【第三章】3. 記憶
あかりが尋ねると、狐の子は、じっと地面を見つめて何かを考えているふうに黙っていたが、やがて諦めたように肩を落として答えた。
「ぼく、わからないんだ。何も覚えてなくてさ」
あかりは驚いた。
「何も覚えてないの? 自分のことも?」
狐の子がこくりと頷くと、あかりは、次から次へと質問を浴びせた。
「名前は?」
「わからない」
「何才?」
「わからない」
「おうちはどこ?」
「……わからない」
「あなたのお母さんとお父さんは?」
「…………わからない」
「好きな食べ物は?」
「………………わからない」
あかりは、力なく首を振って答える狐の子がとても可哀想に思えてきた。
自分のことを何も覚えていないなんて、一体どんな気持ちだろう。
あかりには想像もつかない。
「何も珍しいことではないんだよ。幽霊には、よくあることだ。
自分がどうして死んだのかも覚えていない。
死んだ時のショックで忘れてしまうこともあれば、長い年月を幽霊として彷徨っている内に忘れてしまうこともある。逆に覚えている方が珍しいくらいだ」
おじさんが教えてくれた。
「おじさんも?」
こくりと頷くおじさんの顔は、どこか寂しそうに見える。
「おばさんは? 自分の名前、言ってたよね」
話を振られたベニは、あかりの呼び方に眉尻を上げて怒った。
「誰がおばさんだ、誰が。ベニ様か、ベニさん、とお呼び。
……まぁ、あたいのこれは、幽霊としてのあだ名みたいなもんさ。
生きてた頃の名前なんざ、覚えちゃいないよ」
そんなことは何でもないというように、平然としてベニが言う。
「ただ、どうしても死ぬに死にきれないっていう想いだけはある。
このままあの世へ行って、別の誰かに生まれ変わるなんて、まっぴら御免だね。
あたいは、あたいなんだ。他の誰でもない。
それは、お嬢ちゃんも一緒だろう」
不意に聞き返されて、あかりは面食らった。
自分が自分以外の誰かになるなんて、考えたこともなかったけど、そんなに悪いことのようには思えない。
絵本を読んだり、テレビを見たり、自分が主人公になった気分になることはある。
そんな感じだろうか。それは、それで素敵な気もする。
あかりの表情からそれを読み取ったベニが、声の調子を落として暗い表情で言う。
「生まれ変わるっていうのはね、自分が自分じゃなくなるってことなんだ。
今まで生きて来た自分の記憶も、大事なものも、思い出も、全部ぜんぶ忘れちまう。
そんなのって、あんまりじゃないか。全く許せないね。
あたいが生きてきた時間は一体何だったんだ」
ベニの顔が悔しそうに歪む。
「だから、あたいらは、ここで抗っているのさ。神様や自然の輪廻ってやつにね」
ベニの声からは断固とした強い意志を感じたが、その表情は、暗い。
あかりが見てきた幽霊たちは、皆一様に顔や体のどこか一部に暗い影がある。
死んで幽霊になったら、自分もこうなるのだろうか、とあかりは考えた。
でも、あかりが死んで、別の誰かになってしまったら、お母さんに、あかりだと気付いてもらえなくなる。そして、あかりも、お母さんのことを忘れてしまうのは嫌だと思った。
あかりの表情を見て、自分の言いたいことが伝わったと知ったベニは、ため息を吐いて言った。
「お嬢ちゃんも、悪いことは言わないから、さっさとお家に帰んな。
連れて来ちまった身として言うのも罰が悪いがな。
ここは、時間が止まってしまったやつらの居場所なんだ。
お嬢ちゃんは、まだ生きてる。自分の時間を……命を大事にしな」
ベニとおじさんが優しく見つめる中、あかりが嫌だと答えようとするより先に、狐の子が叫んだ。
「嫌だ、いやだ。帰るなんて、絶対にダメだ。
ここに居て、ぼくと一緒に遊ぼうよ」
駄々をこねる狐の子を見て、ベニが眉をひそめる。
「お前なぁ……素直に遊ぼうと言え、とは言ったけど、時と場合を考えてから言え。
お前とこのお嬢ちゃんでは、住む世界が違うんだ。
お嬢ちゃんには、お嬢ちゃんの帰る場所があるんだよ」
ベニが説得しようとするが、狐の子は、頑なに首を振って納得しようとしない。
あかりは、何て言おうか少し考えてから、今度は、小さな子に声をかけるように優しく話しかけた。
「あなた、独りぼっちで寂しかったのね。
あたしも、お母さんがいなくなって、とっても寂しかった」
狐の子は、黙ってあかりの顔を見ている。
あかりは、まるで自分がお姉さんになったような気がした。
「だから、あたしは、お母さんに会いたいの。
会って、ちゃんと聞きたい。どうして急にいなくなっちゃったのか」
あかりの祖母も父も、お母さんは死んだから、もう会えないのだと言った。
でも、死んだ人の世界が見えるあかりにとって、人間の死は永遠のお別れではない。
例え幽霊の姿であったとしても、母の姿が傍にあれば、それだけで寂しくはなかった。
抱きしめてくれることは叶わなくても、母の温もりを肌で感じることはなくても、目で見て、そこに母の存在を確かに感じていられたから安心できた。
それがある日、急に母の姿が見えなくなった。
他の幽霊たちは変わらずこうして目に見えるのに、母の姿だけが見えないことに、あかりはパニックになった。
どうして母が急に消えてしまったのか、あかりはそれが分からない。
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