すったもんだで!②~お互いに『初めまして』はないでしょう!~
宇部 松清
第1話
密かに憧れていた人だった。
当然、恋なんて甘ったるい感情ではなく、ただ単純に、完成された芸術作品を眺めるような感覚というか、それが作られた環境やら経緯やらといったものをも含む歴史の重みといったような、とにかくそれを形作る全てに感謝するような、我ながら訳のわからない感情だった。
凛とした佇まいは、一試合終えた後でも何一つ崩れることはなかった。彼の背中はいつもまっすぐ伸びていて、ただそこに立っているだけで他者を寄せ付けないオーラのようなものさえあった。威圧感ではなく、神々しさといった。線そのものは細く、しなやかだ。だからこそ折れない。
デカくて、硬くて、頑丈そうなやつほど、案外ちょっとの力で脆く崩れてしまう。例えば縦方向からの衝撃には強くとも、横からの力には弱い、といったような弱点のようなものがあったりするのだ。
こいつには、それがない。
360°、どこにも隙がない。どこもかしこもしなやかで、何もかもさらりと受け流してしまう。対戦相手の竹刀を華麗に捌き、闘気をも削ぐ。お前の力では勝てないよと、静かに諭すように。
柳の木は雪の重みでも折れない。単なることわざなのか事実なのかは知らないが、その言葉がよぎる。あいつはどんな衝撃に対してもその物腰でさらりと流しちまうんだろう。
完成された芸術作品は、いわば神だ。信仰の対象になりうる。あまりに美しすぎるものに、人は手を伸ばせない。その代わりに伏して
けれどそいつは、芸術作品などではなく、生きている人間なのだ。全く同じではなくとも、きっと俺とも似たような感情を持ち、痛みだってちゃんとわかる、血の通った人間なのだ。
そう思うに至ったのは――、
会場の隅から聞こえる、啜り泣きの声。男のくせに泣くんじゃない、なんて言葉は、案外こういう場では耳にしない。彼らだって生半可な気持ちで臨んだわけではない。全力を出して、出し切ってもなお、全く届かなかったのだ。それまでの自分を、費やした時間をまるごと否定されたような気持ちになれば、男だろうが何だろうが涙の一つも出る。
その凛とした男は、面を外し、自分が打ち負かした相手をぼうっと見つめ、試合後の高揚でか赤く染まった唇を微かに動かした。生白い頬もほんのりと赤くなっていて、こめかみに汗が伝っている。
ごめん
その口が、そう動いた気がした。
それがその通りであったとして、何に対しての謝罪なんだろう。
自分の方が強くてごめんなのか。
それはあんたが謝ることじゃないだろ。
負けたやつが悪い。この場では弱いやつが悪いのだ。
勝ったやつが正義だ。この場では強いやつが正義なのだ。
少なくとも、これはただの試合で、命を賭けてるとか、そんなやつでもない。
おんおんと袖を濡らしていたそいつは、自分をじっと見つめるのが、先刻己を完膚なきまでに叩きのめしたやつと気づいたらしく、怯えたように身を震わせて、その場から逃げた。そいつだって地元では負け無しだったはずだ。さんざん持ち上げられてデカい顔してきたはずだ。だからこそ、この大会に出場しているのだ。
それなのに、その一睨み――最も、当人は睨んでるつもりもなかったろうが――で、まるでマフィアの大ボスに見つかった小悪党の如き卑屈さで、そそくさとそこを去ったのである。
それを見て、マフィアの大ボス……じゃなかった、細身の剣豪は、しゅんと背中を丸めた。
あいつも傷つくのか。
純粋に、嬉しかった。
あいつは彫刻でも絵画でもなかった。ただの、っていうのは語弊があるが、人間だったとわかったからだ。
とはいえ、それがわかったところでどうということはない。
俺はそいつとはこの先も何の接点もなく生きていくはずなのだ。俺はただ、友人の大会の応援に来ただけの、それも、一学年下の他校生だ。ちなみに友人はその年、そいつ――北海第一高校の門別大祐と対戦することなく終わった。彼の試合を見て「いやもう、当たらなくて良かったわ。俺、あんなのとやったら剣道辞めるかも」と怯えていたのが印象的だった。お前それ、先輩の前では絶対に言うなよ。
高校時代、それもほんの数回、その戦いぶりを拝見したというだけの関係だった。いや、俺が一方的にそう認識しただけだから、『関係』なんて言葉は不適切だ。言うなれば、まぁ、ファンってやつに近い。向こうは恐らく、俺の名前なんて知らないだろう。まぁ俺だって高校時代はそこそこやるやつだった……とは思うが、器械体操の方だしな。一応毎年全道には出たけど。全道止まりだったし、特に一年の時なんて散々な結果だったし。
どう考えても、全国レベルの剣士様に認知されているはずはない。
高校を卒業したらもう接点もないだろう。
と思っていたのだ。
が。
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