第6話

 予想外の感触に、一瞬呼吸が止まるのを感じた。

 は、や、え。

 ちょっと?


 柔らかな髪の感触に、触れ合った体の温かさ。こういうことをするタイミングではないと思っていたから、どういう反応をしていいのかわからなくなる。


 春原がどんな感情で私を抱きしめてきたのかもわからないから、心が行方不明になりそうだった。ほんとに、どうすれば。

 とっ、とっ、とっ。

 小さく刻むような心臓の音が、どこか遠かった。意識が現実に戻ってこない。


「へ、あ? ……春原?」

「ごめん。ちょっとだけ、こうさせて」


 耳元で囁かれると、何も言えなくなる。

 体が抵抗を忘れる。


 やっぱり、春原は色々めちゃくちゃというか、唐突すぎると思う。読めないし掴めないしわからない。

 もう、ほんとに。

 なんなんだろう。


「蜜柑は、すごいね」


 彼女はぽつりと言う。

 すごいって、何が?


 私は彼女の腕の中で何度か口を開こうとするけれど、言葉が何も出てこない。


 触られるだけで、こんなにも心がおかしくなるのはなぜだろう、と思う。一ヶ月間ずっと抱き合ったりしてきたのに。慣れるどころか、目には見えない何かが蓄積していって、ふとしたした瞬間にそれが爆発して、私の心臓をうるさくする。


 見えないし、掴めないし、わけがわからないのに。

 触れたその温かさは、どこまでも透き通っているから。だから逃れようにも逃れられない、のかもしれない。

 何それって、自分でも思うけど。


「やっぱり蜜柑は、私の知ってる蜜柑だ」


 春原は私をどこまで掴んでいるのか。

 私のどこまでを知っていて、どこまでを掴んでいるんだ。私がこの触れ合いで何かを感じているのと同じように、彼女も私の何かを感じているのだろうか。


 やっぱり、掴めない。

 無感動に笑ったり、柔らかく笑ったり、照れたり攻めてきたりよくわからないことを言ってきたり。


 春原は何がなんだかよくわからなくて、でも、今こうやって抱きしめられるのが嫌かと言われると、そんなこともない、気がして。


 意味わかんない。

 こんな変な気持ちになるのなんて、初めてすぎて。

 でも、春原以上に私が意味不明だ。人と触れ合うだけでこうなるって、馬鹿か。馬鹿なのか。わけがわからない。


「……手伝うよ」


 困惑の中、私は首を傾げた。


「私も、蜜柑のこと手伝う。人手が必要になったら、いつでも呼んでくれていいよ」

「……いつでもって言われても。私、春原の連絡先知らないし」

「そういえばそっか。じゃ、交換しよっか」

「……いいけど」


 私たちはめちゃくちゃだ。

 お互いのことも連絡先も全然知らないのに、こうやって触れ合ったり遊びに行ったりって。


 どうなんだろう、ほんと。

 友達になるには遠いけれど、じゃあただの他人かと言われれば、うーんって感じで。


 いやいや、別に私は春原と友達になりたいわけじゃない。

 さっさとこの脅し脅されの関係から脱却したいってだけで。


 思わずため息をついて、彼女から少し離れる。それだけで、物理的距離だけじゃない何かが離れたように思うのは、きっと錯覚だ。


「あ、蜜柑のスマホって赤なんだね」


 私のスマホを一瞥して、春原が言う。

 かと思えば、私の目をじっと見つめてきた。


「……何?」

「ううん。スマホの色より、もっと綺麗な赤だと思って」

「スマホと比べられても困るんだけど」

「あはは、そうだね。……蜜柑の瞳は、他の何と比べても、一番綺麗だよ」

「あーはいはい。春原も綺麗だよ。……これでいい?」

「冗談で言ったんじゃないのに」


 別に自分の瞳が澱んでいると思っているわけではない。


 でも、春原に褒められても本当って感じがしないから、素直に喜べない。妙ににこにこしてて怪しいし。


 いや、まあ、真顔で言われてもそれはそれで困っちゃ困るけど。

 もしかして、私ってわがままなのか?

 いやいやいや、そうだとしても、それは春原のせいだ。


「……ふふ。アイコン、植物なんだね?」

「そういうあんたは……ハムスター?」

「そ。うちで飼ってる子。無難でしょ?」

「無難かどうかは知らないけど、可愛い子だね」

「そう言ってくれると嬉しいよ」


 春原はいつもとは少し違う、口角だけを上げるような笑みを浮かべた。

 その笑みは、ちゃんと嬉しいって感情から溢れたものらしい。だから私も、少しだけ笑った。


 いまいち掴めない春原だけど、自分のペットを褒められるのはやっぱり嬉しいんだ。

 そういうの、なんかいいかも、とちょっと思う。


 ドキドキしたり、笑ったり。

 私も春原のこと言えないくらい、感情を動かしてしまっている。

 でも。


「この子、名前は?」

「りんご」

「ふーん……いい名前だね」


 りんごはちょうど私が一番好きな果物だ。ちょっとだけ、親近感を抱く。春原も、好きなのかな。


「この子はきっと、幸せだろうね」

「なんでそう思うの?」

「愛してくれる家族がいるから」


 私が言うと、春原はさっきよりもっと私を凝視してくる。

 何か、変なこと言っただろうか。


「……ごめん、ちょっと見惚れた」

「は?」

「蜜柑がすごい優しい顔するから……」


 なんだそれは。

 改めてそう言われると、なんか、こう、恥ずい。

 私はそっぽを向いた。余計なことは言うべきじゃなかったかもしれない。


 少しの間、沈黙が流れる。張り詰めているような、そうでもないような空気の中、私は静かに口を開いた。


「……別に、なんでもいいけど。とりあえず、続きやるから。春原は袋持ってついてきて」

「はーい」


 いつもこの時間のゴミ拾いは一人でしているから、こうして誰かといるのは新鮮だ。


 隣にいるのが春原じゃなくて、佐藤とか他の友達なら、楽しかったのかもだけど。


 でも、彼女と一緒に過ごすのも、存外悪くないかもしれない。二人きりで静かにゴミ拾いをしていると、少しだけそんな気分になった。

 真剣な顔は、少し好きかもしれない。なんて、錯覚かな。





「やー、すっかり日、暮れちゃったねー」

「そうね」


 駅までの道を歩きながら、彼女は白い息を吐き出す。


「……そういや、恋愛相談はいいの?」

「うん? なんの話?」

「なんのって……部室来たのって、恋愛相談のためでしょ?」

「あー……んー……ま、そうだね」


 なんとも歯切れの悪い返事をしながら、彼女は私に少し近づいてくる。

 少し赤くなった鼻を見て、寒そうだな、と思う。


 何かあったかいもの、持ってたっけ。

 ごそごそポケットを探ってみると、何かに指先が当たった。

 おっと、これは。


「どうしたら蜜柑が私に恋してくれるかって、相談するつもりだったんだよ」

「……はぁ」


 またこの女は、こういうことばかり。

 もう少しまともにしていてくれれば、私だって普通に接するというのに。


 とはいえ、これが春原蒔月なのだ。私は一歩、彼女に近づいた。靴と靴が触れ合う。


 やっぱり、私は春原のことが気になっている。

 相変わらずよくわからないけれど、文句も言わずにゴミ拾いに付き合ってくれたのは確かだから。そんなに悪い奴じゃないのかも、とか思ったり。

 脅してくる時点で、良い奴でもないんだろうけど。


「なんであんた、私にそんな恋してほしいの?」

「なんでだと思う?」


 わかったら苦労はしないというのに。


「知らないから聞いてるんでしょうに。……もういい。そんなに恋してほしいなら、私の言うこと聞いて」

「いいよ」


 即答だ。

 春原は、どこまで私のことを。


 これでも私、悪魔なんだけど。

 私はまた、ため息をつきそうになった。


「じゃ、手ぇ出して」

「はい、どうぞ」

「……ん」


 私はポケットから取り出したものを、彼女の手に握らせた。

 それはなんの変哲もないチョコだ。勉強嫌いの友達に勉強を教える時にご褒美としてあげている、ちょっとだけいいやつ。

 春原は不思議そうに首を傾げる。


「今日のお礼。手伝ってくれてありがとう。助かったよ」

「……え。あ、ありがとう」

「春原までお礼言っちゃったら、収拾つかないじゃん」


 くすくす笑うと、春原は変な顔をした。

 それから、彼女はチョコをぎゅっと胸に抱き寄せた。

 溶けちゃうでしょ、それ。


「蜜柑のこと思い出しなんがら、大事に食べる」

「いや、私のことは思い出さなくてもいいけど……」


 コンビニに売ってるチョコなのに、春原は宝石でももらったみたいに、大事そうにしている。

 大袈裟だと思う反面、心が騒がしくなるのもまた、確かだった。

 私の心は一体どうなっているのか。


「ま、いいけど。そんなに言うなら、食べ終わったら感想送ってもらおうかな。私を思い出しながら食べるチョコがどうだったか」

「うん。読書感想文くらいの長さで送るよ」

「そんなに送ってきたらさすがにブロックするわ」


 私が言うと、彼女はくすくす笑った。春原なら本当にやりかねないから怖いけれど、まあ。


 こんなことで子供みたいに喜ぶ春原のことが、ちょっとだけ、嫌いじゃない。


 まだまだわからないことの方が多いけれど。

 春原のことが少しずつ掴めてきたような、そんな気がする。


 春原は思ったより、普通の子なのかもしれない。だからなんだって話、ではあるのだが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る