amorphous
踊る猫
20230226
片岡義男の『日本語の外へ』という本を読んでいたら、アンドリュー・ワイエスの言葉が紹介されているのが目を引いた。「私の絵にペシミスティックな感触があるのは、いま自分が見ているこの瞬間を、いつまでも自分のものとして持っていたいと私が願うからだろう」(角川文庫版p.15)。「いつまでも」「この瞬間」を覚えておきたい、「自分のものとして持っていたい」と「願う」心理。それは決して浮き世離れした御高説の類のものではないと僕は思う。僕自身だって同じことを思うことがある。例えば今日食べた料理の味を覚えていたい、忘れないでいたいという気持ち。でもそんなことはできない。どんなにつぶさに覚えていようとしても僕はやがて忘れる。それはでも悲しいことではない。忘却にはポジティブな面もある、と僕は思っている。
僕はこのワイエスの言葉から坂本龍一の言葉を思い出した。坂本龍一は後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』の中で次のように言い放つ。「思考にも生活にも一貫性などもたせたくない。人生は矛盾だらけだが、なかでも自分が一番信じられない。昨日好きだったものが、今日はもう嫌いになっている。だから、一度言ってしまった言葉にも責任などもちたくない。一貫性を保つために、今この瞬間の考えや感覚に嘘をつくなんて、まっぴらごめんだ」(ちくま文庫版p.15-16)。子どもじみた理屈と言ってしまえばそれまでだが、僕はこの坂本の言葉に共感を抱く。僕自身、昔流行ったところのスキゾというのか、実に一貫性のない人間として生きているなと思うことがあるからだ。さっきまで片岡義男を読んで深刻に考え込んでいたのに、今はもうまったく別のコンテンツを楽しんでいる、というように。
僕は古井由吉や村上春樹を好んで読むのだけれど、彼らの作品が面白いと思うのは彼らが実に人間の狂気や孤独の中に内向的に入り込んで行くからだ。村上春樹の比喩を援用すれば、井戸の中に降りていき深みの中で何かしら崇高なものと出会う作業を彼らが続けているから、そこに興味を惹かれると言うべきなのかもしれない。僕もまた僕の中に入り込む作業をしてみたいと思うようになった……というのは嘘だ。いや、嘘というのが極端すぎるなら、これは僕がこうして文章を書く作業を通して見出してしまった思わぬ真意とでも呼ぶべきものかもしれない。文章を書いていると、あるいは自分の中を掘り下げていくとこうして自分自身は書いたり掘り下げたりする作業の中で変化し、思わぬものを僕自身に提示することだってある。それが興味深いから僕は日記や文章を書くと言えば言える。
その意味では、書けば書くほど、探れば探るほど本当の僕自身というものは蜃気楼のように逃げていくのかもしれない。形として残るものを掴んだと思えば、それはこうして書く中で自分に極めて都合のいいように変化してしまった自分自身であったりする。僕がいったい何を考えているか。それはジャック・ラカンが「現実界」という言葉で記したような、誰の主観をも通すことができずしたがって触れることも感じることもできない類のものなのかなと思う。ならば僕は、そんな蜃気楼のような僕自身に到達することを夢見たりしない方がいいのかもしれない。僕を突き動かすそうした高次の存在の僕自身に対する憧れなんて捨てて、僕はもっとスキゾフレニアを極めて、自分に忠実に生きようとせずにむしろ自分を次々と裏切るようなスタンスで生きていってもいいのかもしれないと思う。
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