3.食べられる量は案外気持ちの問題。
「食べるなぁ……」
小一時間後。
俺と、あや……
いや、違う。
俺はもう、とっくに食べ終わって、ドリンクバーから取って来た、コーヒーを飲んで一息ついている。だから、正確に言うならば、夕食を取って「いる」のは、咲花だけだ。
なんでも、咲花は、昼(時間的には夕方に片足突っ込んだくらいだったらしいけど)から、何も食べていないらしい。彼女自身は昼にしっかりとした食事を取っていたようで、彼女の肉体……つまりは俺の方はまだそこまで腹が減っているわけではなかったけど、俺の肉体……つまりは彼女の方は、いきなり、前日の夜から何も食べていない状態で、昼過ぎの、見知らぬマンションに放り出されたということになる……らしい。ややこしい。
そんなわけで、肉体の側に依存する空腹感は、俺の生活基準だったようで、相当腹が減っていたらしい。女性声優どころか、一般成人男性が食べる量にしてもちょっと多すぎるんじゃないかというレベルの注文をし、それが今、全て咲花……つまりは俺の胃袋に収まろうとしている。
正直、少食寄りの人間としては、見ているだけで腹が一杯になるレベルだし、あんなに入れるだけの余地が自分の肉体にあったんだと感心するくらいなんだけど、人間、意外と大事なのは気持ちなのかもしれない。
「ふう……食べた食べた」
暫くすると咲花は、あれだけ大量にあった食事をぺろりと平らげた上で、ドリンクバーから、コーラを持ってきて一服を付く。
「……本当に全部食べるんだな……」
「そうよ。当たり前じゃない。どれだけお腹減ってたと思ってるの」
「いや、それは知らんけど……」
そこで、咲花が、俺を指さして、
「っていうか、当たり前のようにため口使うのやめてくれる?私、あなたにため口を使われる筋合いないんですけど」
言われてみれば。気が付いたらいつのまにかため口だった。なんでだろう。最初が衝撃的過ぎたからかな。
「えっと、ごめん、なさい。それで、えっと……これから、どう、いたしましょうか?」
それを聞いていた咲花が実に気まずそうに、
「……ごめん、ため口で良いわ」
「なんでですか」
「いや、だって……自分の顔と声で、かしこまられるのなんか、凄い、変」
「ああ……」
なるほど。言わんとするところは分からなくもない。自分が自分にへりくだってくる。なんともむず痒い感じだ。
「分かった。それじゃあ普通に……それで、なんだけど、これからどうしようか?」
「それ、なのよね……」
二人、腕を組んで考え込んでしまう。
夕食を取りながら情報交換をしたおかげで、分かったことが色々ある。
まず、やはり俺と咲花は精神(心?)だけが入れ替わってしまっていること。
そして、その入れ替わりが起こったのは恐らく、今日の午後三時くらいではないかということだ。
これに関しては、咲花が、俺の身体で目を覚ましたタイミングと、俺がスタッフの人に心配されたタイミングがほぼ合致していたことと、そのタイミングが大体そのくらいの時間だったということから「多分、そうだろう」と、二人の間で結論づけたことだ。
要は、俺の起床と共に入れ替わりが起こったというのだ。なるほど、だから俺は突然アフレコ現場に意識を飛ばされたわけね。融通の利かない話だ。もっとも、偶発的な入れ替わりに、融通なんてものが通用するのかは分からないけど。
それ以外だと、二人はそれぞれ、この「入れ替わり」が発生してしまった要因に関して心当たりがあるということも分かった。
「ちょっと、仕事が忙しくてね……」
そう切り出した咲花が語った「要因」は、今年の正月。初詣でした、あるお願いごとのことだった。
仕事がとにかく忙しい。別に、嫌いなわけでは無いのだけど、自分の時間があまり取れていない。
仕事面では充実しているけど、プライベートがおろそかになっていて、どんどんとこのまま時が過ぎていく危機感がある。どうにかならないだろうか。
もうちょっとプライベートを充実させたい。楽しいことをしたい。そんなお願いごとをしたのだそうだ。
咲花曰く。これが曲解されて、入れ替わりにつながったのではないか、という。
確かに、肉体が俺ならば、仕事からは解放される。プライベートの時間も作りまくれるだろう。めでたしめでたし。
……なんて。そんなわけはない。
彼女は「咲花あやめ」として、プライベートを充実させたいと願っているんだ。なのに、咲花あやめであることを放棄することになるのであれば、本末転倒と言っていい。
そんなわけで、もし、今回の出来事が彼女の願いがかなえられた末の出来事だったのであれば、神様はトンデモ斜め上の解釈で解決を図って来たことになる。
え?俺の側の「要因」?
そんなの言えるわけないじゃない。
だって、俺のお願いは、「咲花あやめが幸せになりますように」だよ?それがかなえられた結果、咲花のお願い事が聞き届けられたみたいなことになったとしたら、原因俺ってことになるじゃない。そんなこと、とてもじゃないけど、咲花には言えないよ。だからこれは、俺の心のうちにしまって、墓場まで持っていこうと思ってる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。