任しているわけじゃなかったのよ。元弘の変で後醍醐天皇が隠岐に遠流されるのだけど、
「ここが微妙ではっきりせんとこがあるんやが」
どうも後醍醐天皇が先に隠岐に着いて、それを追いかけるように清高が隠岐に監視のためにやって来たで良さそうなのよ。二人の到着時間にどれぐらいの差があったかは不明だけど、当初隠岐国分寺を行在所にしていたのを、
「西ノ島の黒木御所に遷したと見とるわ」
これが清高が隠岐に来てから黒木御所が建てられ始めたのか、後醍醐天皇の遠流が決定された時点で作られ始めたのかも不明だけど、引付衆の清高がわざわざ派遣されるぐらいだから、
「隠岐での後醍醐天皇の処遇の変更の命も清高は受けてたんちゃうか」
後醍醐天皇にとっては隠岐国分寺から黒木御所に遷されたのは冷遇だったかもしれないけど、
「結果として隠岐脱出のチャンスを得たかもしれんな」
来てみると良くわかるのだけど、島後と島前は遠いのよね。今だってフェリーで一時間以上かかるんだもの。当時の手漕ぎ船なり帆掛け船だったら半日仕事の気がする。
「清高がどこにおったかで変わるんやが」
コトリは島後にいた可能性が高いと見てるの。今も昔も隠岐の中心は島後だからね。もし清高が西ノ島に手勢を率いて後醍醐天皇を監視していたら脱出どころか、本州からの秘密の連絡さえ取れないはずだもの。
「清高も、そもそも隠岐から逃げ出すのは不可能と見とったんちゃうやろか」
これは後醍醐天皇がたとえ隠岐を脱出しても対岸の出雲守護が塩冶高貞だったからというのもありそう。高貞も清高の同族で、さらに清高は高貞を信用していたのはある。だって後醍醐天皇脱出後の追捕の協力を要請しているぐらい。
「塩冶高貞が脱出のキーやってんやろな」
後醍醐天皇脱出の手引きをしたのは高貞だろうって。後醍醐天皇だって隠岐を脱出しても出雲で捕まったら意味ないものね。出雲に味方がいるから脱出したはずだもの。
「計画通りにはいかんかったけど、結果オーライや」
出雲を目指した後醍醐天皇が着いたのは伯耆。だけどそこで名和長年の全面協力が得られて船上山の合戦で追いかけて来た清高を撃退し、これが鎌倉幕府滅亡につながっていくんだものね。
「なんで殺さへんかってんやろ」
コトリが言うには後醍醐天皇を隠岐に遠流しただけじゃなく引付衆の清高を送り込んだのは後醍醐天皇処分の密命もあったはずだって。その前段階が隠岐国分寺から黒木御所への移送で、これは同じ島後にいたら天皇殺しの疑いをかけれるからぐらいかもだって、
「その辺は政治や。あくまでも自然死に仕立てなアカンぐらいや。もっとも清高も自分の手を汚したあらへんかったから、冷遇の末のホンマの自然死を待つつもりやったんかもしれん」
歴史には常に『if』があるのだけど、あの時に清高が後醍醐天皇をさっさと殺していたら、
「どっちにしてもグダグダの太平記の時代になるのだけは変わらんやろ」
コトリはホントに南北朝時代は好きじゃないのよね。隠岐国分寺から屋那の松原に。ここも舟屋が有名みたいだけど伊根の舟屋のように住居と一体じゃなく、舟用の納屋が並んでる感じか、
「貸ガレージが並んどる感じやな」
島後のツーリングだけど制限がある。制限と言っても時間的制限で、これはコトリも頭を悩ましてた。神戸からだって隠岐は遠いのだけど、高速を使えば一日で行けるのよね。そうだね朝の三時ぐらいに出発すれば七類港の九時のフェリーに間に合うのよ。
ただね七類港の九時のフェリーがある意味ネックなのよね。島後の西郷に昼前に着くのだけど、到着した日は半日しかツーリングに使えない。隠岐に来たら島後だけじゃなくて島前にも渡りたいと誰でも考えるけど、
「翌日の七時半のフェリーやねんよな」
西郷を七時半だから、西郷に泊るしかない。つまり島後の観光に使える時間は一泊してるのに半日しかない事になる。ここでもう一つの選択がある。境港を十四時半に出航するフェリーだ。
これに乗れば西郷は十六時半到着だから、そのまま泊るしかないけど、翌日はフルにツーリングに使える。それだけあれば島後はほぼ回れるはず。
「その代わりに島後に二泊になる」
わたしたちは下道専科のツーリングだから、奥津温泉から十四時半のフェリーに乗ろうと思えば、ひたすら走るツーリングにしないといけない。そう、蒜山も大山も走り抜けるだけになっちゃうのよ。
「蒜山も大山も寄りたいやん」
隠岐を重視すれば蒜山も大山も吹っ飛ばすのはありだけど、ここまで来てるのに通り抜けるだけはもったいないぐらいかな。
「半日でもけっこう回れるで」
島後の観光スポットは海岸沿いだけでなく山の中にもある。いくら島でも両方を半日でカバーできないから、
「海岸線を一周や」
壇鏡の滝は割愛して次に訪れたのは油井の池。油井ってなってるから石油でも噴き出しているのかと思ったけど、
「ほとんど草で埋まってるな」
丸い池なんだけど、どうしてこんなくぼみになってるのか議論があるそう。シンプルには噴火口の跡だけど、隕石が激突したんじゃないかの説もあるそう。油井の池から次に目指したのが水若酢神社。
「隠岐一之宮や」
総社と一之宮の関係だけど、律令時代に国司として赴任すれば、その国の神社を順番に参拝する仕事があったそうなんだ。その一番目が一之宮で、当時は二之宮以下が序列化されてたはずなんだ。
これは国の広さにもよるけど、交通手段がプアな時代だから時間もかかるし面倒だってなったみたいで、国府の近くに各地の神社の祭神の分祀を集めた神社を作り、そこに参拝すればOKみたいにしたのが総社だそう。
「今かってあちこちにあるやんか。八十八か所とか、西国三十三か所とか」
発想的にはそっちか。この水若酢神社も古いなんてものじゃなく、古すぎて祭神である水若酢命が何者かもよくわからないぐらい。この辺は戦火で資料や記録が焼失したのもあるそうだけど、
「この辺は古墳群もあるさかい、古代から神聖地帯やったんかもしれん」
玉若酢神社が島後の南方の中心なら、水若酢神社は北方の中心ぐらいかな。
「どっちも若酢が付いとるから同類なんやと思うけどな」
玉若酢命は景行天皇の皇子の末裔になってたけど、それこそ古代では若酢族みたいなのが支配権を持ってたのかもしれない。
「出雲系の天八現津彦命の子孫から隠岐を奪ったんかもしれんけどな」
玉若酢は景行天皇の息子だからそうなるかも。こんな絶海の孤島で古代の支配権争いがあったのかもしれないけど、今となっては伝承すら残っていないのよね。
「隠岐風土記でも残っとったら良かってんけど」
全国で作られたはずの風土記も殆ど残ってないのよね。残っていて有名なのが播磨風土記と出雲風土記だけど、それ以外になると断片とか逸文でもあれば良い方で、隠岐風土記になると存在していたかどうかも不明の代物だものね。
「あったはずやねんけどな」
最低でも国府と朝廷の二部は作られてたと思うけど、紙は燃えるし、虫にも喰われるから、隠岐風土記みたいなマイナーなものを筆写する酔狂な人はあんまりいなかったんだろうな。
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