第十八章

新たな道 一

 陸王りくおう雷韋らいは渓谷まで出て、そこから川下に向かって歩いた。豊富な水が流れる渓谷は、この先でいくつかに枝分かれしているだろう。憶測だが、その先には人の住む場所があるはずだ。陸王はそう考えていたが、残念ながらその日は太陽が西の彼方へ落ちても、人のいる場所に出ることは出来なかった。それどころか、川が枝分かれしている地点にすら届かない。陸王はこのまま夜に渓谷沿いを歩くのは危険と判断して、渓谷の脇にずっと続いている森で野営を張ることにした。


「なぁ、陸王。干し肉、二枚も貰っちゃってよかったのか?」

「構わん。特に今日は色々あって、お前も疲れただろう。食ったら寝ろ」


 焚き火の炎を眺めながら、陸王はなんのこともない口調で言った。


「でも、いいのかなぁ? 寝ちゃっても。陸王だって疲れてるだろ?」

「俺は俺で軽く仮眠を取る。魔族も暫くは出ねぇだろうから、お前はゆっくり寝てろ。まだ血も足りないんだろうが。あおちろい顔しやがって」

「ん~。だったら食ったら寝る。ほんじゃ、頂きま~す」


 言って、干し肉の一枚を口に咥えた。


 陸王も雷韋に倣って干し肉を口にする。板のように堅いが、口の中に入れているとじわじわと肉の味がしてくる。


 そのまま二人は堅い肉を囓ることに集中して、自然と会話がなくなった。


 と、雷韋が一枚目の干し肉の欠片を口の中に放り込むと、おもむろに話しかけてきた。


「明日はさ、人のいるところに出られるかな?」

「どうだろうな。川の流れに沿って歩いているが、まだここも渓谷と言えるような場所だ。もう少し地形が穏やかにならんと、人も住み着きにくいんじゃねぇか」

「って事は、取り敢えずは川が枝分かれしてる場所からってこと?」

「そうだな。この川は必ず枝分かれするはずだ。地形もその辺りから変わってくるだろう。俺達は川を遡りすぎたんだ。渓谷までやって来ちまうとは思わなかった」

「まぁ、うん、だよな。でも、陸王が睨んだとおり、魔族はいた」


 雷韋は、うんうんと頷きながら答えた。そのあと、ごろりと横になる。手にはもう一枚の干し肉が握られたままだ。それを見て、陸王は眉根を寄せた。


「おい、まだ食ってる最中だろうが。寝転ぶな。お前は全く行儀がなってねぇな」

「だって、肉囓ってるだけで疲れちまったんだもん。腹は減ってるけど、眠くなってきたぁ」

「きちんと食ってから寝ろ。そうすりゃ明日の朝までゆっくり寝かせてやる」

「でも、身体が泥みたいに重い。このまま崩れちまいそう」

「崩れても何してもいい。だが、飯だけは食っておけ」

「ん~、もう起き上がりたくない~」


 駄々をこねるように言って、雷韋はごろんと仰向けになって大の字になる。


「ったく、しょうがねぇガキだな。そのまま寝ると蚊に食われるぞ。せめて外套くらい身体に巻いたらどうだ」

「それも面倒臭めんどくさい」


 雷韋のやる気のない声を聞き、陸王は嘆息をつくと、雷韋の身体に無理矢理外套を巻き付けてやった。その間に雷韋は目を閉じて、完全に寝る体勢に入ろうとしたが、


「紫雲、今頃どうしてっかな?」


 雷韋が問うと、


「知るか」


 陸王が吐き捨てるように言う。


「なんか危険な目に遭ってなきゃいいけど」

「あんな奴のことは放っておけ」


 そこで少しの間が開いて、雷韋はおもむろに陸王に礼を言った。


「外套、あんがとな。陸王」

「お前はどこまでものぐさなんだ」


 呆れて言うと、雷韋はへへっと小さく笑った。笑ったかと思えば、次の瞬間には眠りに落ちていた。唐突に規則正しい息遣いが聞こえてくる。


「ったく、いきなり寝やがって」


 小さく呟いて、雷韋の頭をぽんぽんと撫で叩いてやる。


 雷韋の身体に巻いた外套は、両腕の部分がほとんど真っ黒に変色していた。魔気に当たって、盛大に出血したからだ。それを見て、街に行き着くことが出来たら新しい外套を見繕ってやらなければ、と思う。同時に、自分も新たに服を新調しなければと。紫雲に脇腹を掻き回されたせいで、上着の脇腹からズボンにかけて血塗ちまみれなのだ。


 それにしても今回、雷韋には無理をさせた自覚は充分にあった。横になった途端、眠りに落ちてしまったのもその証拠の一つだ。そんな雷韋を陸王はどこか痛ましげに見遣ってから、最後の一かけになっていた干し肉の欠片を口に放り込み、奥歯で噛み砕いた。


 陸王は、兎に角今夜は雷韋をゆっくり休ませてやろうと思った。明日になるか明後日になるか分からないが、人里まで出られたら、そこで少しゆっくりしてもいい。羅睺らごうが本当に自分を殺そうとしているとしても、知能のある魔族の全体数は少ない。だから、今度は日ノ本の二の舞にはならないはずだ。あのときは大量に魔族がやって来たが、ほとんどが下級の魔族だった。それこそ魔物と変わらなかったのに、どう斬ってもなかなか死なない魔族には手を焼かされた。日ノ本から出たことのない侍達には、魔族をどう相手取っていいのか分からなかったからだ。斬っても斬っても、手向かってくる。かろうじて魔族の殺し方を知っていたのは、陸王を大陸から連れ出した養父の童白どうはくただ一人。その指示に従ってある程度は殺せた。それでも仲間達は皆殺しになってしまった。相手が下級すぎて殺せなかったのだ。魔族の中には下位や中位もいて、下等な魔族に命を下していたのも原因だった。大陸に戻っ来てから戦場で湧いた魔族を相手にしたことはあるが、今回ので大陸に戻ってきてから魔族とまともに対峙したのは、あの小男の魔族を含めて三度目だ。一度目と二度目は偶発的に。三度目はこちらから近づくようにした。それから言って、遭遇する率が高いのか、それとも低いのか、簡単に判断出来そうになかった。相手側に目的意識があるとするなら、この先も何度もかち合うことになるだろう。しかし、今は大丈夫なはずだ。もう暫くの間なら。何しろ、今回の魔族は全て片付けたのだ。中位がほかに知らせを入れていなければ、時間稼ぎも出来る。ほかの魔族は陸王がここにいることを知らないだろうからだ。それから言っても、次に邂逅するにはまだ時間がかかる。簡単には襲ってこないだろう。だから、休めるときは休んだ方がいいと思った。


 陸王も、ほうっと息を吐き出してから、立て膝のまま目を瞑る。吉宗は左肩にもたせてある。浅い眠りでいいから、自分も少し休もうと思ったのだ。


 水音が途切れることなく続く中、雷韋は完全に寝静まっている。陸王がそれを感じながら、うつらうつらとした頃、何者かの気配を感じて目を開けた。その何者かは、かなり近い場所にいる。しかもその現れ方は、唐突としか言えなかった。気配は渓谷の方向にある。おそらくそこからなら、森の中に灯りが灯っているのが見えるはずだ。今更焚き火を消しても無意味だと思う。ならば相手をするしかあるまい。


 片膝をついて、吉宗の柄に手をかけた。陸王は夜目が利くわけではないから、気配を頼りに動くしかない。雷韋に声をかけたが、全く夢の中だ。


 徐々に近づいてくる気配に、陸王は己の中に緊張の糸が張るのを知った。が、近づいてくるに従ってはっきりする気配は知ったものだった。


 この気配は紫雲しうんだ。


 だが、何故紫雲がここに? それに唐突に気配を感じたのは何故だ。まるで、降って湧いたように気配が現れたのだ。決して眠りの淵にいて気付かなかったわけではない。本当に、唐突に現れたのだ。


 陸王は相手が紫雲だと分かっても構えをかなかった。現れ方が普通ではなかったからだ。


 気配が更に近づいて、今度は声が聞こえた。


「陸王さん、雷韋君?」


 辺りをはばかるような声音。その声に、当然ながら眠っている雷韋は反応を見せない。陸王も今暫く様子を窺っていた。するともう一度、陸王達の名を呼ぶ声が聞こえてきた。今度は姿も遠くに見える。下草を踏み分けて森に入ってきた風情だった。


 紫雲にも灯りで照らし出された陸王の姿が見えたのだろう。ほっとした声が聞こえた。


「あぁ、やはりここにいましたか」


 そう言って、下草をどんどん踏み分けて近づいてくる。その紫雲の声音には今までのような険が含まれていない。


 それに対して、


「今更なんの用だ」


 陸王は突っ慳貪に答えを返す。


 紫雲は焚き火の前までやってくると、座っても? と問いかけてきた。陸王は少し考えたが、それまでの構えを解いて座り直すと、紫雲にも空いている場所を顎で示す。有り難うございます、と礼を言って紫雲はその場所に腰を下ろし、眠っている雷韋の方に目を遣った。


「雷韋君、眠っているんですね」

「あぁ。それよりお前、あとを追ってきたのか」

「まぁ、そう言うことになるかと。私は大僧正から対を捜すことを許されていますから、自由に旅が出来ます。今回の件は書簡にて報告しようかと思っています。妖刀自体は消滅したのを確かにこの目で見ましたから」


 紫雲は雷韋から焚き火に視線をずらす。


 そんな紫雲に向かって、陸王はどこかぶっきら棒に問うた。


「で、今更信じたのか?」

「あれから、私なりに考えてみました」

「何を」


 感情のない声で聞き返すと、紫雲は陸王の方を見た。


「様々をです」


 陸王は何も言わずに、ただ視線だけで先を促した。


「実はあの後、龍魔たつまさんにまた会いました」


 その言葉に陸王は目をすがめたが、紫雲はそんな態度にも全く構わない。今まで陸王に向けたこともない、穏やかな暗褐色の瞳を陸王に据えたままだ。

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