第一章
対のありよう 一
その日は朝から暖かな風が緩く吹いていた。
そして日差しはやや強い。
大気には濃く緑の匂いが満ちている。
それは夏が来る直前の世界のあり方だった。
もう少しすれば、太陽は更に強い日差しを投げかけ、夏の匂いが大気に満ちる。
けれど今はその少し前。初夏の香りと空気が満ちている。
しっとりと汗を掻くくらいの日差しの中に、若々しくも強い香りが広がっていた。
空には白い雲がいくつか棚引いて、ゆっくりと風に運ばれていく。それでも太陽の日差しを遮るものではなかったが。
空もまた、若々しく映えて見える。
抜けるような青空に雲。しかし、空の色はまだ濃くはない。真夏の空よりはずっと薄い青だった。水色に近い空色。水色に蒼が混ざったような綺麗な色だった。それがどこまでも透き通って、遠くの向こうにまで続いている。
そして、その空の下には濃い緑が茂っていた。
森の緑だ。
春の花はとうに散っているため、木々の緑だけが上方にある。地面には夏草が茂って、初夏の花が辺りに散るように咲いていた。
緑の力強い匂いの中に、甘い香りが複雑に混じっている。
森の中には荷馬車がよく通るのか、浅く轍のある道が開けていた。
だが、今そこをゆくのは二人の姿だけ。
このアルカレディア大陸の東の果てにある、日ノ本から渡ってきた雇われ侍の
雷韋は十四、五、陸王は二十四、五だ。その差、十ほどあるように見える。
雇われ侍とは傭兵と同じように、その時その時、国に雇われて戦場で戦う侍のことだ。侍の剣技はこの世で最も優れていると言われている。それ以上に、主君に対する忠誠心も高く、傭兵のように簡単に戦場から逃げ出すようなこともない。それ故に、軍では高い報酬を払っても雇いたがる存在だった。陸王がそれだ。
また、日ノ本の者には姓があるが、大陸の者には姓がない。
雷韋はセネイ島という、アルカレディア大陸の南の海に浮かぶ島の出身だ。セネイ島には鬼族の中の夜叉族という一族がいた。だが、一族は赤子の雷韋一人を残して何者かに根絶やしにされてしまった。その雷韋を拾ったのが盗賊
生まれも育ちも、それどころか年齢さえも離れている二人がどうして共にいるか、それは今はおく。
これまでに何があったにせよ、彼らは既に共にいるのだ。道連れであり、運命共同体だ。何があっても共に越えていくという覚悟は出来ている。
雷韋は上背のある陸王の隣を歩きながら、道幅だけずっと続く空を深い琥珀色の瞳で見上げていた。
「今日も天気がいいし、あったかい風が吹いてて気持ちいいな。もうちょっとで夏だよなぁ」
両腕を天に向けて伸ばし、大きく伸びをする。その声はまだ声変わりもすんでいない少年特有のものだった。雷韋の髪が太陽の陽に煌めいて、高く束ねた飴色の髪が金糸のように輝いている。
「あぁ、そうだな」
陸王はどこか面倒臭げにいいながら、黒い髪を掻き上げる。それは露骨に話を合わせただけという風だった。
いい気分に水を差された形になった雷韋が、不貞腐れたような顔で陸王を見上げる。その視線を感じて、陸王も傍らの雷韋を見下ろした。
陸王の黒い瞳と、雷韋の深い琥珀の瞳がぶつかる。
どちらの眼差しも面白くないと言っていた。
そこで暫く目を合わせたまま歩いていたが、やがて雷韋が目尻に紅を差した目をぱちぱちと瞬きさせて、ふいっと視線を逸らした。そして言うのだ。
「なんで陸王ってば、人の気分削ぐこと言うかなぁ」
それを聞いて、陸王も顔を前方に戻した。
「夏は暑いだろう」
「夏に暑いのは普通だろ」
雷韋は逸らした目を再び陸王に向け直す。
と、陸王は乱暴に頭を掻きながら、嫌そうに言葉を吐き出した。
「髪が熱を吸収して、余計に暑いんだ」
「は?」
雷韋はその言葉に小首を傾げてまじまじと陸王を見遣った。
が、陸王はそれ以上何も言わない。
雷韋は不思議そうな眼差しになり、はたと合点がいったように掌に拳を打ち付けた。
「そっかぁ! あんた髪が黒いから熱を吸収しちまうんだ!」
それを聞いて、陸王はむっつりと無言になる。何故か馬鹿にされたような気分になったのだ。それなのに雷韋は、そんな陸王の様子にかかわらず、うんうんと楽しげに頷いている。
「そっかぁ、夏が苦手なのかぁ。知んなかったな、そう言うの」
何か秘密を見つけたように浮き浮きとした声音で言う雷韋に、陸王は
「今も実は暑かったりするか?」
雷韋は容赦なく陸王に浮き浮きをぶつけた。
その雷韋に対して陸王は苦い溜息をつきながら、
「まぁ、多少はな」
渋るように返す。
そうすると雷韋は、調子に乗ったように楽しげに独り言を大声で捲し立てた。果たしてそれを独り言と言っていいのか分からないが。
「そっか、そっか。陸王、背が高いし髪は黒いから、頭の先からじりじりやられちゃ堪んないよなぁ。俺は暑いとこ出身だし、寒い冬よか暑い夏の方が得意なんだよなぁ。ふぅん、夏、駄目なのかぁ。意外だなぁ。陸王にも苦手なもんがあったんだぁ。それが季節ってんなら、もうどうしようもないよなぁ。季節だけは誰にもどうしようもないもんなぁ。気候を変える事なんて出来る奴なんていないし。精霊使いの俺にだって無理だもんさぁ」
長々と続ける雷韋の声音には、面白い玩具でも見つけた風があった。それも相手は陸王だ。いつもはガキ扱いされて小馬鹿にされる一方の雷韋が、やっと見つけた陸王の弱点らしき弱点。それも、どうやったって逃れようのない弱点だ。その事実を
だが、鼻歌を歌い出した直後、雷韋の後頭部に衝撃が走った。
陸王が平手で殴ったのだ。しかも、振り抜くのではなく、より衝撃が脳内に浸透するように打ち止めて。お陰で雷韋の目の裏には、瞬間、星が散った。
雷韋は言葉にならない言葉を吐き出して、その場にしゃがみ込んだ。殴られた後頭部を両手で押さえて。
「んーっ!!」
両目を固く閉じて呻き声を上げる。
その様を雷韋の頭上から眺めて、陸王は些かすっきりといった溜息を吐き出す。
少しの間、呻き声を上げていた雷韋だったが、いきなり立ち上がると怒鳴り声を上げた。
「ちょっと! なんで殴るのさ!? 俺、なんかしたかよ!?」
「知るか。少しは手前ぇで考えろ」
吐き捨てるように言い遣る。
「何がだよ! 目の中に星が散ったんだぞ!! すっげぇ痛かったんだぞ!! あんた、いっつも俺のこと殴るけど、今のはいつもと違って、本当の本当に痛かったんだぞ! 頭ん中が痺れた!」
「脳震盪を起こすほど強く殴っちゃいねぇぞ」
「あったり前だ、馬鹿!!」
そう叫ぶ雷韋の目尻に、微かに涙が溜まっていた。痛みで生理的に浮かんできたものか、それとも怒りに駆られて出たものか。それは定かではなかったが、雷韋の口調や勢いから見て、少年が今までにないほど本気で怒っているのを陸王は感じた。
少しやり過ぎたか、と些か内省する。
雷韋の怒りの言葉はまだ止まっていなかったが、それを無視して陸王は吐息をついた。
「あぁ、分かった。悪かった」
「今更だよ! 悪かったですむか!」
「分かった、分かった。分かったから、もうそんなに怒るな」
「あのなぁ、そうやって言葉を二回重ねるって事は、全然反省してないって……!」
と、急に雷韋の言葉が途切れた。
原因は陸王の手だ。陸王の手が雷韋の頭に乗せられた瞬間、雷韋の言葉が途切れたのだ。
そんな雷韋を陸王は苦笑気味に見て、宥める風に言う。
「本当に分かってる。悪かった。反省してる」
そう言われても、雷韋からは一言も言葉はなかった。それまで吊り上がっていた眉は困ったように八の字を描き、顎を少し引いて、眼差しは上目遣いに変わっている。
その雷韋の様子に、陸王の苦笑が深くなる。
「そんなに痛かったか?」
「ん。痛かった」
言う声音は、さっきまでの勢いはどこへやら。ぶつくさと呟くように小さい。
「悪かったな。だが、流石にもう痛くはあるまい」
「ん」
「ほかにまだ言い足りないことがあるなら聞いておくぞ」
その言葉に、雷韋は一度視線を足下に落としてから、もう一度上げた。
「びっくりすっから、もうすんなよ」
「分かった」
「ん」
ここまで話してきた雷韋の言葉は、全て呟きだった。
そうして、雷韋は
頭に陸王の手が乗せられているからだ。こうされると、雷韋は弱い。魂が反応して、反発出来なくなる。
陸王の魂と雷韋の魂は『
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