紫雲 四
そのままどのくらいの間、
「すみません。待たせてしまいましたね」
言う紫雲の手には、取っ手付きの長方形の盆があった。それに茶器が載っている。ほかにも皿のようなものも、ちらりと見えた。それが何かと言えば、ガレットが盛り付けられた皿だったのだ。三枚ずつ畳んだ生地が皿に盛り付けられて、その上に赤いジャムが品良くかけられている。
「あ、え? もしかして、用意してくれたのか?」
卓の上に置かれた盆から紫雲に目を遣り、問う。
紫雲はそれに柔らかく笑んでくれた。暗褐色の、心持ち垂れた目元がとても優しい。
「大切なお客様ですからね。おもてなしはしないと」
「ありがと、紫雲!」
「とは言っても、私が作ったわけではありませんが」
「全然、そんなの! すっげぇ嬉しいよ。作ってくれた人に礼言っといてくれないか」
「えぇ、あとで伝えておきましょう」
そう言って、皿を雷韋の前へと差し出す。もう一皿は自分の方に置いて、カトラリーもそれぞれに置いた。
「お茶ですが、ミントティーは大丈夫ですか?」
「すっげぇ好き! 師匠のところにいた頃、よく飲んだよ」
「師匠?」
カップに茶漉しを置いて問うてくる。
「魔術の師匠。
「山の中、と言うことは、自給自足だったんですか?」
それに雷韋は首を振った。
「いんや。妖精の森と行ったり来たりだった。転移の術で」
転移の術は、あとから繋げられるように、先に繋ぎたいと思う場所に意識の楔を打ち込んでおき、離れた場所から楔を打った場所へと空間を歪ませて、二箇所を繋げる魔術だ。それは
だが、生まれ故郷などであれば記憶が薄らぐことは少ない。しかも何度も空間を繋いでいれば尚のことだ。それに光の妖精族と言っても、人族であることには変わりない。当たり前に対がいて、会いに戻ることも必要だった。それもあり、転移の術での行き来はよくしていたのだ。
それを話すと、紫雲は頷きながらお茶をカップに注ぎ始めた。
「魔術とは便利なものですね」
「あんただって
そして、天の御使いと呼ばれている天使族が通常使う言語でもあった。
「人間族が一番得意な魔術じゃんか。ほかの魔術はあんまし得意じゃなくってもさ」
雷韋は紫雲から差し出されたカップを口元に運びながら言う。
「ですが、神聖魔法はほぼ魔族を縛めるためにしか使えませんからね。ほかの魔術の話を聞くだけで、色々と驚かされます」
「俺だっておんなじだと思うぜ? 神聖魔法見たらびっくりすると思う。その前に魔族に遭ったらもっとびっくりするけどさ」
言って、あははと笑った。
「確かに、魔族にだけは遭いたくありませんね」
「遭ったこと、あるか?」
少し真面目になって問う。
それに対して、紫雲は頷いてみせた。
「一匹でも恐ろしいですよ」
「遭ったのって、沢山だったのか? 何回くらい遭ったことある?」
紫雲の声が深刻だったせいか、雷韋の表情が硬くなる。
「これまでに一度だけ。たった一匹でしたが、大勢の修行僧が怪我を負いました」
「でも、やっつけたんだよな? そんとき、やっぱ、あんたも怪我したか?」
「まぁ、多少は。私は軽傷だったので、ついていました。重傷の者もいましたから」
雷韋はそれを聞いて、そっかと溜息をついた。
そしてそのまま沈黙が場を覆ってしまうところだったが、紫雲がその空気を壊した。
「ところで雷韋君、お茶は口に合いましたか?」
さっきから雷韋は、一口、二口と話の合間にミントティーを啜っていたのだ。
話が急に変わったことで、雷韋は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに破顔した。
「うん。凄く旨い。凄くいい匂いだ。ほんのり甘くて、すーっとする匂いがふわって」
「ガレットも食べてみてください。かかっているジャムは薔薇のジャムだそうですよ」
「へぇ。薔薇のジャムかぁ。やっぱ、こういうところで出るもんって特別なんだな」
雷韋が感嘆して言うと、紫雲が答えた。
「賓客が多くありますからね」
「だよなぁ。じゃないと、こんなの宿とか食堂じゃ食えないもん。んじゃ、いただきま~す」
そう言って、カトラリーで切り分けて食べ始める。
「うん! 旨いよ、これ。蕎麦粉が香ばしく焼けてて、そのあとから薔薇の匂いが優しく追いかけてくるって感じ。紫雲も食ってみなよ、旨いから」
「そうですね。では、私もいただくことにします」
紫雲もカトラリーで切り分け、一口食べて小さく頷いた。
「とても美味しいですね」
「だろ? めっちゃ旨いよな」
にこにことしながら、雷韋は次の一口を切り分け、口に入れる。そのあとも「甘い」だの「旨い」だのと連呼しながら、夢中になって次々と食べ続けていった。そのお陰で、皿はあっという間に空になる。そうしてガレットを食べ終え、雷韋は息を継ぎつつお茶も飲み干した。
その様を、紫雲は食べる手を止めて、微笑ましげに眺めているのだった。
「お茶はまだおかわりがありますよ」
そう言って、紫雲は雷韋のカップにお茶を注いでいく。
「あんがと。紫雲もさ、食いなよ」
お代わりを淹れて貰ったミントティーに口をつけながら言う。
「えぇ」
答える紫雲に、うんと頷くと、雷韋はお茶を一口啜った。そうしてそのまま上目遣いになると、少し小さな声で語りかける。
「で、さ。変なこと聞くけど、気ぃ悪くしないで聞いてくれよな」
「どうしたんです?」
紫雲もカップを手に問う。
「あの、さ。紫雲はさ、ここじゃ歓迎されてるのか?」
雷韋の言葉に、紫雲は不思議そうに目を大きく開いた。どういうことか測りかねているといった様子に見える。
その僅かな仕草で、雷韋は更に声を小さくした。呟きのように。深い琥珀の瞳は、カップの中に注がれていた。
「ほら、陸王が『厩舎が宛がわれてるんじゃないか』って言ったって言ったろ? なのに、こんな立派な部屋でさ。それに、陸王からほかにも聞いたんだ。修行僧は血を流すから、教会の坊さん達に嫌われてるって」
雷韋がそう言い終えた途端、紫雲から苦笑が漏れた。
「そうですね、歓迎はされていないでしょう」
「え? でも、こんな立派な部屋貸して貰えて、門番だって『紫雲様』って様付けで呼んでたじゃんか」
カップから、ぱっと紫雲に目を向ける。
「それは……、私の
少し言いにくそうにして紫雲は言った。
「僧位? もしかして、実は偉いのか? 昨日は寺院の末席にいるって言ってたけど」
「私の僧位は
「ん? 司祭くらい? う~ん、大僧都って、どのくらい偉いんだ?」
「下から数えて、九つ目の位です」
それを聞いて、雷韋の大きな目が更に大きく見開かれた。
「下から九つ? それって、すげぇ偉くねぇ? 上から数えたらいくつさ?」
雷韋の言葉に、紫雲の浮かべる苦笑が深くなる。
「上からだと、七つ目です」
「それって! ちょっと待てよ。寺院の僧位ってどうなってるのさ。誤魔化さないで教えろよ」
雷韋はカップをがちゃりと音を立てて置くと、卓に両手をついて身を乗り出した。
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