Ⅶ-1 ブレイズカリア大戦(1)

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 恒水竜スレイヴォルグ。

 対となる存在、大炎竜オルフェドーラと同様ニヒルの女神に愛された神獣。蒼白の鱗は、竜という種族には似つかわしくない程優美に誇示されている。大気中の水分は空穴の中に比べるとやや濃度が薄いのか、高貴なる獰猛さを宿す碧眼も憮然として見えた。

 そのため、ブレイズカリアには時折八つ当たりのように悠久なる水のブレスが吹き荒れていた。もちろん猛毒の泡沫に侵されるガーディアンなど歯牙にもかけることなく。

 結果、匹敵する神獣のいないこの戦場においてはコースト側に極めて有利となる筈だった。

 しかし。

「絶対零度も知らぬ若造が」

 凍土九厘とうどくりん

 旧き鉱山のウェアウルフ、ダレン。弁柄色の体毛にこびりつく季節外れの霜が示す通り、氷の武法には正真正銘の絶対零度が宿っていた。

「一つ」

 一撃。

 極地の猛吹雪、その前兆のような斬撃は九度振るわれる。加えて発揮されるはケダモノが生まれ持った断崖の岩石をも粉砕する膂力。

 冷気に白く染まる視界。相対する存在が如何なる強者であろうとも、見切りだけでやり過ごすには死の予感が余りに大きい。

「――」

 アーティファクト、ザザの水剣。全身鎧ごしに肌を灼く冷気を感じつつも、コーストの精鋭・巡回騎士に名を連ねるヴァイザードの心にさざ波は立たない。袈裟切りの一撃目を、変則的な軌道の跳躍で体をくねらせ、躱しつつも敵を惑わす。

 二撃目、三撃目、四撃目。対処は変わらない。剣を合わせることなく、その身が空中を躍る。元来、騎士という重鎧を纏うクラスにおいては不相応な戦い方であろう。しかし、ヴァイザードの動きは「これくらいのことができずして巡回騎士を名乗れようか」と言外に伝えるかのようだ。

 そもそも、ツヴァイヘンダーという大剣を振るうダレンの斬撃は速くない。放浪戦士群が放つ高速秘術、流星業火すら捉えるヴァイザードにとっては温い以前の問題だ。

 ダレンは一瞬、その鋭敏な嗅覚に意識を集中。

 ――竜はまだ来ておらぬ。

 それだけわかれば十分。僅かな安堵は即座に敵を狩る本能へと戻る。

 五撃目、そして六撃目。

「――!」

 瞬間、ヴァイザードの警戒度が跳ね上がる。無理もないであろう。


 振るわれるツヴァイヘンダー。その真逆の方向からも、凶悪無比な牙の如き冷気の気配があったのだから。


「っ、咀嚼とはケダモノらしいことだ」

「幸いにして、ここは湧き水が潤沢。貴様らを氷人形にするには都合がいいことこの上ない」

 舌打ちするヴァイザードに対し、ダレンは獰猛に嗤う。イド監獄においては穢れを忌避し、返り血さえ忌み嫌っていた巡回騎士の鎧は霜で変色していた。

 払い落す余裕など当然与えぬ、七撃目。

 咀嚼という表現はやや生温いかもしれない。ガシュリガシュリガシュリガシュリ……………復讐者安息の基点、柳刃さえ塵にするほど無形の牙は冷たく、鋭利だ。

 反射的に、ヴァイザードの右手がピクリと動く。咀嚼する大剣の余波が、ヴァイザードの周りにある空間ごと揺さぶった。まるで巨大な団扇で割れる寸前の気泡のように。

「……八つ」

 フシュル、と年季の入った牙から漏れる数。九分九厘という銘に込められた武法、その由来。

 即ち――旧き鉱山で死んでいった同胞たちの魂。亡者の冷たい憎悪がついに巡回騎士に食らいつく。

 ガシュリ……と命を削り取る音は、本能的恐怖を思い出させた。

 前に、出る。氷河に脈々と血を伝えてきたウェアウルフが行う狩りこそ、まさに正当なる復讐であろう。地に引き摺られる、独特なツヴァイヘンダーの型。

「――――九つ。終わりじゃ」

 その刹那、大空にあってブレイズカリアを睥睨する恒水竜スレイヴォルグさえ、この戦場に近づかないよう配慮したというのは誇張が過ぎるであろうか?

 それ程――無差別に空気も物質も斬り、食らう大剣の冷気は峡谷に猛り狂う。

 開戦の狼煙というには遅すぎるが、まずまずの出だしだとダレンは考える。オブリヴィオンフォーラムにおいて最古参の一角たるウェアウルフには、クリードのような大義名分もマイ・ヨルカ=ゼルゲンの高貴なる正義も存在しない。むしろ、大赦の評議という名の冠されたあの場において、旧い憎悪に突き動かされる自分はむしろ不相応だという自覚がある。

 アーティファクト、ツヴァイヘンダーによる武法が完結する。急激に低下した温度に、死体の気配はまだ感じられない。

 ――奴は何処に?

 周知のとおり、ここブレイズカリアは全域が恒水竜スレイヴォルグの射程圏内にある。奴の死臭を感じ取れば即座に離れる必要があった。


 その思考時間は、巡回騎士にとって十分過ぎる空白とは知らず。


 ザ………………と、ゆっくり口を開ける肩の傷口。

 変則的に、しかし的確に血管と筋肉を分解する斬創。ダレンは苦悶の声をどうにか押し殺し、

「ようやく抜きおったか? 随分余裕なことじゃ……!」

「つくづく忌々しい。ケダモノの血を拭きとり、再び研ぎ澄まさねばならぬとは」

 背後に降り立つヴァイザード。その手には直剣が握られていた。やはり刃の輝きをケダモノの血で汚すことなく、曇天を忠実に反射し続けている。

「……驚いた」

 口元のみを覗かせるヘルム。珍しくもヴァイザードの声音には驚きの色が含まれている。

「薄汚い鉱夫の分際で加護を纏っているとは。しかもこれは……」

 そう。ウェアウルフの強靭かつ独特の手触りを持つ弁柄色の体毛。その根にある表皮には、興の力――埃や穢れを払う湧き水の雫があった。ザザの水剣から一滴、垂れ落ちる。

 興る地の加護。

 代々、ただ永久凍土の鉱脈を掘り続けたウェアウルフの鉱夫たち。山中、或いは地中にあるデザリオンの源泉に正しく近づいた者に受け継がれてきた力。

 故に――

「そうじゃよ。貴様らコーストが堕落したことで、本来自然に融和すべき湧き水と陽炎の姿は崩壊した。だからこそ巡回騎士団なんぞを組織せねばならなくなったのじゃろう?」

「……、」

 素の口調に戻りつつあるダレン。対しヴァイザードはただ沈黙を返すのみ。

 真実を突かれた者は、それが後ろめたいものであればあるほど閉口する。或いは激昂か。

「皮肉なものよ。必死こいてデザリオン中を走り回り、維持してきた湧き水が最早お主らを見捨てつつある。貴様の苦労は一体何のためにある?」

 瞬間――逆鱗が膨張する気配があった。

 デザリオン全土で威光を示し続けてきた騎士の旗を侮辱する、目の前のケダモノは二ィと愉悦の笑みを浮かべる。


「――そもそも、巡回騎士団というのはワイトブレッド騎士の直轄じゃったか。ということは、さては貴様落ちこぼれたクチ」

「成程。どうやら監獄送りすら生温いようだな」


 目の前から。

 騎士が、失せた。

「――!」

 総毛だつ。この種に生まれた僥倖に感謝すべきかもしれない。斜め前に飛び退りつつ振り返り、ツヴァイヘンダーを支え、防御の構えを取る。

 だが、襲い来るは信じ難い連撃であった。ざ、ざ、ざ……という異音が耳にへばりつく。

「偶然とはいえ、済んだか。死にぞこないの末裔だけはある」

 水砂すいさの曲撃。

 それは、異様に細かく輝く見たことのない物質であった。ヴァイザードの持つザザの水剣からは、剣撃を繰り出す出さないに限らず水砂が漏出している。

 その作用は――都のコースト内にさえ余り知られてはいない。ダレンは突き出される直剣をさばき、喘ぐ。

「砂……水銀、か⁉ じゃが余りにも」

「収縮と浄化の時間だ、ケダモノ」

 ダレンの腕力を以てすれば、ツヴァイヘンダーを叩き付け地を割ることなど造作もない。しかし牽制のつもりで放った一撃は、ヴァイザードを掠めることすら叶わなかった。

 シッ、と騎士の腕がしなる。速さで上回るコーストが一閃、ウェアウルフのの胴体を薙いだ。深くはないが、一瞬顔を顰めさせるには十分な斬創。

 もちろん、のんびりと薬草で癒す暇などない。ダレンの咆哮が一度、轟く。

 破砕のアラガミ。

 四足になることもできるウェアウルフの体躯を活かした、極めて変則的な斬撃。咆哮は体毛を逆立たせ、草木さえ慄かせる。

 武法、そして呪術の応酬が激しさを増す。

 アラガミの鉄槌。

 水砂の返礼。

 両腕に握られた、巨岩の落下の如き大剣が唸りを上げる。対し、まさに絵画にまぶされたような美しき水砂が掌から放たれ、迫り来る脅威を打ち消した。

 口内に広がる鉄錆の味。忌々しいことに、口の端から漏れる程の量であった。


「――恒水使バオシラに祈りを」


 それは祈祷であり、祝福であり宣告。

 ザザの水剣が、天高く掲げられ。曇天に薄く突き立てられるように――




「っ……」

 戦闘の真っ只中。泥沼の白兵戦の中で、ガーディアンの放浪戦士群に所属する一人は顔を顰める。

 不自然な頭痛。

 そう、それはまるで。大雨の朝にはつきものの痛みで……

「血管の収縮が筋肉を固くし、神経を圧迫する……だっけ? 医学の勉強してたのなんざ転生前の話だからな……」

 思考は断絶した。コーストの呪術が再び雨霰となり放浪戦士を狙う。

 無意識に発した収縮という概念が、ガーディアンにとっても致命的だとは露ほども知らぬまま。




 2


 水砂すいさ。巡回騎士の中でも、ヴァイザードのみが操作を可能とする力。悠久なる水とは即ち、霧のデザリオンを囲む朽ちゆく大海を源とする生命の故郷。故に浜は白く、陸に至るまでの重要な緩衝地帯となる。

 その役割は拡張にあらず、収縮。

「ケダモノ風情に嘆願することになるとは、これほど耐えがたき恥も稀だ」

 蒼い髪、白い肌、浮き出るは黒色の脈。

 ここが戦場の真っ只中であること。さらに異種族との血みどろの戦いを繰り広げる中で、それは理解に苦しむ行動であろう。いくら精鋭ぞろいの巡回騎士とはいえ、悠久なる水に満ちた呪素の加護を自ら脱ぎ捨てたのだから。

 しかし――それはあくまで客観的視点での話。

 その姿を、見て。

「なん、じゃ。その姿は…………?」

 騎士の倍近い大柄な体躯。旧き鉱山のウェアウルフ、ダレンはある感情に喉が干上がっていた。その言葉も所々が掠れている。

 そして。

 ヘルムごしではない。晒された口元から漏れる明確な返答があった。空を泳ぐ竜と同じ碧眼は、場にそぐわぬ美しさを誇示し。


「これからの蹂躙をどうか、記憶に留めずにおいてくれ。……存外に難しいのだ。イド監獄だろうとシーリアンの闇だろうと、残念なことにデザリオンでは死人は口を持つものだから――」


 言い終わるかどうかという内に。

 狼は、即座に脱兎へとなり果てた。

「か、かか勝てぬ。勝てぬ勝てぬ勝てぬ勝てぬううううぅぅぅぅ!!!!」

 ウェアウルフは亜人とケダモノ、双方の特徴を併せ持つ希少な種族だ。個体数は少なく記録もあまり残ってはいないが、その生態に共通するのは特大武器と呪術の扱い、そして嗅覚。文字通りの意味と危機管理的なもので、後者が凄まじい警報を鳴らしている。

 どこかで嘆息と同情があった。ここでの戦闘もまた、オブリヴィオンフォーラムの場長、空穴の観測者により全てを視られている。高精度の遠眼鏡に映る光景は、何より貴重な資料となるであろう。

 絶対者たるコースト、その隠蔽された力を……。





 天砂終斂てんさしゅうれん





 水砂、その作用は収縮。碧眼に映る全てが、朽ちゆく大海へと収まる。美しく白い砂塵は天高く火葬される死者の魂のように、ブレイズカリアの大気へと薄く薄く広がった。


究極秘術きゅうきょくひじゅつ。階級は重要ではない。正しく祈りを捧げること――我らコーストにとって、唯一絶対の責務であり使命。故に収縮されなければならない……焦げ臭いガーディアンも、反逆者が吹き溜まるオブリヴィオンフォーラムも……朽ちゆく大海に還ることだけが贖罪であると知れ」


 ウェアウルフの存在は最早どこにもない。海に眠る生命の息吹へと還ったことで、再び正しい活動を始めるのであろう。


 大海の使徒、ヴァイザード。

 かの悠久なる都ワイトブレッドにおいてさえ脅威となり得る存在を、観測する遠眼鏡さえ息を潜めて見守る以外なかった。




















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