(6)
結局、騒ぎを聞きつけて集まってきた野次馬の生徒たちを前にしても、ハルの怒りはなかなか治まらなかった。
それでもユーリに無体を働こうとした男に追撃をかまさなかったのは、ハルの腕の中に彼女がいたからだ。男をしたたかに殴りつけてやりたいという気持ちはあったが、ユーリのそばを離れたくなかった。
困惑する大の大人の男ふたりと、怒りに燃える金の目を向けるハル。そんな三人や野次馬を前にして、ユーリは明らかに当惑していた。
やがて教師たちが駆けつけて、集まった野次馬の生徒たちは解散させられ、事情聴取のためにハルとユーリは職員室に隣接しているほうの応接室へと連れて行かれた。
「次にこいつに手ぇ出そうとしたら殺す」
去り際に未だ激情に駆られたままのハルが、ユーリの担当者と無体を働こうとした男にすごめば、教師から叱責を頂戴する。けれどもハルはへっちゃらだし、気にも留めない。
ハルは当然のようにユーリの手首を取り、職員室横の応接室までの道を、手を離さずに向かった。ユーリの体の震えは、いつの間にか止まっていた。
ハルに下された処分は、謹慎三日。ユーリを守るためとは言えど、直接的な暴力に訴え出たこともあってこういう結果になった。ハルは不満だったものの、ここで抗議しても裁決は覆らないと思ったので、黙って受け入れることにした。
そうしてつまらない三日間を寮で過ごしたあとに登校すれば、一番に声をかけてきたのはユーリだった。そもそもハルに気安く声をかけてくれるような生徒はほとんどいないから、それは必然だったのだが、ハルはなんだかユーリに声をかけられて気分が浮き上がった。
ひとのまばらな食堂で、隣り合って腰を下ろす。
「大人しく謹慎してた?」
「なにかやったらあとがメンドクセーからな」
あの一件以前と同じ様子のユーリを見て、ハルは内心でほっと安堵する。
あのとき、震えていたユーリを思い出すと、今でもハルは胸がムカムカするのだ。上品な微笑をたたえるユーリを見て、「それでいい」と内心でつぶやく。
「……ありがとうね。助けてくれて」
「……別に。あのオッサンがムカついたからぶん殴っただけだ」
「そっか」
素直になれず、ぶっきらぼうな物言いの自分は、ともすれば恐怖の存在だろうということは、ハルにもわかっている。けれどもあの一件があっても、ユーリはそんなハルを恐れるような素振りは見せない。
「まあ、オレがなにかしなくても、お前ならひとりでなんとかできたかもしれないけど――」
「そんなことないよ」
ユーリが、あの無体を働こうとした男を相手にしても、きちんと足払いを決めて逃走できる技術も度胸もあったから、ハルはそう言った。けれども、ハルの言葉を聞いたユーリは、わずかに顔を曇らせる。
「足払いはたまたま上手く行っただけ。気が動転していて、ぜんぜん上手く抵抗できなかった」
「……オレんとこまで逃げてきたじゃねえか」
「本当、偶然だよ。イノウエさんのときは上手く出来たけど……今回はぜんぜんダメだった」
「……仕方ねえだろ。密室で大の男が下心丸出しで迫ってきたら、だれだってビビるわ」
「そうだね。でも、ちょっと、わたしなら少しくらいは上手く出来る気がしてたけど……すごい思い違いだった。あのひとが迫ってきたら、なんかすごく怖くなっちゃって、ぜんぜん声も出せなかったし……」
ハルは、胸の底からイライラとした感情が湧き立つのを感じた。
「お前はなにも悪くねーよ」
ユーリが自分を責めているのが、不快だった。悪いのは無体を働こうとした男と、その男と結託していてわざと席を外した担当者だ。ユーリは完全な被害者で、なにも落ち度はない。
「グチグチあとから言っても仕方ねえだろ。ウゼエ」
「うん。そうだね……ごめん」
「謝んなよ」
「うん……。……でも、なんか自信なくなっちゃった。たくさん頑張れば、この世界でもひとりでやっていけないかなって思ってたけど……ちょっとひとりでは、無理なのかもしれないね」
ユーリが眉を下げて微笑む。ハルは、落ち込むユーリを慰める方法も、励ます方法もわからなかった。ハルの語彙の中にそういうものはなかったし、それまでそうする必要性を感じたこともなかった。けれども今は、自分の不器用さに舌打ちをしたくなる。
「――じゃあ、結婚するか?」
それは半分冗談のつもりだった。ユーリから視線を外し、頬杖をついた状態での、ただのたわごとだった。
うつむいていたユーリが、顔を上げたのを視界の端で捉える。
「え?」
「お前の言う通り、女がひとりでやっていくってのは大変だ。学校の中も外も、下心満載の男ばっかりだからな。隙あらばお前とどうこうなりてえって思ってる輩ばっかりだ」
「うん……」
ユーリは、先ごろの一件でそれを痛いほど身にしみただろう。返事にはどことなく力がない。
「結婚して、夫のひとりでも作りゃあそういう輩は少しは減る。夫持ちの女とお付き合いするには、女の夫のご機嫌うかがいもするのが普通だからな。今すぐどうこう、って考える輩は少しは減る」
「そうなんだ。じゃあ指輪でもすればいいのかな」
半分、冗談のつもりだった。つもりだったのに、いつの間にかハルは頬杖もやめて、ユーリのこげ茶色の目を見て、本気で言っていた。
「オレが贈ってやるよ、指輪」
「え? それは、悪いよ」
「――いや、オレに贈らせてくれ、ユーリ」
「……ハロルド?」
ハルは頑なにユーリのことを「お前」と呼んでいた。こうして彼女の名前を口にするのは、二回目だった。
「結婚しようぜ、オレと」
「……ハロルドと?」
ユーリは目を丸くして、ぱちくりと何度かまばたきした。
「ああ」
「わたしは――」
「『わたしなんか』とか、『わたしはなにもあげられない』とか、そういうバカみてーな言い訳は聞かねえ」
「ええ……そんな」
「お前が使いそうな言い訳なんて、全部お見通しなんだよ」
ハルは自然と口角を上げて、挑戦的にユーリを見据えていた。おおよそ、プロポーズをするときの態度としてはふさわしくないだろう。けれどもハルは、そういう人間だった。
「オレは……正直に言ってまだ、お前の体をどうこうしたいのかわかんねえ。でもお前が夢をあきらめるところは見たくねえ。なんかそういうの、想像するとムカムカする。――だから、オレと結婚しろ。結婚してまたバカみてーな夢を追いかけろ」
「命令形になってるよ……」
ユーリはそう言いながら、困ったような微笑を浮かべる。しかしどうしても、心底困っているという風には受け取れない微笑みだった。
「……あのとき、ハロルドが助けてくれてすごくうれしかったし、すごく安心した。殴ったのは……まあよくなかったけど」
「うるせ」
「うん。だから……なんて言うか……今、すごくぐらついてる」
「そのまま落ちてこいよ」
「……いいのかな?」
「よくなきゃこんなこと言わねえ。いいか? もう一度言うからな」
ハルはガラにもないことをして頬に熱が集まって行くのを感じたが、その言葉を口にするのに躊躇はしなかった。
「オレと結婚しろ、ユーリ」
ユーリも、ハルに負けず劣らず頬を赤らめさせて、「……うん」と控えめにうなずいたのだった。
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