反逆者モーガンと車イスの魔女

アンガス・ベーコン

凍り付いた街と溶けだす心

迷宮のような旅路の果てに

 世界中に魔がはびこり、人類は存続を掛けた戦いを余儀なくされた。

 凄惨極まる戦いは悠久を錯覚するほど永きに渡り、やがて人類は魔の力を我がものとする。

 力を操るものを魔導師と、中でも女は魔女と呼ぶ。

 魔導師の発祥国であるヴァハ帝国は、強力な魔導師と屈強な軍隊を従え、魔の侵攻から大小様々な国を奪還した。しかし、人間の領土は増えていく一方で、救われたものは極一部だった。

 若き諜報員モーガンは、救われなかった一人のために長く険しい旅をしている。

 先を急ぐモーガンの脳裏には、心を揺さぶる問いかけがこだましていた。

「どんなに恵まれた人間にも選べないものがあるだろ。親とか、人種とか、生まれたとき手にしているもの全て。こいつは守護の絆でもあるし、解けない呪いでもある。君の場合はどうだ、モーガン」

 この言葉は、モーガンが諜報部隊に配属されて間もない頃、隊長から投げかけられたものである。

 モーガンは憂い、是非を問い、答えを探しながら坂道を上る。結局、彼は結論を出せぬまま丘の頂きに辿り着いてしまった。

 ここはエレノア大陸の最東端。

 旅の途中で得た情報は、ここに旅の終着点――氷雪の街があることを示している。しかし、辺りには緑豊かな森と山々しかない。街どころか、開拓の手が及んだ痕跡すらない。

 ふと、モーガンは吹き荒ぶ風の音に裁判の一幕を重ね、ささやきを零した。

「もうすぐお墓参りにいけそうだよ、兄さん」

 モーガンの兄は忌むべき血族の子供を助け、国家反逆罪に問われた。

 帝国では、忌むべき血族が人里に魔を呼び寄せると信じられている。帝国全体で根絶活動が続いており、彼等を匿えば重罪となる。

 モーガンの旅は贖罪だ。獄中で命を落とした兄の代わりに、罪を清算するための旅。街を見つけて正確な座標を報告すれば、兄を弔うことが許される。

 モーガンはじっと目を凝らし、はやる気持ちを抑えながら一帯を観察した。

 皮肉なことに、眩い太陽が薄い雲の隙間からモーガンのことを照り付けている。まるでこんな場所に氷雪の街などありはしないと嘲笑うかのように。

 その時、荒々しい風が鋭い冷気を運び、モーガンの頬を斬り付けた。モーガンは一瞬、氷の矢に射抜かれたと錯覚する。彼は首に巻いたスカーフを握りしめ、スカーフのはためき具合を確認した。こうすればある程度の風向きが分かる。

 このスカーフは、二十歳の誕生日に兄から譲り受けたもので、この世界に残された唯一の形見である。

「風上を目指そう」

 モーガンは足早に丘を下った。

 行く手を阻む雑木林をものともせず、邪魔な枝をへし折り、鬱蒼とした茂みを踏みぬいて前へ前へ。

 まだ風は止んでいない。森は揺れ動き、擦れ、ざわめき立っている。しかし、モーガンは鋭い冷気という貴重な手掛かりを感じ取ることが出来ない。心中に焦りの高波が押し寄せる。

 大木の幹に手を付いて呼吸を整えていると、手の甲に冷たいものが落ちてきた。モーガンは驚いて頭上を見上げる。

 木の枝が半分、凍り付いている。

「なんだ、これは……」

 モーガンは凍った枝が伸びる方向へ、二、三歩進んでみた。

 すると、景色の色が輝く純白に変わった。

 足先には霜に覆われた低木があり、一つ一つの枝葉から冷気の滝が流れ落ちている。

 そびえ立つ木々もまた霜に覆われ、地面には薄く雪が降り積もっていた。

「何が起こっているんだ……」

 鋭い冷気が風に乗ってモーガンの肌を突き刺す。丘の上で感じたものと同じである。

 モーガンは、この先に氷雪の街があると確信する。だが、寒冷地で過ごしたことがないモーガンですら、足を踏み入れれば無事では済まないと一目で分かった。

「目印を付けて一度立ち去るべきか。でも、準備をしたところで、意味を成すかどうか」

 呟きながら立ち往生していると、モーガンのポシェットから青白いヤモリが顔を覗かせる。これはシラハヤモリという。

 帝国直属の魔導師が遣わせた監視役であり、情報伝達を担うものだ。

 シラハヤモリはモーガンの体を這い回って肩の上に登ると、三叉に分かれている尻尾を白銀の世界の奥に向けた。

 先に行け、という命令である。

「くそ……そんな気はしていたよ」

 モーガンは、自分は使い捨ての斥候だったのだと悟る。贖罪の旅は名目であり、都合良く利用されているだけなのだと、モーガン自身も薄々気が付いていた。

 モーガンが知る限り、兄の死が偶然のものだったのか、謀られたものなのか定かではないが、もし謀られたものだったとしたら、反乱分子になり得る遺族を殉職という形で処分するには丁度良い。

 運良く氷雪の街が見つかれば、帝国の影響力を知らしめる成果になる。

 指示に逆らえば追われる身となる。どちらにせよ帝国は得をするし、モーガンに助かる術はない。

 モーガンは歯を食いしばりながら霜柱を踏み砕いた。彼はスカーフで顔を覆い、目を瞑る。

 モーガンは兄に恩返しをしたい一心で勉学と訓練に励み、二十歳という若さで帝国諜報部隊に入った。任務を遂行する中で、兄のように強くて優しい男を目指した。

 今までも任務に疑問を抱くことはあったが、正義のためだと信じてきた。忠誠心もあった。誰かの一助になれることが嬉しかった。誇りをもって忠を尽くしてきた。胸を張って生きる男になれと、兄からそう言われてきたから。

 だからこそ、モーガンは納得がいかない。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ兄が罪に問われ、命を落としたのか。

 なぜ、なぜ、なぜ。疑問が尽きない。

 凍り付く細胞と共に、信じて来たものが、積み上げて来たものが、モーガンを築いてきたものが、跡形もなく崩れ落ちていく。

「こんな風に、後を追うことになるとは……思ってなかったな」

 モーガンは雪の中に倒れ込んだ。

「ごめん、兄さん。俺……兄さんみたいに、強くなれなかった。他にも謝らなくちゃいけないことが、沢山ある……」




 モーガンの頬に、白くて細く、柔らかいものが触れる。それは人肌のように温かく、仄かに冷たい。まるで寝静まった赤子を愛でるような感触だった。モーガンの痛みきった心が得も言われぬ安堵と心地よさに包まれていく。もう少しだけ眠りに付いていたいと思う。雪の中に倒れ込んだはずなのに。

 何かがおかしい。モーガンがそう気が付いた途端、彼の理性は急速に回復を始めた。

 モーガンは力を込めて目を見開く。

 すると、モーガンの視界全体が、見目麗しい女性の顔に覆い尽くされた。

 女性の肌は新雪のように白く、腰まで伸びた長髪はざっくばらんに整髪されていて、淡い蒼白色をしている。斜めに切り揃えられた前髪の隙間から、女性の金色の瞳がモーガンの顔を覗き込んでいた。その眼差しは氷のように冷ややかでかつ、切れ長で鋭い。凍て付くような威圧感と、他者に意志を読み取らせない不気味さが同居している。

 モーガンは身の危険を感じ、ゆっくりと固唾を飲み込んだ。彼は腰に下げたナイフを手に取ろうとするが、そもそも身に着けているものが自分の衣服ではなかった。

 その時、女性の切れ長な目元が細くなり、口角が緩やかに持ち上がる。彼女は氷柱から滴り落ちる水滴のように、か細く可憐な声を発する。

「良かった、目を覚ましてくれて。よく眠れた?」

 モーガンは、女性の笑みが悪意のない優しい微笑みなのだと気が付いた。

 途端に不気味さや威圧感は日差しを浴びた氷のように蒸発していく。嬉しそうに頬を緩める女性の顔は、まるであどけない少女のようだった。

 モーガンは女性の和やかな話し方に釣られて、思わず肩の力を抜く。

「あ……ああ……」

 モーガンの理性は警戒を促す一方で、訓練で鍛えられた彼の危機察知能力は微塵も敵意を感じ取っていない。それどころか、得も言われぬ照れ臭さに支配されていて、いつも通り頭が働いていない。

「ああ、えっと……君は? ここは、一体……」

 モーガンの視線は燃え盛る薪の音に導かれた。

 彼が横たわる寝具は広い部屋の角にあり、薪の音はレンガ造りの大きな暖炉から聞こえている。暖炉の隣には火を絶やさないようにするための薪が積み重なっている。

 自分は今、民家の中に居るとモーガンは思う。もしかすると、自分は氷雪の街に辿り着いたのではないかと期待した。

 女性は淡々と質問に応じる。

「私はシヴィ。ここは私と、ソイリおばさんの家」

 シヴィはそう答えると、滑らかな所作でモーガンに背を向けて、暖炉の前に置かれた丸テーブルに近付いた。

 その間、シヴィは座ったままだった。彼女は車輪が付いた椅子に座っており、両手で車輪を回すことで少しずつ前進したり体の向きを変えたりしている。

 モーガンは上体を起こしてベッドに肘を付くと、驚きを口にする。

「不思議な椅子だね」

 シヴィは嬉しそうに、えへへ、と笑った。

「すごいでしょ。車イスっていうの。大工のヘブンスさんが作ったんだ」

 シヴィはティーポットを手に取り、飲み物を慣れた手付きでコップに注ぐ。注がれた飲み物からは狼煙のような湯気が立ち上っており、モーガンのところまで爽やかで辛みのある香りを届けた。

「あなたも飲む? ビントスティー」

「えっと……頂こうかな」

「そういえば、あなたのこと、なんて呼べばいいのかな」

「モーガンでいいよ。俺の名前だ」

「そっか。よろしくね、モーガン」

 モーガンは床に足を下ろしてベッドに座る。そしてシヴィから手渡されたビントスティーをすすった。

 ビントスティーとは、ビントスという根菜を擦りおろして茶に混ぜたもの。ビントスは独特な辛味と酸味が特徴的で、口にするとたちまち体が温まる。

 モーガンはビントスティーを味わいながら考えをまとめた。

 先ずはシヴィについて探ろうとする。

「その……俺、倒れてからの記憶がなくて。シヴィさんが、俺のことを助けてくれたんだよね」

「う~ん、そうだね。そういうことになると思う」

「…………?」

 モーガンはどうして曖昧な返答になるのか疑問に思う。

 シヴィは質問に答えたあと、両手でコップを抱えながら中を覗き込んだ。

 シヴィも考えをまとめている。複雑に絡み合った事情をどう明かすべきか、迷っている。薪が燃え盛る音だけが室内に響き渡っている。

 ふと、モーガンは大事なことに気が付き、唐突に目を見開いて沈黙を破った。

「そうだ。俺のスカーフは? えと、他にも持ち物あったよね」

 焦りを前面に押し出すモーガンの声に、シヴィは少し驚く。

「ちょっと待ってて。びしょ濡れだったから、乾かしておいたの」

 シヴィはそう答えたあと、視線を一瞬手元に移した。それから小さくかぶりを振って使用人の名を呼ぶ。

「セバス。彼の洗濯物を持って来て。大事なものみたいなの」

 すると、ベッドの対角にある両開き扉が軋むような音を立てながら開いた。艶やかで透明な巨人が入室してくる。

 巨人が身に纏っている古ぼけたスーツは明らかにサイズが合っておらず、露出した腹部や腕から冷気の滝が流れ落ちている。頭部は辛うじて天井に当たっておらず、それでも身長は二メートルを優に超えている。氷の巨人だ。

 氷の巨人は角ばった両手でモーガンの衣服やポシェットを入れたカゴを持っている。

 両手の表面は幾重にも巻かれた包帯で覆われており、手にしているものがくっ付かないよう配慮されている。

 巨人を目の当たりにしたモーガンは、驚愕の余り口を半開きにして固まった。ビントスティーで温まった彼の体が悪寒で急激に冷やされていく。コップが彼の指先から滑り落ち、床に衝突して粉々に砕け散った。

「紹介するね。貴方を見つけてくれたのが、こちらのセバス。この子はアイスゴーレムで……えっと、私、俗に言う魔女なんだよね」

「あ……え……?」

「ごめんなさい。隠すつもりはなくて……混乱するだろうから話さなかったの」

 シヴィはゆっくりとモーガンに近付き、怯え切った彼の両手を手のひらで包み込む。

「大丈夫。私もセバスも、モーガンを傷付けたりしない。必ずあなたのことを無事に帰すから」

 彼女の手は温かく、それでいて仄かに冷たかった。

「信じてくれる……?」

 シヴィの懇願にも近い問いかけに、モーガンは直ぐには答えられない。彼の中には恐怖が渦巻いていたが、それよりももっと複雑で、強大な不安が彼の心を支配していた。

「……外の様子を見に行ってもいいかい? 少し空気を吸いたい」

「うん……分かった。セバス。私の上着を持って来て。彼に貸してあげたいの」

 モーガンは自分の服に着替え、借りた毛皮のコートを羽織り、形見のスカーフを首に巻き付ける。

「ついて来て」

 シヴィはアイスゴーレムに車イスを押してもらって、モーガンのことを家の出口まで案内した。

「ありがとう」

 モーガンは軽くお辞儀をし、扉を開けて外に出る。

 そこは氷の世界だった。微かに流れゆく一つ一つのそよ風が、鋭い冷気を帯びている。ありとあらゆるものが凍てつく。万物の時が氷の中で静止している。雪が降っていないことと、灰黒い雲の隙間から差し込む光の柱だけが、モーガンの心に微かな希望を灯した。

「どうなっているんだ、ここは……」

 モーガンはシヴィの家から少し離れて、辺りを慎重に観察する。家は一つだけではなかった。それどころか、シヴィの家と同じような民家が数えきれないほど建ち並んでいる。

 緑豊かな山々と、森に囲まれた場所に、氷雪と霜に覆われた辺境の街がある。氷雪の街だ。

 モーガンはもう少し先へ進み、円形の広場に出る。広場の中央には大きな噴水があり、色とりどりの商店や出店が、噴水を囲みながら賑わいの残響と共に凍っている。

 噴水の水は弧を描くように湾曲したまま固まっていて、今も凍り付いた時の中で人々の訪れを待っている。

「帝国は多分、ここに魔女が居ることを知っていたんだ……」

 モーガンは噴水の縁に腰を下ろして頭を抱える。彼の中で漂っていた疑問や違和感が結び付き、一本の線になっていった。導き出された結論は、帝国はシヴィを捕らえるためにモーガンを遣わせたということ。

 忌むべき血族が魔を呼び寄せるものならば、魔女や魔導師は魔を操るものだ。

 彼等は自らの有能性を示し人権を得る。もし身の振り方を誤れば、忌むべき血族と同じ末路を辿ることとなる。

 モーガンは、シヴィは身の振り方を誤った側であると推測する。

「俺は、恩を返すどころか……彼女を帝国に差し出していたのか」

 シヴィはモーガンの事情も立場も知らず、知ろうともせず、行き倒れた彼を助けた。この国において人種を問わず人助けをするということは、己の身を滅ぼしかねない。モーガンの兄がそうだったように。

 シヴィが淹れたビントスティーに毒物の類は入っておらず、モーガンの口に合うものだった。ポシェットの中身は行き倒れたときのままだった。モーガンはアイスゴーレムのセバスに度肝を抜かれたが、セバスはモーガンを襲うどころか、彼の持ち物を親切に運んできた。兄の形見も無事だった。

 シヴィは信頼に足る人物で、間違いなく命の恩人であるとモーガンは思う。

「待てよ。シラハヤモリは」

 モーガンは再びポシェットの中身を確認する。しかし、そこにシラハヤモリの姿はない。モーガンの知識が正しければ、シラハヤモリはこの寒さに耐えられない。

 凍った森の場所はシラハヤモリを通して帝国に伝わっているものの、街の正確な座標までは分からないのではないかと考える。つまり、帝国は凍った森の中で街を探す必要があり、ここに到着するまでには距離を進む以上の時間がかかる。

 また、モーガンは帝国の監視から逃れた状態にある。帝国はモーガンの安否を確認できず、既に死人として扱われている可能性が高い。

「今ならまだシヴィを逃がせる。こうしちゃいられない……!」

 モーガンは勢いよく立ち上がった。

 シヴィの下へ戻ろうとしたその瞬間、噴水から伸びる氷のアーチに、モーガンの姿が鮮明に映り込む。モーガンは映り込んだ自分自身と目を合わせた。

 癖っ毛が目立つ茶髪と緑色の瞳は兄とよく似ている。頬に刻まれた忠誠の証さえなければ、兄を捕らえた者たちから死人が蘇ったと錯覚されても不思議ではない。これさえなければ、モーガンの足が止まることはなかった。

 任務の際は専用の塗料を用いた秘匿の魔術で焼き印を隠す。これが自然に解けることはない。だが、現にモーガンの魔術は解けていた。

「どうして……いや、俺は……何者だ……?」

 モーガンは旅の目的を思い出す。

 兄を弔う権利を得て、兄の尊厳を取り戻すためだ。

 氷雪の街は見つけた。幸運なことにモーガンは生きている。旅に必要な道具や座標を記録するものも全て手元にあり、防寒具も手に入れた。

 あとは凍った森を抜け出し、近隣の街に到着出来れば、各地に駐在している帝国軍と接触できる。そこで座標を報告すればいい。

 シヴィを見捨てれば、任務を果たせる見込みがある。少なくともシヴィを帝国軍から逃がすより現実的で、諜報部隊として正しい行動だ。地図を広げて座標を記録し、森を引き返すだけでいい。

 逆にシヴィを匿うことは、兄を見捨てることと等しかった。

 モーガンは葛藤の末に兄のスカーフを握り締める。

「兄さん……俺は……」

 モーガンは目をつむり、拳に力を入れる。シヴィを見捨てようとするのは自分の臆病さが招いた悪魔のささやきか、兄ならどうしていたかと考える。

 すると、強い風がモーガンの首に巻かれていたスカーフを解いた。

 はためいたスカーフは氷のアーチに被さり、映り込んでいた焼き印を覆い隠す。その時、モーガンは兄から贈られた言葉を思い出した。

「胸を張って生きる男になれ……か」

 モーガンは、何が正しいかではなく、後悔しないのはどちらかと考える。何故、兄が危険を冒してまで子供を助けたのか、思いを巡らせる。

 モーガンはスカーフを掴み、ゆっくりと頷いた。

「わかったよ、兄さん……いつもありがとう」

 モーガンはスカーフを巻き直し、シヴィの下へ急いだ。


「シヴィ!」

 モーガンは勢いよく扉を開けた。驚いたシヴィは急いでモーガンを出迎える。

「お帰り、モーガン……大丈夫だった?」

 モーガンは扉を開け放ったまま玄関に立っていて、肩で呼吸をしている。シヴィの目にもモーガンが急いで帰ってきたのは明白だった。

 シヴィはモーガンの落ち着きのなさを心配し、顔を覗き込む。

「その、外を見て驚いたよね。私、まだ伝えていないことが沢山あって。この街にね……」

 シヴィが消え入りそうな声でそう言いかけたものの、モーガンはそれすらもかき消すように告白する。

「俺も、言ってないこと、あったんだ! 俺……実は……帝国の諜報員でさ」

 シヴィは驚いて目を見開いた。そしてゆっくりと口を閉じる。自分が追われる身になったということを理解したからだ。

 モーガンは頬の焼き印を指さしながら続ける。

「これが証拠だ。でも、俺、捨てられたんだ。凍死しろって言われた。でも、君が俺を助けてくれた。俺は、君に恩返しがしたい」

「え……?」

「帝国軍がここに来るまで時間がある。ここから逃げよう。俺も時間を稼ぐから」

 シヴィは呆気に取られて固まる。凍て付くような沈黙が二人の間に広がった。それを打ち破るように、吹き荒ぶ風が扉を更に開け放つ。モーガンとシヴィは寒さのあまり同時に体を震わせた。

 場の締まらなさに、シヴィは思わず吹き出して笑う。

「あはは! ここじゃ寒いや! 暖炉の前で話そう!」

 モーガンは小刻みに頷く。

「う、うん」


 モーガンは温め直したビントスティーを口にしながら、腰を据えてシヴィに状況を説明した。ここに来るまでに長い旅をしてきたことや、シラハヤモリに監視されていたことも含めて。

 シヴィは頷きながら耳を傾ける。

「そっか……私、帝国に見つかったんだね」

 シヴィは悲嘆に暮れることも、モーガンを責めることもしない。彼女はモーガンの頬を指さしながらゆっくりと口を開く。

「あのね、モーガンのほっぺにあった魔術を解いたの、私なの」

「え」

「ごめんなさい。特に深い意味はなくて。モーガンが寝ている間に気が付いて、気になって、つい」

「そうだったんだ……すごいな、シヴィ」

 秘匿の魔術は並みの魔導師に解けるものではない。モーガンは焼き印があるところを摩りながら驚く。

 感心している彼の様子を見ながら、シヴィは深呼吸をした。

「今度は私が、秘密を明かす番だよね」

 モーガンは頬を摩るのを止めて、シヴィの話に集中する。

「私が座っている車イスなんだけど、この街一番の大工だったヘブンスさんが、ソイリおばさんのために作ったものなんだ」

 シヴィは部屋を見渡しながら続ける。

「ここにあるもの全部、本当はソイリおばさんのものなの。私が生まれたのは、この街じゃない」

「遠くから来たってこと……?」

「うん。逃げて来たんだ。よく覚えていないけれどね。私が幼い頃、ソイリおばさんは得体の知れない私を拾って、育ててくれた」

 アイスゴーレムは暖炉から離れた場所で佇み、ソイリと幼いシヴィが写った写し絵を見つめている。写し絵の中の二人は緑豊かな畑を背にし、満面の笑みを浮かべている。

「ソイリおばさんも、ヘブンスさんも、八百屋のお姉さんも、仕立屋のおじさんも、とっても優しくて、素敵な人。本当はね、にぎやかで楽しい街なんだ」

 モーガンはシヴィが浮かべる微笑みに、深い哀しみを見る。

「色々と状況が変わっちゃって……もう五年も前のことになるかな。自分が魔女だって気が付いたの。広場の噴水は見た?」

「ああ。見た」

「あれ、私が凍らせたんだ」

 モーガンは言葉を失った。

 魔を操る力を持った者は先代から制御の術を必ず教授する。そうしなければ、力が暴走し自らを破滅させてしまう。そうモーガンは教わったことがある。

 シヴィは穏やかな口調で続けるが、その面持ちには静かで冷たい悲壮感が募っていた。

「怖かった。自分の体が、まるで自分のものじゃないみたいで。みんなから避けられて、悲しかった。ソイリおばさんだけがね、最後まで寄り添ってくれたの」

 シヴィはテーブルにビントスティーを置く。

「この街を凍らせたのは、私。温かい森に雪を降らせたのも、綺麗な湖に蓋をしたのも、私。みんなのことを追い出したのも、ソイリおばさんのことを凍らせたのも、私」

「シヴィ……」

「これでも、結構上手くなったんだよ。たくさん練習したんだ。でも……でもね、いつまで経っても、街は晴れない」

 そう言って俯くシヴィの頬に、一筋の涙が伝い、瞬く間に凍り付く。シヴィは指先で凍った涙を弾き飛ばすと、それはきめ細やかな結晶となって、きらめきながら暖炉の中に溶けていく。

 孤独な五年間で、彼女は凍らせた湖に勝るとも劣らない涙を流していた。

「だから私、もう、ここから出ないって決めたんだ」

 シヴィは前屈みになり、ロングスカートの裾を掴んで膝の上までめくり上げる。

「…………!」

 モーガンは衝撃のあまり口元を抑えた。

 シヴィの膝から下はどす黒く変色しており、歪に捻じ曲がったまま壊死している。表面は所々に霜が付いていて、腐臭が漂わないよう冷凍されていた。

 モーガンは恐る恐る口を開く。

「自分で……やったのか……?」

「うん」

 シヴィは裾を元に戻すと、頭を下げてモーガンに謝る。

「ごめんね、嫌なものを見せて。でも、包み隠さず話しておきたくって……」

「いや……こちらこそ。本当は人に見せたくないものだろうし」

 シヴィは首を横に振った。そして穏やかな微笑みを湛える。

「私のことを信じてくれて、ありがとう。助けようとしてくれてありがとう。久しぶりに人と出会えて、嬉しかった。でも、私は街の外に出ちゃいけない」

「そんな……」

「独りでいるときは怖くて死ねなかったけど、モーガンが来て、帝国が探してるって知ったのに、今は全然怖くないんだ」

 シヴィはモーガンの両手を握り締める。

「きっと、モーガンのお陰だね」

 モーガンは彼女の温かくも冷たい手を見つめ、重たい口を開いた。

「俺、君のために何が出来るかな」

 シヴィは少し考え込んだあと、名案を閃いて両目を丸くする。

「お迎えが来るまでの間、旅の話を聞かせて欲しいな」

「旅の話?」

「うん。だって、帝国の首都って、ずーっと西の方にあるんだよね」

「ああ」

「私、一度も街を出たことがなくって。興味あるんだ」

「本当に、そんなことでいいの?」

「うん!」

 シヴィは丸テーブルの方に向き直り、再びコップを手に持つ。彼女の笑顔は期待に満ち溢れ、爛々と光り輝いた。まるであどけない少女のようだった。

 モーガンは顎を擦りながら困惑する。だが、彼女の心底待ち望んでいる表情に押され、どこから話そうか真剣に考え始める。

「ねえねえ、モーガン。海には行ったことあるの?」

 シヴィは身を乗り出してモーガンに問いかけた。

「え? ああ、行ったよ。短い滞在だったけど」

「いいなあ。聞かせて聞かせて」

「そうだなあ……」

 二人は薪の音を聞きながらでしばし談笑する。とめどなく会話は続く一方で、シヴィもモーガンもお互いを助ける方法を思案していた。

 追手が迫る中、しがらみを背負った二人はこの一瞬、この瞬間だけは、心の底から自由になっていた。

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