chapter2

 何故、猫でありながら人間の言葉を理解できているのか、等という陳腐な質問は受け付けない。気が付いた時には理解が出来ていたし、思えば生まれた時からだった気もする。受け付けないが、しかし、受け入れてほしい。

 ではどうだろうか。人間と猫の違いというものは、そう対して無いのではないか。見た目が違う?声が出ない?四足歩行だ?そうではない。そういうことではないのだ。吾輩は猫であるし、名付け親は人間である。あるがしかし、猫だって人間と心から通じ合えるのではないかと、そう言いたいのだ。

 では何故、猫であるお前がそのようなことに熱く語っているのか、という的を射た質問には、是非とも答えよう。それはある朝、吾輩が目を覚ますと人間になっていたからである。視点が高く、声も出る。おまけに二本足で歩けると来た。それに気が付いた時、吾輩は丸くない腰を抜かしたものだ。いやまて、しかし。どういう理屈だ、という阿呆な質問には問答無用で猫パンチだ。そんなの、吾輩が知るわけがないだろう。だがまあ、吾輩は馬でもなければ鹿でもない、猫である。こういう時に、どうすれば良いかの判断がつく。兎角、向かう先は馴染みの喫茶店である。


「老人よ、これはひどく困ったことである」

 喫茶店に着いた吾輩を出迎えたのは、白いひげの店員であった。

「どうしたんだい、スミ君。今日はひどく立派な物言いじゃあないか」

 スミ、というのは吾輩の名付け親の名前らしい。どこかで聞いたことがある気もするが、覚えてはいなかった。そして今、その名で呼ばれているのが吾輩である。一体全体、どういうことかって?それは、つまり……。

「吾輩は、猫である。名前はエスプレッソだ。が、今は何故かは知らぬが、人間である」

 つまり吾輩はいま、猫でありながら、身体は名付け親であるスミのものであったのだ。

「君がエスプレッソちゃんだと、そう言っているのかい?」

 困惑、というよりは適当に受け流しているような気がする。この老人は信じていないのだろうか。無理もない、吾輩にも受け入れがたいことではあった。受け入れなければいけないことでもあった。

「信じなくてもいい。しかし教えてくれ、如何様にして吾輩は猫の身体に戻ることができるのだ」

「わしに言われても、何もわからんよ。わしは生まれた時から人間じゃったし、今もなお人間じゃ」

 そう言い残すと、老人は定位置である出入り口際の丸椅子にどっしりと腰を据えて、雑誌をペラペラと捲り始めた。吾輩も大概であるが、この老人は何というか、猫以上に自由な人間だ。まあいい。基よりこの老人を宛に此処へ来たのではない。吾輩は、吾輩の身体を求めて此処へ来たのだ。

 吾輩の心は此処にある。ならば吾輩の身体には、誰の心が入っているのか。何となく予想はついている。予想がついているからと言って、いま吾輩がすべきことは特にない。だからまあ、吾輩は以前から気になっていた、珈琲というものを飲んで待つことにした。

「老人よ、珈琲を一杯頂戴してもいいだろうか」

 そう言うと、老人は雑誌を棚に戻してカウンターの正面に立った。

「珍しいじゃあないか、スミ君がわしに珈琲をお願いするなんて。自分で淹れた方が美味しいだろうに」

 吾輩は、珈琲というものを飲んだことは無い。猫には毒だと、そう言われているものの味など見当もつかない。だがしかし、今の老人の発言から察するに、この身体、スミの淹れるそれは、相当なのだろう。

「吾輩は猫なのだ。珈琲の淹れ方など知っていてたまるか」

「はは、それもそうか」

 老人はそうとだけ残すと、静かに珈琲を淹れてくれた。幾重にも及ぶ作業をこなす老人を見つめるが、しかしだからといって、この老人が何をしているのかは全く分からなかった。分かったことといえば、数分待って吾輩の手元に一杯の珈琲が置かれたことだけである。

「お待たせ致しました、当店のブレンドです」

「ありがとう」

 黒々としたその液体から、天に昇る白んだ湯気が、我輩の鼻先を燻る。それは我輩のよく知る匂いで、いつもスミの身体から発せられていた。深みのある匂い、だと思う。一瞬躊躇って、我輩はそれを口に含んだ……、途端に絶句した。

 かつて人間は、それを眠気覚ましの妙薬として飲んだという。良薬口に苦し、等と人間は宣うが、これ如何に。兎角、我輩は全身の無い毛を逆立てた。

「老人よ!珈琲とは、こんなにも苦いものなのか!」

「本当にどうしたんだい、スミ君。いつも飲んでいるだろうに……」

「いや、だから我輩は……」

 我輩は猫なのだ。と、続けようとして、それは遮られれた。店の扉につけられている、少し大きめの鈴が、カランカランと店中に鳴り響いたのだ。自然、そちらを向く。

「こんにちは、スミ君」

 ひとつ挨拶をすると、その女性は我輩の隣に腰を下ろした。我輩はこの女性を知っていた。この女性は……。

「いつぞやの姿勢の良い女ではないか」

 そう言うと、彼女は目を見開いた。

「え、どうしたの?!スミ君……」

 全く、我輩は毎度同じことを言わなければならないのか。面倒くさくて堪らない。しかし言わねばそれ以上に面倒くさくなりそうだから、言うのだけれども……。

「我輩はスミではない、エスプレッソだ。何故だかわからぬが、今朝からこの有様だ」

「エスプレッソ……ってあの、黒猫のエスプレッソちゃんのこと?」

「如何にも」

 それから、暫く沈黙が続いた。女は理解が追いついていないと言った様子で、老人は既に雑誌に目を落としている。我輩はというと、苦味を緩和するという魔法の白い粉を珈琲に入れ、先ほどよりも、幾分か飲みやすくなったそれを啜っている。これは以前、スミが客に対して言っていたことだが、これを入れると珈琲は甘く、飲みやすくなるそうだ。

「いやあ、これは本当に、スミ君ではなさそうだねえ」

 老人が、雑誌を閉じ、こちらに近づく。これはしかし、どう言う風の吹き回しなのか。先程までと打って変わって、老人は我輩が猫であると、気がついたらしい。

「先程から、そう言っている。しかし老人よ、こう言うのも可笑しな話だけれども、何故気がついたのだ?」

「スミ君はね、極度の甘いもの嫌いなんだよ。珈琲に砂糖なんて入れるはずがない」

 砂糖、と言うのはこの魔法の白い粉のことだろう。客に対しては、珈琲を飲みやすくするものとして紹介していたのだけれど、本人が苦手だったのは知る由も無かった。

「改めて聞くが、老人よ。吾輩は如何様にすれば元に戻るのか、知らぬか?」

「エスプレッソちゃんは、元に戻りたいの?」

 そう問いかけたのは、女の方であった。

「無論だとも、吾輩は猫であることに誇りを持っている。猫でないことなど考えられぬ」

 答えると、女は静かに「そう……」と呟いた。しかし心外だ。この女は、吾輩が猫に戻りたくないと、そう思っていたように感じる。

「女よ、吾輩は人間になりたい等と、一度たりとも考えたことは無いぞ。あまり人間の尺度でものを言うのはやめて欲しい」

「いえ、でもね、エスプレッソちゃん……いいえ、スミ君。あなたは今、人間なのよ?」

「……どういうことだ?」

「人間は時々、猫になりたくもなるんだよ」

 なるほど、この女の言いたいことが分かった。まあ、そう考えるのが、この女の目線では正しい判断だと思う。しかし現実とは、齟齬が生じている。吾輩は、もう言い返す気にはなれなかった。

「もう、よい。吾輩は吾輩の身体を探しに行く」

 そう言って席を立ち、その足で出入口の扉を目指す。見ると、その扉は締め切られていて、猫であれば入りようも出ようもないだろうと、思う。吾輩が訪れるときはいつだって、この扉は開いていた。開けていたのが誰だったのかを考えると、無性にそいつに会いたくなるものだ。それと同時に、ここには現れないということも、遅れて理解した。

「エスプレッソちゃん、もしスミ君と合流ができたのなら、鬼ヶ山の麓に佇む古い屋敷へ行ってみなさい」

 吾輩が扉のノブに手をかけようとしたところで、老人が言った。

「……そこに何があるというのだ?」

「わしの古い知り合いが住んどる。師走の知人だと伝えれば、きっと話を聞いてくれる」

 師走、というのがこの老人の名前なのだろうか。

「老人よ、いや、師走殿よ。お前は吾輩の話を信じているのか?」

「君がスミ君なのかエスプレッソちゃんなのか、わしにはその判断ができん。だから、その判断を知人に任せることにしたんだよ」

「……そこへ行けば、その判断がつくと?」

「ああ、つくとも」

 何故か、と聞こうとしたが、その先は女が引き継いだ。

「どうして、そこへ行けばわかるのですか?」

 その問いに対して、師走は少しだけ自慢げに答えた。もし、吾輩が人間ならば、その返答を鼻で笑ったかもしれない。しかし、吾輩は猫であった。人間の身体に移り住む、猫であったのだ。だから、まあ。そう言われれば、そういう類の人間がいても、何ら可笑しなことは無いと思った。寧ろ、いる方が自然にすら感じられた。

「何故って、そこに住むのが、魔女だからだよ」

 吾輩はそれに対して、「そうか」とだけ言い残し、店を出た。女も吾輩の後ろについてきた。何やら、自分の目で確かめたいとのことだ。もし、君がエスプレッソちゃんであったなら、君に謝らなければならない、とも言っていた。

 吾輩は何も言わなかった。もし気が付いたのなら、吾輩への謝罪などよりも、この女にはするべきことがあるだろうに。それをしないのは、吾輩に気を使ってか、はたまた、そうあるべきだと判断したからか。どちらでもよい。吾輩は、端から怒ってなどいないのだから。

 そんなことを考えながら、一人の猫は、女と共に日向の中に姿を晦ました。

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