第25話 モブな薬屋は英雄がご希望です 1

★視点★ 薬屋のディック


早朝6時。私の仕事は、薬研やげんで薬草や乾燥させた動物の臓器をすり潰すことから始まる。


 外は快晴で心地よい風が吹いているが、作業場は薄暗く、まだ四月だというのに既に蒸し暑い。作業場には窓がひとつしかない。それも直径60センチの小さな窓。その窓も分厚いガラスで隙間なく閉ざされている。朝の心地よい外気を肌に感じながら作業が出来たら、さぞ気分が良いだろうと思うのだが、仕事柄、粉末にした薬を多く取り扱っているのだから仕方がない。突如として吹き込む一陣の風で、部屋中に広げた貴重な薬が一斉に舞い上がってしまう。風は、薬屋の天敵なのだ。


 私は、薬屋。


 名前を、ディックと言う。


 作業場の小さな窓から、綺麗な海が見える。


 朝凪あさなぎ


 陸風が海風に切り替わるひと時に起きる無風状態。打ち寄せる波も、返す波もない海面。長時間座って薬をすり潰していると、腰が痛むので、時々立ち上がっては、薄暗い作業場から、草原の向こうに広がる静かな海を眺めている。

 直径60センチの小さな窓が見える朝凪は、まるで窓が額縁となった一枚の絵画のようだ。タイトルはさしずめ「私の人生」といったところか。


 波風の無き人生だった。


 薬屋の家に産まれ、親に逆らうこともなく家業を継ぎ、光の当たらない作業場で、年がら年中黙々と薬をすり潰し、その薬を、目立たず、出しゃばらず、遠慮がちに問屋に卸して来た。

 今年で55歳になるが、私に配偶者はいない。消極的な性格の上に、ぱっとしない見た目なので、これまで女性にはまるで縁が無かった。今更この性格は変えられない。たぶんもう、ずっと独り身だろう。


 まるで、風景のような人生だった。


 主張や意思を持たぬ群衆の一人。いてもいなくてもどちらでもよい存在。華やかな世界で賞賛をされる英雄たちの背景。そう、私は風景。


 すり潰した薬を、注文票と照らし合わせつつ、それぞれの用途や目的に合わせて慎重に調合し、デンプンで作った水に溶けやすい可食紙に包んで行く。


「ぜぇーぜぇー、ひゅーひゅー」


 胸が痛い。呼吸の音が変だ。咳や痰、発熱など、風邪によく似た症状が、一年ほど前からずっと続いている。医療に係る者の端くれとして分かる。これは風邪ではない。風邪ならば、いくらなんでも長引き過ぎだ。

 最近、まるで汗をかかない。時々血痰が出る。腕がしびれる。頭痛や吐き気もある。恐らく私は重い胸の病を患ってる。現在は、その末期であろう。


 午前中に仕込みの作業を終える。午後からは、出来上がった大量の薬を籠に入れて背負い、村や町の薬問屋に卸して歩く。私の作った薬は、薬問屋から小売店に卸され、それを村人や町人、冒険者たちが購入をして服用する。


 今日も今日とて、町の薬問屋に、薬を卸す。


「やあ、ディックさん。相変わらず、あんたの薬はよく効くって評判だせ。店主たちも売れ行きが良いって喜んでいるよ。これからもよろしく頼むぜ」


 羽振りのよい派手な服をきた問屋の若旦那が、私に言う。


「……はあ。それはそれは。ありがとうございます」


「ディックさん。お昼ご飯は食べた? よかったらこれから三人でランチでもどう? 美味しいハンバーグのお店を見つけたのよ」


 若旦那の奥方が、気さくな笑顔で私を食事に誘う。


「……せっかくですが。お弁当があるもので」

「たまには外食ぐらいしましょうよ。おごるわよ。ね?」

「いいえ、自炊したお弁当がもったいないので」

「残念ね。ディックさん、ご苦労さま。ごきげんよう」

「それでは、失礼いたします」


 荷物をまとめた私が、問屋の店先から屋外へ出ようとすると、背後から若旦那と奥方が小声で話しているのが聞こえてくる。


「ふん。よかれと思って食事に誘ってあげたのにさ。つまらない男ね」

「ディックは、根っからの日陰者ひかげもの。陽の当たらない場所で薬をすり潰し続けて生涯終えるのさ」

「まあ、お気の毒。オホホ」

「あわれなヤツ。わはははは」


 日暮れ前に、作業場に戻る。背中から籠を下ろすや否や、休む間も無く、私は薬の研究を始める。実は、半年ほど前から、自分の体を蝕む肺の病を治す特効薬の開発を進めている。

 日夜、あらゆる薬草や動物の臓器の中から、肺の病に効くものを厳選し、薬の量や配合を考察して来た。肺の病を根治する特効薬の開発は、いよいよ大詰めだ。

 私は、ロウソクの炎のたゆたう作業場で、食事も取らず、無我夢中で、みずから記した詳細な手順書通りに慎重に薬を混ぜ合わせて行く。いつの間にか、夜が更けている。小さな窓から、満月がこちらを覗いている。


 小さな窓から朝日が差し込む頃、特効薬は完成した。


 あとは、この薬の効き目を、みずからの体で試すだけ。


 私は、覚悟を決めて、その粉末状の特効薬を服用し、傍らのコップの水を飲み干した。


 ごくり…………げほ! げほ! げほ!


 間髪を入れず、これまで体感したことのない激しい目眩(めまい)と動悸(どうき)に襲われる。


「げほ! げほ! げほ! く、苦しい」

 私は、作業場の床に大量に吐血をして、どうと倒れた。

「しくじった。どうやら薬の調合を間違えたようだ」

 万能の薬は、調合を僅かに間違えるだけで、万能の毒になりうる。耐え難い苦しみが胸部を襲う。作業場の石畳をのたうち回る。


 波風の無き人生だった。


 まるで、風景のような人生だった。


 激しい胸の痛みは絶頂を迎え、やがて、ピタリと止んだ。


 あ。私は、今、死んだ。


 何ということだ。誰にも気づかれず、誰にも看取られず、誰にも悔やまれず、私の人生が、いとも簡単に終わってしまった。私の生涯とは、いったい何だったのだ。こんな一生があってはならない。私は、もう一度人生をやり直したい。次こそは、絢爛と咲き誇る華やかな人生を送ってやるのだ。次こそは、次こそは絶対に……


―――― 


 瞼を開くと、大きな川が流れる河原に立ち尽くしていた。


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