#9

「ハハハッ、よくぞ来てくれた! ちょうど話し相手が欲しくて、部下に片っ端から声をかけていたところだったんだ。皆忙しいらしく、誰も参加してくれなかったがね!」


 あまり好きになれないタイプの人間だ。地下のセキュリティエリアに続く長いエレベーターの密室内で、俺はそんなことを思う。白い歯を見せて子どものように笑う、ハンサムな男。こんな人間が天才科学者であるとは、エンリコに潜入するまでは想像すらできなかっただろう。


「セルジオ主任、産業スパイの件ですが……」

「あぁ、その件か! 詳しくはエレベーターから降りた後で聞こう。君たちに見せたいものも沢山あるんだ」


 エレベーターが止まり、俺たちは薬品のケミカルな香りが充満する空間に降り立つ。ロイにとってもこの場所に来るのは初めてらしく、平静を保とうとしながらその表情はぎこちない。俺は先導するセルジオから見えない位置で、ロイの背中をそっと押してやる。

 案内された場所は複雑な計器や培養槽が並ぶエリアで、セルジオはその中央に置かれたソファがある空間を指さす。


「座ってくれたまえ。インスタントで悪いが、コーヒーを振る舞おう」


 全自動のコーヒーメーカーが揺れ、コーヒーの香りが室内を包み込む。セルジオはキャビネットから2つのカップを取り出すと、手慣れた様子でそれを運ぶ。

 お辞儀をしてカップを口に運ぶロイを尻目に、俺は頭陀袋を脱ぐことなくテーブルの上のコーヒーを一瞥する。セルジオが席を外した数分ほど手を付けないでいると、ロイに横から肘で小突かれた。


「……頂かないと、失礼ですよ」

「猫舌なんだよ。まだ熱いって」


 やがて帰ってきたセルジオは、小さな水槽を抱えて着座する。ロイが産業スパイの話を切り出すのを遮り、彼は水槽を指した。


「先に、これを見てくれ。最近完成した、面白いものだよ」


 水槽の中の培養液を掻き出し、セルジオは中から何かを取り出す。脈動するそれは、無毛の生物だ。スフィンクス種と呼ばれる猫であることは、培養液を拭き取った後に理解できた。


「猫、ですか……?」

「そう、猫だ。ロイ君、触ってごらん。こいつは確かに生きている」


 ロイが恐る恐る触れれば、猫は喉を鳴らして彼の腕に擦り寄る。ロイの強張った表情が少し緩み、そのまま静かに抱き上げた。腕の中で、猫は安心したかのように眠っている。


「……かわいい」

「そうだろう? だが、面白いのはここからだ!」


 セルジオはにこやかな笑顔のまま、パン、パンと手を叩いた。その音を合図に、猫はロイの腕から消失する!


「…………!?」


 言葉を失うロイの修道服はしとどに濡れ、タイル床に透明な染みが付着する。猫の体積分の水風船が破裂したかのように、床には水溜まりが残った。


「な、にを……?」

「安心しなよ! 猫はちゃんと生きているとも」


 どこからか響く鳴き声に耳を傾ければ、その声は水溜まりから聞こえる。セルジオがもう一度手を叩くと、粘性のある液体はどんどん不透明になり、実体を手に入れる。


「新しいホムンクルス、可塑性ネコだ! 面白いだろう?」


 再び実体を持った猫は自ら水槽に飛びこみ、休眠に入る。ロイはその様子を見ない。俯き、拳を振るわせていた。


「ワタシが生み出した新種の生物だ! どうだ、面白いだろう? 最高だろう?」

「……セルジオさん、我々の教義は——」


 怒りのこもったロイの抗議の声は、セルジオに届くことはなかった。彼は勢いよく立ち上がると、そのまま卒倒してソファに倒れ込んだ。すやすやと眠っている。


「ロイ……!?」

「やっと効いたか。まぁ、丁度いい。君はそれなりに警戒心があるようだね」


 コーヒーに何か盛られているかもしれない危惧は常に行なっていたが、それが現実になるとは。殺し屋の職業病に感謝しながら、俺はセルジオに対峙した。


「何が目的だ?」

「話がしたいんだよ。“ペインマン”くん……いや、君は何者だ?」

「……こっちの台詞だよ」

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