第3話 蹴落とし方

 ――他人の力を決して侮ってはならない。

 ――ゆめゆめ、「あの人は自分より愚かなのだから、こちらの裏をかくなどありえない」と慢心するな。


 聖女として勉強する中で、いつか教師から心得のひとつとして聞いた。

 落ちこぼれのナディアはよく覚えている。そのとき強く思ったのだ。


(私は能力が他の姉さまたちより低い。だから、姉さまたちを侮ることなどありえない。それだけではなく、他人を侮らないというのは、すべての基本。だけどそんな。ここは絶対、履き違えてはいけない。姉さまたちは、たしかにこれまで私のことを少し侮っていたかもしれない。それでも、敵と認識した以上、一切の慢心を捨て去る。私を潰すまで全力で、手を抜くことはない。間違いない)


 姉たちを侮るどころか、恐れているからこそ、ナディアは最大限の警戒をしなければならない。

 わかっていたはずなのに、少し甘かった。


 多くの人々の前に立つとき、聖女は「慈しみ深く清らかな女性の象徴」として振る舞う。しかしその実態は王権にも匹敵する権力を手にし、強大な軍事力である神殿兵たちをも意のままに動かす統率者だ。

 優しいだけの、綺麗事に生きる存在ではない。それはもちろん、聖女として立つ以前、候補者の段階から覚悟として備わっているだろう。

 手段を、選ばないのだ。


 * * *


「ナディア。畑から戻ってくるのが遅いから見回りにきた。荷物が重いのかな?」


 菜園から神殿裏手へと続く緑の小径を歩いていたナディアは、背後から声をかけられた。

 明るい男性の声。

 普段から、神殿の敷地内を見回っている神殿兵。警戒するような相手ではないと知りつつも、その声を耳にした瞬間、背中に悪寒が走った。

 聖女候補の一人として積み重ねてきた短くはない日々が、何らかの警告を発している。

 ナディアは、無言のまま振り返った。


 灰色の修道士服に、胴周りだけの簡易の鎧を身に着け、左手には手の甲から肘まで覆う籠手ガントレットを装着した茶色髪の青年。神殿兵としての標準の装備。容姿にも際立って特徴的な部分はないが、ナディアはすぐに相手についていくつかの記憶を引き出す。


(ディルク。セレーネ姉さまの支持者だ)


 木立に囲まれて、人気のない道。少し先で道はゆるやかに折れていて、目隠しになっている。通り過ぎてきた背後にも人影は無い。それは、追いかけてきたディルクがよくわかっているはず。

 この空間は、いま二人きりだ。

 普段ならそれだけでは危機感など覚えようもない相手、状況だというのに、鼓動が少しずつ乱れ始める。胸がキリリと痛い。

 背負った籠がやけに重く感じた。肩にかけた紐がぐっと食い込んでいる。その紐と肩の間に軽く片手をあてて指を挟み、痛みをやり過ごしながら、ナディアはぎこちなく笑った。


「大丈夫です。畑を見回っていたら思いがけないほど時間を食ってしまいましたが、荷物は自分で運びます。自分の仕事なので」

「でも、聖女候補はこれから一日厳しい修行なんだから。持つよ? そのくらい、大したことない」 


 ディルクも笑っている。ナディアはディルクから視線を外さぬまま、さりげなく後ろ足で一歩下がった。ちらりと、その足元をディルクに見られた。


「忙しいのは聖女候補だけではなく、皆さんもですよね。特別扱いは不要です。私に構わず、どうぞ先に行ってください」

「見捨てるみたいで気が引けるよ。いいから荷物を貸して」


 後ろ足で下がる、ディルクはそれを見逃さず、大股に一気に距離を詰めてきた。

 笑っている。それなのに、怖い。


(何か変だ)


 その感覚を信じる。

 ナディアはくるりと背を向けて、地面を蹴るように駆け出した。 


「ナディアっ」

「大丈夫ですから!」


 名を呼ばれた瞬間、大きな声で返す。

 とにかくひとのいる場所まで走り抜けようと、振り返らず、全力。

 だが、いかに魔力を持っていても、肉体的には一般人と変わらぬ身。鍛え抜かれた戦士である神殿兵に身体能力でかなうはずもなく、あっさりと追いつかれて、籠を掴まれる。

 すぐにナディアは肩紐からするりと腕を抜いて、なおも逃れようとした。

 ディルクはそれを許さず、ナディアの腕を素早く掴んできた。その力の強さに不穏なものを感じて、ナディアはひゅっと息を飲み込み、大きく目を見開いた。


「放してくださいっ」


 無言。

 腕の一本がナディアの頭をおさえこみ、手のひらが口元をおさえる。もう一本の腕で固い胸に背中から抱き込まれた。


「おとなしくしていれば、そこまで痛い思いはさせない」


 耳元で囁かれ、総毛立つほどの嫌悪感が突き上げてくる。

 自分をとらえた力強い腕。男の目的を、ほぼ正確に察してしまった。


 かつてナディアが聖女の審査を受けるに至った経緯。それは、本来審査を受けるはずであった実の姉が、その資格を喪失したから。恋に落ちたことによって。もっとも「恋」それだけならば、内心は自由であり、問題にはならなかったのだ。

 精神的な思い思われだけではなく、肉体的にも男性と結ばれたのが決定的な理由だった。


 過去、修行の日々に入った聖女候補者たちの中にも、そうして資格を失いこの場を去った者はいたという。恋心をおさえられず。

 しかし、その話を聞くとき、ナディアとて考えなかったわけではない。


 それは本当に「恋」だけだったのか。たとえば、有力な候補者を蹴落とすため、誰かの思惑の絡んだ罠ではなかったのか。

 あるいは、恋という面倒な手順を踏むことすらなかった例もあるのではないか。資格喪失だけを目論むのであれば、本人が望む望まないに関わらず、体を奪ってしまえばいいのだから。

 でも、まさか神殿兵にその役割をさせるとは。


(本来なら、聖女候補たちを守るべき存在に、聖女候補襲撃を命じる……!? セレーネ姉さま、対応が早すぎです! その命令をきく男も男ですが!)


 警戒していたはずなのに、ナディアはまだ甘かった。

 ディルクはナディアを力で押さえ込んだまま、道の脇の茂みに足を踏み入れる。ナディアをずるりと引きずりながら持ち上げた。

 足が浮く。

 狙い定めて、ナディアは背後を蹴り上げた。ヒットはしたが、ディルクはびくりともしなかった。

 

(どうしよう……! 助けを呼ばないと。でも誰が私を助けてくれる!? だいたい、手を打った時点でセレーネ姉さまは先回りしているはず。たとえばここに誰も近付かないように。目的を達するまで)


 絶望している場合ではないと思いながらも、口をおさえられて声を封じられたまま草地に押し倒されたところで、ナディアは頭が真っ白になった。

 そのとき。


「そんなところで何してるのー? 遅いから探しに来ちゃったんだけどー」


 女性としてはやや低い声がのどかに響き渡った。

 はっと顔を向けると、長く癖のない黒髪を結い上げた背の高い美女が立っていた。

 おそらくいままさに必至の形相をしているであろうナディアを見て、薄く微笑んだまま目を向けてきた、その人物。


(アンゼルマ姉さま……!!)



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