ハンカチ落とし

マツ

ハンカチ落とし

 マンションへ帰るころには朝日がまぶしくなっていて、深海みたいなクラブのフロアで踊っていたのはほんの2時間前なのに1週間くらい経ったように遠くに感じた。でも、コートの左ポケットに仕舞ったルリコの、ブラウスからひきちぎったボタンに触ると、忘れてんじゃねーよたった2時間前だろーがよってルリコの汚い声が耳の奥に響いて、わたしの襟首をルリコがいまも掴み続けてるみたいな気がして心臓がバクバクした。20代も半ばになったのに高校の頃と何も変わらないな。仕事の帰りに反りの合わない同僚たちにクラブに誘われて、何かあるにきまってるのにもしかしたらこの機会に仲良くなれるかも、なんてバカみたいに期待して、のこのこ着いていったらやんわりシカトされて、高3のとき教室でハブられたのを思い出して恥ずかしくて悔しくて情けなくてみじめになって、それから急に吐きそうになるくらい腹が立って、飲んだ勢いもあってキレて主犯格のルリコといういけ好かない主任代理の女に掴みかかってボタンを引きちぎって……。捨てようと思ったけど契約社員という自分の立場が頭をよぎって捨てられなかったボタンが左ポケットで「さあ、どうする?」とわたしに決断を促す。あの女に返せるかな。返しても元に戻れるわけねーな。戻ったところで代わり映えのしないクソみてーな毎日が続くだけだし。それよりも月曜、会社行けるかな。涙も吐瀉物も、帰り道で全部出し尽くしていた。コートだけ脱いで化粧も落とさずベッドにもぐりこんだ。ひどく疲れていたせいかすぐに落ちた。

「ユコちゃんユコちゃん。」

 わたしを呼ぶ声で目を開ける。小学生くらいの見覚えのある女の子が私を見下ろして笑っていた。4年2組で一番仲がよかったキイ子ちゃんだ。

「わあ!キイ子ちゃん、元気?」

 キイ子ちゃんは心配そうな表情で「ユコちゃんだいじょうぶ?泣いてたの?」と聞いてきた。わたしはなんだか恥ずかしくて「泣いてないよー、さっきまでクラブで友達と踊ってたんだよー楽しかったよー」と嘘をまぜて答えた。

「楽しい?」

「楽しいよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「ほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとに」

「ほんとのほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとのほんとに」

「ほんとのほんとのほんとのほんとのほんとに?」

 わたしは笑い出した。でもキイ子ちゃんは笑わなかった。

「ユコちゃんかわいそう、本当はちっとも楽しくなんかなかったのでしょう。」

 子供の姿と声なのに、大人が子供をあわれむみたいに、落ち着いた態度でゆっくりと言った。ああこれは夢だからキイ子ちゃんはなにもかも知ってるんだ。クラブでの一部始終を。そしてきっと、わたしのくだらないこれまでの人生のぜんぶも。

「でもね、キイ子ちゃん、踊ってる間だけは、ほんとに楽しいんだよ。踊ってるときは、確かにアガって、あ、アガるっていうのはきもちいいって意味で、それで、きもちよくて、それは…なんだっけ、ドーパミン?アドレナリン?何か、頭の中でドラッグみたいなのを無理に出させて、神経を高ぶらせて、ハイになってるカンジ?もしかするとそれって本物のドラッグを使うのと変わらないのかも。てかネットでそういうサイトを見つけて、ちょっとだけ試したらどんな感じだろうって考えたことがあって……。なんて、ね。冗談だよキイ子ちゃん。でもどうしようキイ子ちゃん、わたしどうしたらいい?キイ子ちゃん、もうだめかもしれない、キイ子ちゃん、教えて、キイ子ちゃん、助けて、キイ子ちゃん。」

 最後はもう泣き声になっていたと思う。


「ユコちゃん、ハンカチ落とししよう。」

 

 キイ子ちゃんがそう言った瞬間、わたしの心がパッと明るくなった。わたしはハンカチ落としが大好きだったのだ。でもそんなこと、もうずっと長いあいだ忘れていた。キイ子ちゃんのことばが、記憶のスイッチを押してくれたのかな。いつのまにかそこは私の部屋じゃなくて2組の教室になっていた。机は全部後ろにさげられ、教室の前半分にスペースが作られている。2組のクラスメート全員が集まっていた。

「じゃ最初はわたしが鬼になるね。みんな輪になって。」

 キイ子ちゃんが指示すると30人ほどのクラスメートが円陣をつくって床に座った。わたしも輪に入っていた。右隣はニワくん、左隣はカズムラさんだ。ニワくんはその頃テレビで人気のあったお笑いタレントのモノマネでよく私を笑わせてくれた男の子だ。カズムラさんは赤いメタルフレームの眼鏡をかけた勉強のよくできる女の子で、私に小公女と小公子を貸してくれた。けれど結局どっちも難しくて最後まで読まなかったな。そういえばあの2冊、返したっけ。それにしても懐かしいなあ。

「じゃあはじめるね。」

 キイ子ちゃんは真っ赤なハンカチを丸めて両のてのひらで包み、前かがみの姿勢になって、そのまま輪の外をまわりはじめた。キイ子ちゃんが5周まわる間のどこかで、手に隠し持ったハンカチを、気付かれないよう誰かの背後にそっと落とす。キイ子ちゃん、わたしの後ろに落とすかな。それとも別の子の後ろに落とすかな。落として欲しいな。でもやっぱり落とさないで欲しいな。2つの、正反対の期待。ああ、クラブよりずっとずっとアガる。大人になって、こんなに楽しい気持ちになったことなかったな。大人になってからは、いつも心臓が重かった。心療内科で処方される抗不安薬でどうにか乗り切っていた。アイちゃんが立ち上がって輪の外を回り出す。私じゃなかった。1周、2周、3周目のとき、ふっと背後の空気が揺れるのを感じた。そっと手を動かすとハンカチ越しに、弾力のある、なまあたたかいものが触れた。何を包んでいるんだろう。わからないままわたしはそれをつかみ、アイちゃんを追いかける。追いつかなかった。今度はわたしが鬼だ。さあ誰の背中に置いてやろう。私はまわる。キイ子ちゃん、カズムラさん、ニワくんの後ろを過ぎていく。いつの間にか輪の中にはルリコがいる。ルリコといっしょにわたしをシカトした同僚もいる。でももうわたしは腹を立ててはいなかった。ハンカチ落としをやれば、きっとルリコたちとも仲良くなれる、そんな気がしていたからだ。このままずっと、ハンカチ落としをやっていたいなあ。5周を過ぎてもわたしはまわるのをやめなかった。キイ子ちゃんが笑ってる、ニワくんが笑ってる、カズムラさんが笑ってる、アイちゃんが、ルリコが笑ってる。ああ幸せだ。このままずっとずっとまわっていよう。どうせ夢だもの。このままずっとまわっていよう。死ぬまでまわりつづけよう。手の中で、なまあたたかいかたまりが、ドクンドクンと脈打っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハンカチ落とし マツ @matsurara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ