黒兎は月夜に跳ねる

小狐丸

第1話 プロローグ


 大きな青い月と小さな赤い月が夜空に浮かぶ。闇に溶け込むような漆黒を身に纏い、黒い兎の仮面の瞳は紅く光る。


 その街で一番の屋敷の屋根の上から、重力に解き放たれたかのようにダイブする黒い兎。


 次の瞬間、黒い兎の姿はかき消え、屋敷の中では肥ったこの屋敷の当主が倒れていた。


 床に血溜まりを作り、頸と右腕の無い体が残されていた……







 辺境に在る教会の一室に、若い頃は絶世の美女だっただろう事が分かる、神官服を着た金髪の女性が机に足を置き、手に酒が入ったグラスをあおる。

 そこに漆黒の上下に、黒い兎の仮面を被った背の高い青年が闇から浮き出るように現れた。


「早かったじゃないか、シュート」

「ほれ、右手でよかったんだろ」


 シュートと呼ばれた青年が、兎面を外しながら、切り取られた手首を持ちプラプラさせる。


「ふむ、魔導具の指輪は嵌めてあるね。ご苦労さま」

「これが不正の証拠を隠した部屋の鍵って、解錠が得意な奴を探した方がよかったんじゃないのか?」

「どうせ奴は法で裁けんから、シュートが始末した方が手っ取り早いだろう」

「はぁ、神職のセリフじゃねぇな」


 思わず溜息を吐くシュート。この世界でも、前の世界でも同じような仕事をしている自分に、何処の世界も似たようなものだと首を横に振り、手をヒラヒラさせ部屋を出て行った。


 この世界に来た頃を思い出しながら。






 2XXX年 東京


 雑居ビルの一室には、大量のスマートフォンが散乱していた。


「うっ……グッ…………」


 そして、そこかしこに転がる男達。


 どの男も、手足が粉々に壊され、再起不能だろうと想像できる。


 その部屋に唯一立っている存在。


 この惨状の原因だと思われる男は、全身を黒い衣装で包み、顔には黒い兎の面を付け、紅く作られた兎の目越しに倒れ伏す男達を、何の感情ももたない視線で眺めていた。


 ここは、ある特殊詐欺グループが拠点にしている雑居ビルの一室。

 罪無きお年寄りから金を騙し取る詐欺グループは、この黒兎により一方的に蹂躙されたのだった。


 おもむろにスマートフォンをポケットから取り出すと、部屋の様子を監視カメラで観ているだろう人間へと連絡を入れる。


(ミッションコンプリートだジジイ)

(カッカッカッ、こっちも連中の口座の金は粗かた回収した。監視カメラへのハッキングを三分後に解除する。早く戻って来い)

(チッ、どうせ俺の身体をいじりたいだけだろ。このマッドサイエンティストが)

(カッカッカッ、それは儂にとっては誉め言葉じゃよ)


 全身黒尽くめの黒兎は、スマートフォンをポケットにしまうと雑居ビルの八階にある部屋の窓を開け放ち、夜の闇へとダイブした。






 都心から離れた夜の山の中を黒い兎が疾駆する。


 人間離れした速度で樹々の間を駆け抜け、目的地へと到着すると、もう一度周囲を警戒し、自然に溶け込むように作られた隠し扉を開け、その中に身を潜らせる。


 中は小さな部屋になっていて、黒兎がボタンを操作するとガコンッと音がして、部屋が下へと動き出した。


 この鉄の壁で囲まれた部屋は、荷物搬入用のエレベーターのようだった。


 やがてエレベーターが下へと到着すると、扉が開き黒兎が真っ直ぐに続く廊下を進む。


 ガチャ


「おお、早かったな蹴斗」

「ふん、他に行く処が在りゃ戻りたくもないけどな」


 幾つかの扉を開けて辿り着いた部屋で蹴斗を待っていたのは、不健康そうに痩せた白髪の老人だった。


 普段、ジジイと呼ぶ老人の名は蹴斗も知らない。


 蹴斗自身、自分の名前も本当の名なのかも分からない。


 蹴斗にとって、この老人がラボと呼ぶこの場所が全てなのだから。


「では早速、全身のチェックをするぞ」

「……分かってるよ」


 蹴斗が嫌な顔をしながらも、仕方なしに服を脱いでいく。これから行われるのは、人道に反した人体実験なのだから、その表情も当然だろう。


 こんな山の中に秘密基地のようなものを造り隠れ棲む老人が、まともな人間な訳がなかった。


 蹴斗がジジイと呼ぶこの老人は、天才的な医師であり科学者だった。


 ただ世間一般で言うマッドサイエンティストと呼ばれる部類ではあるが……



 全身に測定機器を設置され、専用のカプセルに拘束される蹴斗。訳の分からない薬液がカプセルを満たす。


 老人にとって蹴斗は得難い優秀なモルモットだ。


 二人の間に血縁関係は無く、老人が条件に合う優秀な孤児を、まだ蹴斗が幼い頃に引き取ったのだ。


 全ては己の研究の為に……




「ふむ、ナノマシンの拒絶反応は大丈夫のようじゃな。出力と強度にも問題はない。脳細胞や神経細胞にも馴染んでおる」


 様々なデーターを確認しながら、満足そうに笑う老人。


 老人の研究は、ナノマシンによる人体の強化。


 このマッドサイエンティストは、人間のどんな細胞にも変化できるナノマシンの開発に成功したのだ。


 本来なら世間に称賛され、ノーベル賞を受賞も確実なレベルの研究だが、この研究の中身はそんな生やさしいモノではなかった。


 先ず、このナノマシンは、誰でも適応できるようなモノではなく、蹴斗は奇跡的な確率で整合したに過ぎない。実際、動物実験を含め失敗例の方が圧倒的に多かった。


 蹴斗の体内で、ナノマシンは様々な細胞となるのだが、その目的は病気などの治療が目的ではなく、ある種の超人を自らの手で創り出す事が目的だった。


 身体能力を爆発的に引き上げ、感覚器官の性能を上げ、それを処理する脳細胞の性能すら引き上げる。


 もしかすると人権など存在しない大国では、兵士の強化に似たようなモノが研究されているかもしれない。実際、蹴斗も様々なドーピングを施されている。ナノマシンを除いても蹴斗は超人だった。


 ナノマシンは、蹴斗の胸に埋め込められた超小型の機械により、ナノマシンの増殖や出力の調整が制御されていた。


「では、もう少しナノマシンの割合を増やしてみるかの」

「…………グッ、グァッ……」


 ナノマシンが注入されると、蹴斗の全身を激痛が襲う。


「ふむ、これで65パーセントちょいか、そろそろ限界かもしれんな」


 激痛により気を失った蹴斗を見もせず、データーを眺めながら冷静に判断する。


 これで全身の七割近くをナノマシンが構成する事になったのだが、だからといって蹴斗がロボットになった訳でもアンドロイドになった訳でもない。


 ナノマシン自体は、人体を構成する素材とほぼ変わらないのだから。


 普通に子孫を遺せる人間だ。


 ただ、超人的な身体能力に、病気や毒への耐性を保ち、少々の傷なら瞬時に治るが……


 老人にとってはその程度の違いとの認識だ。


 この実験もこれでひと段落つき、レポートに纏めねばと考えていると、蹴斗が意識を取り戻した。


「……ウッ」

「気がついたか」

「おいジジイ! 今回のは大丈夫なんだろうな! 痛みが尋常じゃなかったぞ!」

「なに、もう痛みはないじゃろう。心配するな。データーは正常値じゃ」

「何が心配するなだよ。心配しかねぇよ!」


 ガチャガチャと拘束を外していく老人に愚痴をこぼす蹴斗。こんな扱いを甘んじて受けている蹴斗も普通ではないのだろう。


 蹴斗は、カプセルから起き上がると手早く服を着る。


「はぁ、まぁいいか。取り敢えずメシを作ってくるわ」

「うむ、バランス良くじゃぞ」

「分かってるよ!」


 部屋を出て行く蹴斗に声を掛けながら、早速研究レポートの作成に入る老人。


「ゴホッ……、ふむ、もうそれ程時間はないか」


 急に咳き込み吐血する老人。


 医師でもある老人には、自分に残された時間が短いと分かっていた。


 それでも老人に動揺は少ない。


 特に、適応者を選び、現在蹴斗しか実験体は居ないが、ナノマシンの研究は一応の成果をみた。


 本来なら、これを誰にでも適応できるように研究したかったが、自分はこれまでだろう。


 レポートを書き終えると、老人は最後の準備に取り掛かる。








 夜の埠頭にある倉庫の一つに、一目でカタギではないと分かる男達が居た。


 犯罪組織が2グループ。片方は日本人ではないのはあきらかだ。


 今夜、此処で麻薬の大口の取引が行われていた。


 そこに場違いな黒兎が音も無く降り立つ。


「なっ! 誰だテメェわ!」


 今まさに取引をしていた男達が、突如現れた黒兎に拳銃を向けた。


「始末しろ!」


 パンッ!


「ヒッ、あ、当たらねぇ!」


 パンッ! パンッ!


 黒い上下に黒い兎面、その目が爛々と紅く光る不気味さに、取引現場を見られた事もあり、躊躇なく殺す選択をとる男達。


 ただ、簡単に拳銃の弾を避けられ、男達はパニックにおちいる。


 麻薬を運んで来た外国人組織の男達も、拳銃やマシンガンまで持ち出し撃ち始める。


 タタタタタタッ!!


 水銀灯の灯りの下、フッ、フッ、と黒兎が消えては現れる。


 グキャ!


 ゴキッ!


 そして黒兎が現れる度に、黒い風が吹き抜ける度に、一つの命が消える。




 ナノマシンによる身体能力のかさ上げがあっても、流石に拳銃の弾よりも速い訳じゃない。


 蹴斗は、あのマッドサイエンティストの老人に、この世界に存在する古今東西の格闘技術を叩き込まれていた。


 脳に直接武術の基礎から奥義までのイメージを描き込まれ、それを現実で再現するという、これも研究の一環として行われたものだが。


 実際に、空手や合気道、剣術や中国武術、サンボやムエタイなどの道場でも学んだのだが、目立つのを避ける為、ひと所に長く学ぶ事はなかった。


 だが、ナノマシンで向上した脳や感覚器官は、短期間での技術の習得を可能にしていた。



 その蹴斗が繰り出す拳や蹴りは、一撃で男達の命を刈り取っていく。


 蹴斗には、いまだに何故か分からないが、あのマッドサイエンティストの老人は、蹴斗のデーターを取る際、それは必ず悪人への私刑だった。


 その所為で、蹴斗が人を殺したのは一度や二度ではない。この世には死んでも惜しくないクズは掃いて捨てるほど居るので、対象に困る事はないのだが。


 決して快楽殺人者ではないが、淡々と仕事を熟す様に殺していく蹴斗が、普通ではない事は確かだった。



 時間にして二分。


 二十人以上居た犯罪組織の男達が、もの言わぬ屍と化すまで、僅か二分掛からなかった。


「ふぅ、流石にマシンガンの弾を全部避けるのは無理だったか」


 それでも急所は避けたので問題はない。


 実際に、既に撃たれた箇所には傷痕もなくキレイに回復していた。


「さて、ジジイからの連絡が無いな」


 何時もなら、仕事が終わった時点で老人からの連絡が入るのだが、今日に限って連絡が無い。


「まぁ、取り敢えず帰るか」


 地面に血溜まりが広がり、鉄くさい血の匂いが漂う中、黒兎は闇へと消えた。






 闇に紛れて山の中のアジトへと戻った蹴斗は、何か気持ち悪い予感に警戒感を上げる。


「ジジイ!」


 何時も老人が待っている筈の最奥にあるラボで蹴斗が見たのは、吐血して倒れている老人の姿だった。



 慌てて蹴斗が抱き上げるも既に息はなかった。


「ん? メモ?」


 手に血で汚れた紙切れが握られているのに気がついた蹴斗がそれを確認すると……


「なになに……【我が研究は誰にもやらん】へっ?」


 次の瞬間、蹴斗の視界が光に包まれた。




 その日、東京郊外の山が一つ爆発により消え去る事件が発生し世間を賑わせた。


 不思議な事に、マッドサイエンティストのラボ跡は痕跡すら発見出来なかったと言う。






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