Ⅴ-1.イド=アレフ大虐殺・前
1
イド監獄とは、はっきり言ってしまえば底の中の底であった。
悠久なる都ワイトブレッドの地下に広がる暗黒の空間。始原時代、ここ霧のデザリオンでは地上・地下分け隔てなく石造建築の立ち並ぶ高度な文明が繁栄を謳歌していた。しかしニヒルの女神が降臨した後の時代、廃興の理の崩壊に伴う汚泥と死の蔓延により、夥しい穢れと亡者が常に跋扈する世界となって久しい。
つまりここには、あらゆる穢れがまるで整備されていない廃棄場の如く放り込まれているのだ。
充満する臭気。
唇をベタつかせる、得体の知れない油。
そして、底に棲む蟲獣との癒着。
臭い物に蓋などという生易しい概念では到底済ますことのできない、闇の凝縮。
対し、都を支配しイド監獄を管理する恒水使バオシラ以下コースト達が取る手段は決まっている。
「整えよ」
刑務執行官、ガタノ。
青ガッパ、大木刀。双方ともにびっしりと呪言で埋め尽くされている様は、秩序を名乗る存在であることを考えれば悪い冗談としか言いようがない。しかし顔面さえ完全なる加護の仮面で覆い尽くしているのには理由がある。
「本日の引導だけで数万。この執行において発生する穢れを計算などしたくもない。ああ、其方らが考える必要はなし。ただ訓練の動きを淡々と繰り返し、断末魔を受け流せばそれで良い」
肌に触れただけで、二度と落とせぬような濃度の病原菌が殺到するのは確実。毛穴という毛穴から侵食するおぞましい感触を知る部下達も頷きさえしない。
彼らとて、元々は罪人の身。共倒れだけが、唯一の生存条件なのだから。
通常、彼らの対たる存在であるガーディアンであればこう思うかもしれない。
可哀想、気の毒だ。
大炎使ナヴィンが最も興味津々だった話の一つが、かの世界では死刑執行スイッチがどれだかわからず、よって誰が押したかわからないというシステムだったらしい。基本的人権という概念など、永劫デザリオンには持ち込みようがないと話し手も薄々気づいてはいたが。
こういった小話で気を紛らわしでもせねばやっていられない程、監獄では狂気の処刑が執行されていた。
ガジュ。
ボジュ。
ブジョリ。
ゴボ……
左頭部に寄生する大ヤスデに神経を蝕まれ続ける男。糞尿ヒトデ。制御を失った埃中毒のダスト騎士。無限に転がる爆裂眼球……ありとあらゆる穢れの権化を、ただ無心に葬り続ける。
周知の事実だが、単純作業の繰り返しとはある種の才能だ。報いの存在しない仕事に対し、ガタノと部下はただひたすらに沈黙の刃を向けるしかない。二度と地上に出られぬ宿命は、生まれ落ちた時より定められたと諦めているのだ。
やがて部下の一人が、両の目を白身のように蕩けさせる。視力が現実逃避を起こすことによって発症する不治の病。
早速その者は処刑リストに追加される。この監視もまた、ガタノに与えられた職務の一つだ。大木刀が振るわれ、堕ちる寸前の元罪人が動かなくなる。
これらの作業こそが、イド監獄の風景。その全て。
で、あるはずだった。
「ガタノ」
ザブ、と背後にある湧き水から人影が歩み出る。コーストだ。直剣と盾で武装した、この場に似つかわしくない風貌を持つ都の騎士。
名を呼ばれたガタノはその存在を知っていた。デザリオン全域の湧き水を調整・管理する巡回騎士団、その重鎮である。
「ヴァイザード様、このような場所に何用です?」
穢れに対する心配など挟まず、端的に用件を窺うガタノ。
ヴァイザードと呼ばれた男も軽く首肯し、ヘルムに隠れたその唇を動かす。
「処刑は中断だ。異常事態が発生した」
瞬間、ドドンと監獄全体が震動する。慄く虜囚たち。
その原因は、
「エネミーだ。身の程知らずの復讐者共が叛乱を起こし、雪崩れ込んできたらしい」
2
「しゃ、しゃ」
屠る。
「しゃしゃしゃしゃしゃしゃァァ――」
また、屠る。白血がその度、撒き散らかされる。
「どぼぁっ」
「ばっ」
原理は不明。秘術なのか呪術なのかも定かではない鋸が四方八方に飛び、次々とコーストが倒れ伏していく。
イド監獄に雪崩れ込んだのは、地上にある悠久の都ワイトブレッド——その北方に根城を持つ復讐者の一団であった。
先程より特徴的な笑い声を発するのは、鋸使いベベトーロと呼ばれる男。彼も元はイド監獄の虜囚であったが、何らかの方法を以って脱獄に成功したらしい。そして虜囚時代にコーストから受けた壮絶な拷問の報復とばかりに、自らの一団を率いて舞い戻ってきたわけだ。
カマキリと亡者。爬虫類の爛れた瞳がぎょるん、と睨めつけて来る。彼我の戦闘力差から、最早戦闘というよりも狩猟と言った方が正しい有様だった。
無論、コースト達は何とかこの惨状を転換しようと試みる。
「薄汚い復讐者共が、祓われよ!」
「恒水使バオシラに祈りを――!」
振り撒かれた水矢。
ドルフィンフォース。
パパッ、と水滴を上げつつ一直線に飛んでいく複数の水矢、追随して速度に優れる霊体の海豚がコーストの杖から射出される。
だが皮肉にも、水泡に帰すばかりだった。
「しゃッ――」
声音が文字通り刃となり、あっけなく霧散するコーストの秘術。「馬鹿なっ!?」という表情が固定されたまま、飛来した鋸によって二人分の首が切り離される。
どちゃり、という音。一目散であった。その胴体、首にベベトーロの部下達が餓鬼のように群がっていき、我先にと争うように捕食し始める。
これが、復讐。霧のデザリオンにおける最も唾棄すべき行為。
人間。ガーディアン。コースト。或いはケダモノや神獣。種を問わず殺し、貪り喰らう理の逸脱――それが彼ら復讐者が示す、唯一の存在証明なのだ。
「しゃしゃァ……おい野郎共、俺ら鋸部隊が一番乗りで間違いねえみたいだぜ。目的は一番下の聖堂、イド=アレフを縄張りにすること。しかもこれまた、一番乗りの奴にボスの権利が与えられるときた」
喋っている途中にもふしゃァ、ふしゃァという吐息が耳障りなベベトーロは、隠し切れぬ高揚と共に振り返る。彼の部下である総勢四百の鋸部隊は、殆どが無傷のまま進軍してきた。
し、し、と下卑た部下の笑いが監獄に響く中、ベベトーロは続ける。
「……本筋はダストの方だったんだがなぁ。何でも元ガーディアンとかって変な黒い服着たガキの新入りはくたばっちまったみてぇだし、結局あそこには竜がたむろしてやがる。ま、おかげで『やり残した仕事』が舞い込んできたことだし、よしとすっか」
厄介なことに、無駄に長生きしたこの鋸使いはキメラであり、そして熟練の亡者でもあった。吹きすさぶ暴風雨に晒されてきた中で蓄積した憎悪と暗き欲望だけが、ただその力を研ぎ澄ませている。
即ち、刃。
大いなる炎、悠久なる水に仇為す、恐ろしき刃だ。
彼ら復讐者に通信手段たる呪術・秘術の類は共有されていない。しかし代わりに発達した嗅覚ともいうべき
総勢、およそ三千。
復讐者の総力、ではもちろんない。しかしこの数だけでも、かのオブリヴィオンフォーラムに非常事態を告げさせるほどの脅威である。
故に、いやしくもデザリオンを支配する存在としてこれ以上放置はできまい。
「しゃッ、ようやく骨も、肉もありそうな奴のお出ましか」
嗤うベベトーロ。ぎょるんと剥かれる瞳の先、先の見えぬ暗闇。
残念ながら夜目は効かないものの、その芳醇な香りを探査感覚が嗅ぎ付けた。
「……期待外れだ。こちらとしては歯ごたえの一つも感じられそうにない」
巡回騎士、ヴァイザード。
ぎらりと光る直剣が、醜きキメラなど映さぬとばかりに構えられる。
ヘルムから覗く唇が宣告する。
「イド=アレフには指一本触れさせぬ。『定例秘祭』が終了するまではな」
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