ディヴァウアコースト
ししおういちか
荒原地帯の復讐者
Ⅰ.朽ちゆく大海の果て、霧のデザリオン
1
「形勢は完全膠着、といったところか。こうなると、ますます
辺境、その中でさえ何処とも知れない部屋。室内を照らす青い灯が揺れた。
「烏合の衆たる汝らガーディアンとは違い、コースト共は大なり小なり集団化されておる。余が呼び寄せた者どもの大半は斃れ、駒を任せるに足るは最早そなたくらいか」
「……」
幻滅、失望。しかしそれもまた織り込み済みといった笑みをどう受け取ったか。部屋にいた男は沈黙を貫く。
「天の時、地の利、人の和。そなたが元いた世界において、何かを為すに不可欠なものであると言ったな。しかし空と海の色が違う、という程度ならまだしも…… 言語や度量衡、死生の理まで異なるとなれば話は別。この
ナヴィンなる女の独白めいた言葉にも男は答えない。だがもとより返事など期待していないのだろう、ナヴィンは構わず続ける。
パタ、という魔導書が閉じる音の後、
「さて、戻って早々悪いが、再び動いてもらうぞ」
いつの間にか、男とナヴィンの間に跪く何か。それは矮小なインプであった。この醜悪な小悪魔は泥から拾ったような布を主に差し出すと、用済みとばかりに炎に包まれ、灰となる。
「ルイエの海岸都市遺跡、その地下にある四つの棺に火を灯すのだ。余が持つ大いなる炎の欠片、それがあれば
白く細い、宝玉の指輪に彩られた指から布を受け取る。男が見たそれは地図であった。遺跡の地下迷宮、その大まかな地形が記されている。ポッ、と四箇所に小さな灯がともった。
くしゃり、と男は地図を丸める。懐にそれをしまうと、やがて薄く揺らめく火で覆われた部屋の入口へと歩いて行った。一歩一歩と同時に、鎧の擦れる音が聞こえる。
気を付けていけ、などという激励は当然、その背中にはかからなかった。
*
辺境のガーディアンの目的地。それはルイエの海岸都市遺跡に設定された訳であるが、遣いの竜がその地に赴くことはまだできない以上、自らの足で進むしかない。ここからだと一朝一夕で着く距離ではなく、危険な道中ではより慎重に行動せざるを得なかった。
実のところ、大炎使ナヴィンは主ではない。強制力のない主従を続ける理由は、この広大な大陸――霧のデザリオンにおける唯一の羅針盤である為だ。物理法則の異なる世界から召喚された辺境のガーディアンにとって、彼女が従える遣いの竜は旅路に必要不可欠。強力なコーストからの逃走手段としても、絶対に確保しておかなければならない。
既に、空は完全な暗闇に覆われている。しかし幸い、この辺りはナヴィンの影響力が強く、ガーディアンが身を守れる
大炎使の森を抜けてすぐ、比較的新しい寺院へ辺境のガーディアンは向かう。崩れかけの階段を上り戸を跨ぐと、何者かが以前利用していたであろう営みの痕跡が多々見受けられる。自分と同じガーディアンであろうか。
それから何をするでもなく、寝台に身を投げる。
陽炎がもたらす加護は暖気となり、心地良い。
夢現が反転するのに、それ程時間はかからなかった。
2
ダスト荒原地帯は、霧のデザリオンの北西に位置する辺境であった。これより西にはただ朽ちゆく大海が広がるのみであり、廃を司る大いなる炎にも、興を戴く悠久の水の下にも属さぬケダモノ達が、ただおどろおどろしく棲まう。故に、この海はただそこに在るだけで、外界の神々を阻む天険の要害なのである。
最もその神々が海を越えたとて、失望に終始する可能性は否定できない。
その名が示す通り、この地はとにかく埃が多い。一見、遠方からだと
その者らが流れ着いた主だった地は、断崖海峡を望む巨大廃墟群、ルイエ。海岸都市遺跡もその一角であったが、
「…………ここも時間の問題ですね」
竜のいない拠点とはかくも惨憺たるものか。馬上の女は嘆息する。
闇に閉ざされた海岸都市遺跡は混沌そのものだった。大炎使の力が及ばぬことで陽炎を見失った死者はアンデッドとなり、生者を貪り喰らう。地から這い出る蟲獣が、汚泥を撒き散らす。
だが何より怒りを覚えるのは、それらを排しようともせぬコースト共だ。
「一刻も早く、大炎使様の遣いを派遣して頂かなくては」
声は、この状況に身を置くには不相応なあどけなさを感じさせるもの。似つかわしくない使命感も、醜い断末魔がすぐに覆い隠してしまう。
フードを目深に被る女が、何者かの視界に入る様子はない。何らかの呪術を行使しているのだろうか、服や装飾品がアーティファクトとしての役割を果たしているのか。
男は物言わず、女の悲鳴が木霊する。如何にも侵略者然とした、堕落した暴君たる
取って返した嘶きが聞こえたのだろうか、森に点在する陽炎がほんの微かに揺らめいた。
3
記憶の彼方に追いやられたあの日。意識が明朗な際には欠片も思い出すことはなくなったが、反転してしまう夜にはふと、蘇ってくることがある。
或いは焼き付けられた苦痛の日々は、回顧するには未だ重いというのだろうか。寺院の周りにある、陽炎の温かさでも癒せぬほどに。
まず浮かび上がるは、黒の学生服に身を包んだ自分がいる、見慣れぬ地面。
周りを見渡せば、同じような服装とセーラー服が三十余り。皆一様に、自分と同じような心持になっているのだろう。当惑が充満するのが伝わってくる。
それからどのくらいの刻を経たか明らかではないが、あの大炎使が現れ状況を説明していたように思う。曖昧なのは、聞いたこともない言語が耳朶を打ち、大まかな意思しか伝わってこなかったからだ。
そしてそこから、地獄と呼んで差し支えない日々が幕を開けた。
有象無象の作家達が妄想に耽ったような、無双の能力など宿る筈もない。文字も度量衡も、海も山も陸も生物も何もかも違う。とりわけ苦痛だったのは、大気の成分が大幅に異なることだ。ましてやここは埃に塗れたダスト荒原地帯。呼吸困難に陥り、日常生活さえまともにできぬ者が続出する有様であった。
厄介なことに、忌まわしきコースト共はとにかく鼻が利いている。陽炎を頼りに剣の師を見つけ、呪術を理解しどうにか戦いにこぎつけるようになった頃には、三十余りの同胞達は半数以下になっていた。
束の間の休息。揺らめく炎の中で、残された者達は理解する。
自分達は所詮ガーディアンの補欠に過ぎないのだ、と。
肺も脳もすでに患い、やがて脳まで侵された同胞達。発狂し、或いは悠久なる水への帰順を試みる。当然、そのような概念は霧のデザリオンには存在しない。
その境遇を人形遊びでも見るような双眸で睥睨していたナヴィンは、ある意味では最も憎悪の対象と言えるかもしれない。しかし彼女に叛意など見せれば、生命線たる陽炎の導きさえ吹き消されてしまう。そのため現実には、逆にナヴィンにおもねる者も多かった。
一方自分は、おそらく彼女の視界に映る存在ではなかったと思う。見栄を張って運動部など志した、注目を浴びぬ容姿。運よく生き残っただけの虫けらに何を思って自らの住居に立ち入りを許したのか、正直今になってもわからない。
とはいえ、その状況を利用した自分以下十名は戦闘の術を心得た精鋭となった。
やがて起こった一つの指針。それはここダスト荒原地帯を脱し、潤沢な水と森林が支配する呪術本山、南にある深緑のクーロンへと到達する計画であった。
『クーロン湖畔にある港から出る大船は、唯一火と水両方の都に行ける通行手段らしい。ここだけの話、別大陸に行ける密航船もあるみたいだぜ』
発起人は、確かサッカー部に所属していた男だったと思う。偉丈夫で、容貌が端正であったことからリーダー的な存在となっていた。端くれだった自分からすれば、デザリオンにあって尚異性の関心を集める男は、羨望と嫉妬の的に他ならない。故に、その話は内心、心に悪しきさざ波を立てるものであった。
当然、そのようなさざ波など意に介さず賛同の声が上がる。
『あたしはさんせー。このホコリっぽい家、いい加減うんざりだし』
『あ。前に持ってきた、ナヴィン様の部屋にある古文書にも書いてあった気がする。
『帰る方法は全然わかんねーけど、そこに行けば今より全然マシな生活できそうだな!』
『××君、やっぱり凄い』
議論にさえならず、方向性は決まっていった。明確な裏切りである一連の流れを、あの大炎使ナヴィンはどう見ていたのだろうか。今でさえ自分を含めたガーディアン達を泳がせていることから考えるに、興味さえ湧いていなかった可能性もある。
ともあれ、自分もなし崩し的に参加することになった脱出計画。
数刻後に待っていた、忌まわしい惨劇の夜が脳裏に浮かび上がってくる――
『――おねが、い…… たず、たすけて。置いて行かないで××――――!!』
焦燥と恐怖。しかし刹那の内にそれは消え、重苦しく瞼が上がる。
「……」
幾度となく苛まれる、追憶の悪夢。そして最後に響く声。
思えば、女が自分を呼んだのは、それが最初で最後だった気もする。
自分も同じ状況に陥ったなら、名さえ定かではない級友に助けを求めたのだろうか? 或いはナヴィンであれば、今の自分なら救い上げようとするだろうか。
こういった答えのない問いを心中で発しつつ、食や入浴を営むのは癖になりつつある。長い孤独の代償。辺境のガーディアンにとって、他人とそうでないものの明確な線引きなど、最早どうでもいいことであった。
寺院に別れを告げ、外へ出る。
そしてまた、陽炎を探して大炎使の森を抜ける。
しかし飛び込んできた陽射しが突如、ぐりんと回転し遠ざかった。
衝撃を感じるのと、自らが転がっているのを認識するのはほぼ同時。
だが、思考までそれに合わせている暇などもちろんない。
辺境のガーディアンを覆う、人型の大きな影。ヒトならざる巨人――トロール。
そして、その赤白い怪物を鎖で以って使役するのは、
「ふん。恒久を阻む焦げ臭い森。このような辺境の地にあったとはな」
その言語を解するのは至難の業である。しかし辺境のガーディアンは、それが大いなる炎を侮蔑する表現であることを、経験で理解していた。
蒼白皮のゆったりとなびく、強靭な装束。それは濃厚な
即ち悠久なる水の遣い、コースト。大いなる炎の使者たるガーディアンの、対なる存在。
その二人が対峙する様は、まさに鏡像そのもの。こちらを誰何することさえせず、たちまちにして殺到してくる。
「都の安寧を脅かす、焦げ臭い反逆者の奴隷よ。沈むが良い」
ギャリ、と馬の手綱の如く鎖を引く。トロールの拳が異様な音と共に振り下ろされた。地面の陥没を察知し、その股間に身を投げ出す。
既にその手には武器が握られていた。正確には森を出た瞬間から。身の丈よりも大きい野太刀。
刀身に映る陽光がトロールの目を焼く。左手で目を隠しながらも、再び大きな拳が二度、三度と振り下ろされた。泡食った小動物たちが逃げ出す。
しかし本来、それらに類するはずの男は吹き飛ばされて尚、立ち向かう。
斬創を浅く、しかし着実に。
「くっ」
トロール使いのコーストは焦る。辺境のガーディアンは無傷どころか、その身にかなりのダメージを負っているはず。だがその戦闘は恐ろしく作業じみていた。太古から受け継がれてきたトロールに対する対処法を、ただただ機械的にこなしている。
腐ってもガーディアンということか。
「グ、オオオオ――」
むしろ主よりも、トロールの判断が早かった。腰に差していた小槌を引き抜く。
呪素の込められたそれは、たちまちにして巨大なハンマーへと変貌を遂げた。
その有り余るリーチの前に、目いっぱい転がったはずの辺境のガーディアンは真芯で捉えられてしまい、その身を四散させる。
後に残るは、ガーディアンたる証、イエローの血だけであった。
装束の下で、安堵の息を漏らすトロール使いのコースト。
むしろここからが本命。この先に潜むは、最も忌むべき大炎使本人なのだ。尖兵の一人を屠ったとて、すぐさま新手を差し向けてくるだろう。自らの役目は、その住居を発見、主君たる
緊張により、僅かに硬直する体。しかし水の祈り詩を思い浮かべ、自らを奮い立たせる。
そうして、焦げ臭さに眉を顰めつつも森に足を踏み入れた瞬間。
自らを背から刺し貫く、銀の短剣が足より前にあった。
執拗なまでに捩じられたその剣筋は、既にどうしようもない程体の内部を壊している。振り向くことさえできぬまま、呪素で繋がるトロールもろとも水へと還っていく。
それを一瞥すると、イエローの沁みとなり果てたはずの辺境のガーディアンは踵を返した。
やや早足で向かう先には、小さな噴水のようなものがある。
それこそが陽炎の対――コースト達の休息場所、湧き水。
それに。
触れる。
すると、湧き水は大きく沸騰し、やがてその姿を揺らめく炎へと変じた。
辺境のガーディアンは、ひとまずそこで短剣の血を拭いとることにする。
それはもちろん、その様子を見ていた者が敵ではないと感じ取れたからであった。
「
言葉と共にフードを掴み、旅装束を搔き消した女。
「真なる廃の守り手、希望の火を灯すガーディアンよ。話がしたい」
黒き涙を秘める純紫の瞳を、風に揺れた白銀の髪が覆い隠す。
「私の名はマイ・ヨルカ。火と水を統べるべく、行動する者です」
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