第7話 ニアミス2
そんなこととはつゆ知らず、衣望里はこの夕刻の時間なら、旅館の女性風呂は混んでいないだろうと思いつき、不安を解消するために海の見える露天風呂につかることにした。
裏口から旅館に入り、従業員エレベーターを使って三階で降りる。
女湯と書かれた赤いのれんをくぐり、カラカラと引き戸を開けて脱衣所に足を踏み入れると、誰もいないことを確認してから、後ろ手に扉を閉めた。
衣望里はこの旅館の露天風呂が大好きだ。
一階は遊技場、二階はレストランが入る建物の三階部分に作られた大浴場には、天然石を組んで山に見立て、頂上から温泉を滝のように落とした打たせ湯があり、肩や背中に受けて凝りを解すと、あまりの気持ち良さに無の境地になれる。
大浴場一杯に広がる横長の大窓からは、駿河湾が一望できるのがこの宿の自慢だ。
物心ついた時から、お客様のいないときを狙って、こっそり忍び込んでいる衣望里にとって、この温泉に浸かることは、欠かせない日課になっていた。
籐かごに持ってきた浴衣を入れ、着ていた衣類を袋にまとめて入れる。素足に竹マットのおうとつを感じながら、更衣室から大浴場に入ると、ムッとするような湿度と熱気に包まれ、温泉特有の香りが肺を満たした。
窓に背を向け、右手の洗い場に足を向ける。姿見には、湯けむりと逆光にも負けないほど、真っ白な裸体が映っていた。
衣望里の家系には、先祖に外国人の血が混じっているのではないかと言われるような子供が生まれることがある。
衣望里もその一人で、日本人にしては腰の位置が高く、胸骨に厚みがあり、肩と腰の幅の広さを絞るように、きゅっとウェストが細く括れている。
長い首の上にある小さめの顔には、日本人離れしたくっきりとした目鼻だちが収まっているばかりか、今は風呂に入るためアップにしている髪さえも、カラーリングがいらないほど明るい色をしている。
その上、エミリは外国でも通じる名前なので、初対面の人は必ずと言っていいほど、ハーフと勘違いして、どこの国から来たのかと尋ねた。
身体を綺麗に洗い終えると、衣望里は大浴場と脱衣所の間にある扉から露天風呂に出た。途端に風が吹き抜けて、湿気を飛ばす。
ベランダを利用して作られた露天風呂は岩で囲まれていて、底には平らで滑らかな石が敷いてあるので、座り心地がとてもいい。
植木でカバーされた壁は、目の前の駿河湾と相まって、まるで自然の中で温泉を満喫しているように感じられ、かなりの解放感を得られる。
青い海を見ながら、湯に浸かった途端、衣望里は思わず、ふぅ~と深いため息を漏らした。
大学から帰ってからおよそ二時間の間に、平凡だった自分の人生が、百八十度回転してしまった。これからどうやって生きるべきかを考えてしまう。
従妹の美羽は、守哉に合わせて食品化学の学科を取ったけれど、自分はまだ目標と呼べるものは何もない。
小さなころは祖母の目を盗んで、旅館の庭園に入り込み、外国人客に優しい笑顔で声をかけられたことから、自分の知らない言葉があることを知って語学に興味を持った。
外交官になるとか、教師になるとか、そんなことは思いもしないで、ただ耳に入る言葉を追って、興味の向くまま映画も見まくり、勉強もして、気が付いたら、日本語以外で数か国語を理解できるようになっていた。
語学を活かしながら、姉の羽音と一緒にこの旅館を盛り立てていくのだと思っていたのに……
それなのにと感傷的になった衣望里の耳に、聞いたことのない言葉が、男性の露天風呂から聞こえてきた。
湯に浸かっているにも関わらず、一瞬ヒヤリと肝が冷える。
大浴場の中はしっかりとした壁で仕切られているので、男湯の声は聞こえないが、露天風呂は海に面しているので、その限りではない。
何語?多分支配者たちの声よね?
動けば水音が聞こえてしまうので、衣望里は息を殺して耳をそばだて、理解できる単語がないかを探った。
ところが、衣望里が意識を支配者たちに集中したため、支配者たちのいる露天風呂の垣根の上から、白い湯気が小鳥の形になって現れてしまっていた。
それに気が付いたカミーユが、人差し指を立て、レオに静かにするように示してから、小鳥のいる垣根を指す。
垣根を挟んだ女湯の露天風呂では、一生懸命聞き取ろうとしている外国語が、一瞬ぴたりと止んでしまったことを訝しみ、衣望里が首を傾げたが、すぐに違う外国語が聞えてきた。
訪問先の話をしていると分かり、目を輝かせて聞いていると、途中からまた違う言葉に変わる。なぜ言葉を変えるのだろうと思いつつ、元々語学が好きな衣望里は、知らないうちに聞くことに夢中になり、理解できる言葉の時には、相槌を打つように自然に頷いていた。
また言葉が代わり、今度は英語になる。
あっ、やっぱり英語は良く分かる。故郷の話をしているみたい。
「小鳥、お前はオーロラを見たことがあるだろうか?夜空に垂れこめたヴェールが発光して、ゆらゆらとたとなびく様子は禍々しいほど美しいんだ。長い冬が過ぎて、厳しい寒さを耐え忍んだ種は、春を迎えた喜びを迸らせるかのように一斉に芽吹いて、やがて地面を覆いつくすほどに咲き乱れる」
詩的な表現も手伝って、見たことのない国の美しい情景が目に浮かぶようで、衣望里はすっかり彼の故郷の話に引き込まれてしまった。
何て素敵!行ってみたい。
垣根の向こうでは、衣望里の心のままに湯気の小鳥が跳びはねて、羽をパタパタさせているとも知らず、それを見た男性二人が笑う声を聞いて、衣望里は景色の話で笑うところがあっただろうかと考えてしまった。
「どうだ、小鳥、俺たちの国は気に入ったか?首を傾げているのは答えに迷っているせいか。本当に仕草が愛らしい。お前の主人はお前のようにかわいいのだろうか。どこにいるのか教えてくれ」
男の言葉が日本語に変わり、衣望里は謎かけかけををされたように感じた。
小鳥って何?首を傾げているって私みたいに?主人って誰のこと?
突然の閃いた答えに、衣望里の心臓が勢いよく跳ねた。
「カミーユ、小鳥の様子がおかしい。ひょっとして、翼の乙女が近くにいて、俺たちの話を聞いているのかもしれない」
ザバァッツ……
お湯の抵抗を受けながら立ち上がろうとした衣望里は、湯の大きな揺れに足を取られてたたらを踏んだ。
普段は何でもない底石の丸みに足を滑らせ、再び飛沫を上げて湯の中に沈む。
焦れば膝までしかない水でも人は溺れる。足掻くかかとが石の上をすべり、湯の浮力に腰が浮き、バランスを崩して上体が派手な水音と共に湯の中に倒れた。
振り回す腕がバシャバシャと音を立てて、飛沫をあげまくる。
「おい、大丈夫か?」
お湯の中にくぐもった声が届くが、起き上がろうともがくほど、お湯の抵抗を受けてパニックになる。
「おい!誰かいないか?他に客はいないのか?」
支配者たちがバシャバシャとお湯をかき分けて、垣根に近寄り、呼びかける声がする。
「レオ、脱衣所に非常用ボタンがあったはずだ。インターフォンで人を呼んでくれ。俺は女湯に行って声をかけてくる」
まずい!支配者がこっちに来る!
衣望里の手が、温泉を取り囲む岩に当たった。しっかりと掴んで手繰り寄せる。実際動いたのは衣望里の身体だが、何とかお湯の中から身体を引き揚げることができた。
荒い呼吸を繰り返して身体を波打たせながら、岩の上に置いたタオルで身体を隠してドアを開ける。耳の中に入ったお湯がこぼれてとろりと首筋を伝い、気圧の変化にぞくりと悪寒を感じるが、構わず脱衣所の棚まで走る。並列に並んだ棚に乗る藤かごから、浴衣を掴んで側面に回り込んだのと、女湯ののれんが捲られたのは同時だった。
「誰かいるか?溺れているんじゃないのか?開けるぞ」
ガラガラと引き戸が開けられ、腰にタオルを巻いた男がズカズカと入って来た。
衣望里が隠れている入り口から三番目の棚の横を通り過ぎ、真っすぐに露天風呂のドアへと向かう。すりガラスを張ったドアが開けられ、陽の光を浴びた男の銀髪がキラキラと輝いた。
身体中が心臓の音に支配されたんじゃないかと思うほど、肌にドクドクと伝わる脈拍を感じていた衣望里は、震える手つきで浴衣をそっと羽織って、逃げ出すチャンスを窺う。彫刻のような男の見事な裸体が動く度に、しなやかな筋肉の動きが目について、余計に血圧があがりそうだ。
広い露天風呂のお湯の底を調べた男がドアを出てきた時、金髪の男が女湯ののれんをくぐって入って来た。
銀髪の男が首を振りながら、金髪の男に何かを告げたが、彼らの言葉で話しているので、衣望里には分からない。多分露天風呂にはいないと伝えたのだろう。
二人は大浴場のドアに向かって、誰かいるかと日本語で聞いた後、ドアをあけて中に入って行った。
今だ!逃げよう!
衣望里は棚の陰から飛び出し、開けっ放しの女湯の扉に向かった。
「誰だ?足音がしたぞ」
「おい、待て!」
大浴場の中から男たちの叫ぶ声がひびく。待てと言われても、こんな時に待つバカはいない。
衣望里は全速力で廊下を突っ切り、従業員用のエレベーターの「開」ボタンを押した。
三階で止まったままのエレベーターがすぐに扉を開ける。乗り込んだ衣望里は一階のボタンを押すと同時に「閉」ボタンを押した。
閉まる間際、女湯から飛び出してこちらに駆けてくる銀色の髪の男と目があった。
表情の読めない、氷のように透けて冷たく感じるアイスブルーの瞳。それが今、裏をかかれた怒りで吊り上がり、ナイフのように鋭く光っている。
怖い!射すくめられそう!
箱が動き出した途端、足から力が抜けて、衣望里はへたりこみそうになった。
でも、ここは三階だ。彼らが隣にある非常階段を使えば、待ち伏せされる危険がある。
どうしよう⁉逃げ場のない恐ろしさで、息が詰まりそうだ。
そう思った時、上階で男と女のもめる声が箱の中にまで届いた。
「そこをどいてくれ。大事な女性を追っているんだ」
「お客様、そんな恰好で館内を歩き回られては困ります。まずはお着換えを」
羽音の声だ。お姉ちゃん、ありがとう。助かった。
でも、顔を見られてしまった。
ハッとして、身体を見回したが、浴衣は帯を巻いていないものの、衣望里の身体を隠す役割を果たしていることにホッとする。
良かった。見られたら恥ずかしすぎる。そう思いつつ、脳内で再生されたのは、小さなタオルをはためかせて、大股で棚の前の通路を横切った男二人のすらりと伸びた脚だ。
一つ分かったことがある。口には出せないけれど、銀髪は銀色だ。金髪は金色だ。
どこの場所とは言えないけれど、パ二くりすぎた衣望里の思考は、落ち着く先を求めてか、変な事実に納得して安定したようだった。
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