第2話 黒兎は世界を渡る

 風が頬を撫でる。


 草の匂い。土の匂い。遠くに樹々の匂いや水の匂いも感じる。


 風が植物を揺らす音が聞こえる事を考えれば、鼓膜は無事なんだろう。まあ、破れたとしても直ぐに再生されるから分からない。


 でもおかしいな。地下のラボでジジイを抱き起こして……


「ジジイ!!」


 直前の記憶を思い出し、ガバッと体を起こして叫ぶ。


 あのジジイ、俺ごと自爆しやがった。


 普通、科学者なんだから、自分の研究成果を世間に発表したいと思うもんじゃないのかよ。


 いや、あのジジイは、普通の研究者じゃなかったわ。


 只々、自分の思うままに研究出来れば満足な、マッドサイエンティストだった。


 何故、アジトごと自爆したのかなんて、ジジイの考える事なんて俺には分かる筈もない。


「いや、それで、此処は何処だ?」


 上半身を起こした事で、周りの風景が目に飛び込んで来た。


 青い空に白い雲、見渡す限りの草原。


 地下のラボだった筈なのに……


 いや、その前に、あれだけの爆発で死んでないのか?


 慌てて自分の体を確認するとおかしな部分に幾つか気付くが、体は大丈夫のようだ。


 その場に立ち上がり手足を動かしてみるも、どこにも痛みは無い。


 その体が無事だという違和感以上に、身に付けている服も破れるどころか汚れもほぼない。


 そこで足元に転がる俺の仕事道具でもある兎面が目に入る。


「……何か……変な感じがする。それ以前に、形が変わってる? ……嫌な感じじゃないと思うけど……」


 手に取ってみると、その変化は明らかだ。


 黒くのっぺりとして、耳の形で辛うじて兎だと分かる兎面だったのが、黒い色とツルッとした素材感はそのままに、造形的にはカッコイイ兎の仮面になっている。前の仮面には口なんか無かったが、今の仮面には不思議な国のアリスに出て来るチシャ猫のような三日月型の口が描かれていた。


「かっこいいけど、どう見ても悪役側だな」


 それに、以前は顔に付ける為のベルトが有った筈なのに、それも無くなっている。


 何気なく顔に付けると、ピタリと顔に吸い付き、慌てて外そうとするとすんなりと外れた。


「…………」


 訳が分からず、何度か付けたり外したりを繰り返して確認すると、おおよその事が分かってきた。


 一度兎面を付けると、激しい動きにもズレる事なく顔にピタリと張り付く。


 しかも息苦しさは全く無く、まるで何も付けていないようだ。


 以前は紅い目の部分から覗いていたので、視界はお世辞にも広くはなかった。その事が俺の武術を磨く要因の一つにはなったのだが、驚くことに今は視界の妨げは一切ない。


 前は紅く色付いて見えていたのが、裸眼で見る風景と変わらないのも不思議だ。


「……考えても仕方ないか」


 俺は考えるのを放棄して、取り敢えず兎の仮面を外すと、他の気になった部分の確認をする事にした。


「黒のシャツに黒のパンツ、黒いブーツなんだけど、……どう見ても変わってるよな」


 全身黒尽くめなのが黒兎のスタイルだから、間違ってはいないんだけど、着ている服の素材や形が違う。ブーツなんか明らかに前に履いてたやつとは違う物だ。そもそも、あの爆発で無事な時点で確認する意味があるのかという話なんだが……


「だけど着心地は良いし、動きやすいんだよな」


 その場で少し体を動かしてみるが、服もブーツも体の動きを邪魔しない。


 ブーツなんか特に頑丈そうな見た目にそぐわぬ軽さだしな。


 腰を探ると愛用のグルカナイフが有るのを確認しホッとする。


 多くの血を吸ってきたこのグルカナイフは、厚重ねの刃長30センチ。ナイフと言うよりも鉈に近いかもしれない。これは何度も俺と修羅場を潜った武骨な相棒だ。


 ジジイのお陰で、剣や刀に始まり、槍や棍、ナイフや暗器等、様々な武器を並以上に扱える。勿論銃火器の扱いもそこらの警官や軍の特殊部隊よりは上だと思う。


 だけど多人数を相手の乱戦には、体術とこのグルカナイフが一番活躍したんだ。


「さて、兎の仮面なんて被ってたらおかしいよな。って、なっ!?」


 俺がそう言った途端、手に持っていた黒い兎の仮面が光を発し、次の瞬間俺の首に黒い兎のトップが付いたネックレスへと変わっていた。


「……俺は夢を見てるのか? それとも俺はやっぱり死んでて、此処は地獄へ向かう途中なのか?」


 不思議な事の連続に、状況の把握が追いつかない。


 悪党とはいえ、俺がジジイの指示で葬ってきた人の数は多い。正確な人数なんて把握できない程には殺してきた。

 しかも理由が正義などてはなく、ジジイの研究のデーターを取る為っていう利己的な理由でだからな。

 当然、死んで天国へ行けるなんて思っていないし、行くなら地獄だろう。




 暫しボォッとしていたが、取り敢えずこれはリアルだと思う事にした。


 何故なら喉の渇きを覚えたからだ。


 風が頬を撫でる感触や、地面を踏み締める感覚、照りつける日差しの暖かさから、もう夢や死後の世界ではないと思い始めていたが、ダメ押しに喉が渇いたので確信した。普通の人間よりはずっと渇きや飢餓には強いが、喉が渇かない訳じゃない。

 まあ、死後の世界を知らないから間違いかもしれないがな。


「そうなると、此処は何処なんだって話なんだよな」


 そう、東京の郊外にあった山の中のラボなんて、360度見渡してみても痕跡すら見つけられない。只々、草原が広がっている風景が目に入ってくるだけだ。

 いくら爆発が激しくても、山を吹き飛ばして平地になったとして、草原なのは説明がつかない。


 ひとまず考える事は先送りにして、意識を取り戻した時に感じた水の匂いがする方向へと歩き始める。


 水場を目指し草原を警戒しながら進む。


 ジジイの発明したナノマシンのお陰で、俺の五感は人外レベルだ。近くの水の匂いを察知するくらいは楽勝だったりする。


 子供の頃ジジイに拾われてから、十数年掛けて身体に馴染ませたナノマシンは伊達じゃない。


 何度もバージョンアップを重ねたナノマシンは、五感や身体能力の上昇に、欠損すら回復するトカゲ並みの超回復能力を俺にもたらし、様々な毒や細菌、ウイルスすら通用しない。しかも脳細胞や神経まで強化されているお陰で、記憶力や判断力も非凡な……いや、人外の性能だったりする。


 学校なんかに行ってたら、さぞ天才児だともてはやされただろうな。学校なんて、ジジイのモルモットでしかない俺には一番縁遠い世界だったんだけどな。


 まぁ、それだけハイスペックな身体ってだけなら良かったんだ。


 あのジジイ、ナノマシンの割合がとうとう60パーセントを超えた時、とんでもない事を言いやがった。


『喜べ蹴斗! これでお前は不老のバケモノだ!』


 あまりの事に、思わずジジイを殴り殺しそうになったのを思い出す。


 俺の中のナノマシンが、ある一定の割合を超えた辺りからそんな気はしてたんだよ。俺って歳の割にいつ迄も若いよなって。


 そんな事を考えながら歩いていると、小さな川へとたどり着いた。


「普通なら、飲めるかどうか心配になるところだけど、俺の場合は毒も寄生虫も大丈夫だからな」


 一見綺麗に見える川の水を手ですくって喉を潤す。


「ぷっはぁー、美味いな」


 喉の渇きが治ると、次に何をすればいいのかを考え始める。


「取り敢えず食料の確保と、安全に睡眠を取れる場所、それと此処が何処なのかを調べないと」


 ジジイにいじくり回されたお陰で、水さえあれば一週間程度何も食べずとも平気だ。平気だけど、お腹が空かない訳じゃないし、美味しい食べ物は好きだ。それにナノマシンの増殖には食べ物は不可欠だ。


「と言う訳で、獲物と薪の確保だな」


 改めて周囲を見渡し、遠くに霞む山脈や樹々の密集した場所を見つける。


 流石に草原では薪を手に入れるのは無理なので、おそらく森であろう方向を目指して移動する事にした。


 獲物は森にもいるだろうし、草原にもいるだろう。まったく生き物の気配がない訳じゃない。


 様々な武術を学び、数えきれない修羅場を潜り抜けてきた俺は、気配や気を察知する能力を得た。昔の武術の達人なんかは至った境地かもな。



 ほんと……此処は何処なんだろうな。


 狼やライオンが襲って来ても平気な俺だから冷静でいられるけど、普通ならこんな訳の分からない場所に放り出されて食べ物もなく、グルカナイフ一本と兎の仮面しか持ってないなんて、詰んでるよな。



 そんな事を考えながら森を目指すが、体の調子が何時もより良いのはどうしてだろう?



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る