紫雲 七

 紫雲しうんの部屋を辞し、雷韋らいが階段のところまで来ると、何やら下の方がざわめいているのに気付いた。覗き込むと、僧侶達が五、六人集まってひそひそと話し合っているのが目に入る。何事かあったのかと階段を下りていくと、雷韋の姿を見た僧侶達が皆一様に眉をひそめた。そして階段を遠巻きにするのだ。


 まるで雷韋から身を引くように。


 否。雷韋から離れたのだ。


 その証拠に、彼らの目には忌まわしいものでも見るような胡乱な光が宿っている。


 けれど雷韋はそんな視線は気にしなかった。僧侶に会えば、必ずこの視線に晒される。既に慣れっこだ。


 もしここに紫雲がいれば、あからさまにこんな目を向けては来なかっただろうが、今は雷韋一人だ。当然の光景と言えた。だから雷韋は、彼らに聞こえるように上機嫌気味に鼻歌を歌いながら階段を下りていった。


 だが、その下の階にはもっと僧侶達がいた。一〇人ほどだ。それに気付いてうんざりする。


 まだいたのか、と。


 そして雷韋が廊下を歩き始めると、やはり遠巻きにして彼らは雷韋を見送る。僧侶で塞がっている廊下も、自然と道が開かれた。穢れた種に近寄らないようにする行動が見て取れる。


 それで別段腹が立つようなことはないが、面白くはなかった。そして思うのだ。紫雲も案外こんな目で見られているのかも知れないと。だからか、雷韋は歩む足を止めて背後の階段を振り返っていた。もし同じなのだとしたら、ちょっと様子を見に来た雷韋なら兎も角、紫雲は修行モンク僧と言うだけで、四六時中こんな目に晒されているという事になる。


 正直、気の毒に思った。


 やはり一人で出てきてよかったと思う。雷韋を送っていくために、行きも帰りも、紫雲をこんな目に晒したくはなかったから。


 それにしても、浅ましいと思った。卑下する修行僧のもとに獣の眷属が訪ねていっただけでこの騒ぎだ。人間族の、いや、僧侶達の嫌らしい好奇心が、雷韋には酷く浅ましく映った。


 自分を卑下するのは構わない。けれども、危険な役目を負って旅を続ける紫雲が卑下されるのは気分のいいものではない。


 紫雲がいい人だと思うなら、尚のこと。


 雷韋は止めた歩みを再び動かした。耳に否が応にも僧侶達の呟きが飛び込んでくる。異種族だ、汚らわしいなどという言葉が色々な形をともなって。


 雷韋は心の耳を閉ざして宿舎を出た。すると、そこにもいたのだ。僧侶達が。


 どこから湧いてきたのかと思うような人数が、回廊に溢れかえっている。


 ここまで来ると、うんざりを通り越して呆れた。呆れたついでに盛大に溜息をつくと、ざわっと人波が揺れて、また自然と道が開ける。


 雷韋は開けた道を堂々と胸を張って歩いていった。そうして回廊から出ると、庭へと出る。


 ふと宿舎の上を見ると、三階の部屋の窓から紫雲が様子を見ているのに気付き、思わず雷韋はその下まで走って行った。


「紫雲~! 今日はあんがとな~! 陸王りくおうにもちゃんと言っておくから~!」


 人目も憚らず、雷韋は叫んだ。連絡先が書かれた紙片を思い切り振って、


「これ、ちゃんとしまっておくからな~! んじゃな~!」


 大声でのたまうと、紫雲も手を振り返してくれる。そして、頭上から優しい声が降ってきた。


「気をつけて」


 たったそれだけだったが、雷韋はどうしてか、とても嬉しかった。そのあとはもう振り返ることもせずに、ただ門へ向かって走った。


 鉄柵の門のところに数人の人がいたが、巡礼者だろう。出ていく者か、入ってくる者かは知らないが、門番と何やら話しているのが見えた。門扉自体は開いていたので、雷韋は門番に「じゃあな!」と軽く声をかけてから駆け出ていった。その時、門番が何やら叫んだが、心の耳を閉ざしていた雷韋には彼らが何を言ったかなど聞こえはしない。どうせ、碌でもないことだ。


 教会を囲む塀を辿るように大広場へ出たところで、鐘楼の鐘が鳴った。六時課ろくじか(正午)の鐘だろう。そんなになるまでいたのだと、その時になって雷韋は初めて気付いた。思わぬ長居をしてしまったようだ。


 鐘の音を聞きながら、雷韋は手にそのまま持っていた紙を折り畳むと、ズボンのポケットにしまい込んで、その上からぽんと叩く。その存在を忘れずと言った風に。そうしてから再び走り出す。


 今度は宿を目掛けて。


 妖刀のことは絶対に陸王に話すべき事柄だった。決して忘れてはいけない。東にも進んでは駄目だ。別段、この町を目指して妖刀が動いているわけではないが、東へ行くのはあまりよくはない。できるだけ避けたいところだ。出会でくわしてしまったら、何が起こるか分からないのだから。かすり傷を負うだけでも生命に関わるという。だったら、尚更避けなければならない。


 出来ることなら商業組織ギルドに訴えて、自警団で東への道を封鎖して欲しいところだが、そんなことは実際には出来はしないだろう。皆、それぞれに仕事があるのだ。中には巡礼者だっている。事情があって街道を使っているのだ。どこに現れるか分からない妖刀一本のために、街道を封鎖することなど出来ない。


 歯痒いが、どうにもならないのだ。


 だから今は兎に角、陸王に報告、相談することしか出来なかった。


 雷韋は教会へ向かったときと同様、人波を縫って走った。行くときよりも人が増えた大路、小路を抜けて。


 やっと宿に辿り着いて店の中に駆け込むと、卓の一つで酒を飲んでいる陸王をすぐに見つけた。まだ部屋に戻っていなかったのだ。その事に無性にほっとする。宿に着いたらすぐに会いたいと思っていたからかも知れない。


「陸王!」


 雷韋は陸王の着いている卓に素早く近づいた。が、陸王は面倒臭げな眼差しを向けてくるだけだった。酒を飲み干した杯が四つほど並んでいるが、酔っている風はない。


 当然だ。魔族の身体は酒精を毒と認識してすぐに解毒してしまうから、陸王が酒に酔うことはない。魔族が本当に酔うとしたら、人の血の匂いにだけだ。その中でも、鬼族である雷韋の血は最高の匂いだった。


 そんなことはつゆ知らず、雷韋は陸王の肩に手を置いて揺さぶった。


「陸王、大変なんだ」


 帰ってきたと思ったら突然肩をがくがくと揺すられて、陸王は雷韋の手を腕で鬱陶しそうに払った。


「なんだ。やっぱりあの男は厩舎に押し込められてたか?」


 その言葉に、雷韋は唐突に別の現実を突きつけられた。


「あ、あ……」

「今の時間なら、どこか別の宿が空いているだろう。案内してやりゃいい」

「いや、別にそうじゃなくて」


 陸王には、紫雲が本当に部屋を借りられているかどうかを見てくると言ってあったのだ。だから自然とそんな問答に発展する。陸王はそれしか知らないのだから。


 だが、今はそんなことはどうでもよかった。


「なら、なんだ。暫くいるとか言ってて、教会を追い出されてたか?」

「そうじゃない。そうじゃなくて……!」


 雷韋の頭が混乱する。話したいことがあるのに、陸王と話が全く噛み合わず、雷韋自身もどこから話せばいいか分からなかったからだ。


「いや、だから! 魔剣……、そうだよ、妖刀って言ってたっけ! その妖刀を追ってるって、紫雲が!」


 それを聞いた途端、陸王の眼差しが鋭くなった。


 酒のつまみにしていたナッツが入った小皿を手に持つと、もう片方の手で雷韋の頬を押さえつけて口を無理矢理開けさせ、ナッツをその中に流し込んだ。


「あ、あむ!」

「物騒な話は部屋に戻ってからだ」


 陸王は卓の上に銅貨を数枚置くと、卓にもたせてあった吉宗を手に二階へ上がっていった。そのあとを口をもぐもぐさせながら雷韋も追う。

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