第11話 百合の花
――あの緑の女に「興味がない」だとか言ったのだけれど、あの女を利用するのも面白いかもしれないわね。
カフェテリアの外。
天気は雨。
雨と言っても気持ちのいい雨だ。
季節が違えば百合の花が綺麗に咲いていただろう開けた廊下。
今となってはただの低木が近くにあるとしか認識できない。
お昼時という事もあり、後ろで聞こえた「美知恵おっす!」と言う声から継続的に人がカフェテリアに入っているのがわかる。
それに比べてカフェテリアから出ていくという人は少ない。
――勢いで、外に出たのだけれど無計画もいいところね、これからどう遊ぶか考えようかしら。そうね……
私は少し離れたところに寂しくぽつんと置いてあったベンチ、ちょうど低木が横に、風よけとしても、雨よけとしても、人避けとしても便利なそれに近寄った。
ベンチを液体から守っている屋根からは、心地の良い連続した音がぽつぽつと響いている。
――へぇ、百合の花って冬にも咲いているのね。
ふと足元に目が言った。
そこには一輪の小さな白い百合の花が、私を見ていた。
私は少し砂で汚れている茶色のベンチに座った。
ーーーーーーーーーーーー
少し濡れた髪の毛の先から「ぽつぽつ」と
服はぬれて重くなっている。
荒い息を吐きつつも私は少しだけ冷静さを取り戻したのか、疲労でなのかは分からないが、大学から少し離れた喫煙所、その近くにある椅子として使えそうな段差に座っていた。
屋根からは、まるで私をあざ笑うかのように「ぽつぽつ」と言う音が連続的に聞こえてくる。
あのクソ女が。
アスファルトを殴った。
少し血が出てきた。
百歩譲って私を殴ったり、罵倒したり、私だけにやるのは良い。
まだ我慢できる。
だけど、あれは、あんまりだ。
あの女は限度っていう物を、丁度よさ、どれをどこまでやっていいかの線引きが出来ていない。
私の心の中で怒りと憎しみが渦巻く。
突然ポケットに入れていた電話が鳴った。
みちゅ子、私の子と心配してくれてるんだな。
ほんの少しだけ安堵を感じた。
寒さで震えている手で何とかそれを確認しようとした。
『咲』
私はそれを見た瞬間、歩道へとスマホを投げ捨てた。
何度か黒いアスファルトに叩きつけられながら飛んでいく。
地面に当るたび「コン」という軽い音を立て、徐々に勢いは薄れてゆき、歩道の真ん中あたりで、それは止まった。
一秒、いや二秒だろうか、そんな短い間スマホは雨にさらされていた。
だがどうだろう、今は違った。
歪んだ視界の先には彼女がいた。
黒くて青い傘を差した彼女は丁寧にそれを拾うと、こちらに歩いてきた。
傘に隠れて顔は見えなかった。
彼女は私を見下ろしていた。
彼女はその場で屈み、目線を私に合わせてきた。
「スマホ落とし……どうしたんですか」
彼女は心配そうな眼をしていた。
「……」
「これ使ってください」
彼女はそう言ってタオルを渡してきた。
私はそれで頭を拭いた。
「あなたのせいで常備することにしたんですよ」
「話くらいなら聞きますよ、同郷だったよしみで」
どうせこいつに話したところで。
どうせ笑われるだけだ。
「……ですか」
なんて言ったのか聞き取れなかった。
「しょうがないですね」
「……こっちに近づいてください」
「大丈夫ですから」
「もう少し」
「もっとです」
私は言われた通りにした。
彼女は私を抱きしめてきた。
「ぽすっ」という音がした。
「もう大丈夫ですよ」
私は彼女の胸の中に居た。
目の前には彼女の髪の毛と、青くて黒い落ち着いた色があった。
心臓の音がよく聞こえる。
温かい。
だめ、だめだって。
視界がぼやけてくる。
今まで抑え込んできた物があふれ出ていく。
彼女が背中を撫でてくれている。
車両が道路を走る音、彼女の息使い、嗚咽の音。
1分だろうか、30秒だろうか。
彼女は耳元で囁くように口を開いた。
「もう大丈夫ですか?」
「……もう大丈夫です」
「そうですか」
「抱擁には副交感神経を……ふふ、なんだっていいですよね」
彼女は耳元で子供っぽく笑った。
そう聞こえた。
子供っぽくても安心感のある、守ってくれそうなもの。
「お話聞きましょうか?」
あなたになら相談してもいいかな。
いや……だめだよ。
彼女に事情を話せばきっと何かしてくれる。
きっとそれは良い事だ。
でも彼女には話せない。
どうしてもだめ。
「いやぁ、平気。ごめんね。こんなよくわからない所見せちゃって」
出来るだけ強がっているのを悟らせないように、声が震えるのをこらえて言った。
喉のあたりがキュッとする。
「仕事の休憩でここに来たんですから、別にいいですよ…………あーあ、また借りを作っちゃいましたね、貸借対照表がたいへんですよ」
強がりに気づいているくせに、それを無視して冗談めかして、慰めてくれる。
「返せる未来が見えない」
鼻声になってるかもしれない。
「冗談です」
そう言うと彼女は傘を閉じて壁に立てかけ、私の隣に座った。
「大学の方は良いんですか?」
「それは……」
正直もう、戻りたくない。
みちゅ子に顔を合わせるのが怖くてたまらない。
「なるほど、大学での出来事で悩んでいるのですね?」
「本当に大丈夫だから」
「はいはい、わかりましたよ、詮索はやめます」
彼女は両足を「ぶらん」と投げ出して背伸びをした。
「くじけそうなあなたには、これをあげます」
それは一本の煙草だった。
「それって」
「そうです。意外でした? 他の人には内緒ですよ」
私は渡されたものを受け取った。
何の銘柄なのか、煙草はどんな味がするのか、私はこれからどうしたらいいのか。
わからない。
彼女は煙草を一本、口に加えて火をつけた。
一呼吸おいて煙草を口から離して灰色の煙を口から出した。
今の私には、ただの一つ、たった一つのその動作が、まるで有名な画家が描いたかのような一枚の絵に見えていた。
「たばこ、
言われるがままに煙草を咥えた。
「そうです」と彼女が口にすると、彼女も煙草を咥えて私の目を見てきた。
屋根から伝わってくる雨音が、何度も反響して聞こえてくるような、時間が拡張されて息が止まるような。
彼女から匂ってきたシャンプーの香りと煙草の臭い。
私の知らない世界に二人きりで、一緒に手をつないでいるような、そんな気分。
自分が何を感じているのか抽象的でよくわからない。
心臓がどくどくと荒れている。
――——その瞬間。
彼女に抱き寄せられていた。
鎮まることを知らない心臓と胸焼けしそうな苦しさの中、冷静に「何をするんだろう」と思った。
目の前には綺麗な顔があった。
はっきり見ないとわからないほど、ほんの少しだけ、本当に少しだけ口角を上げている。
私の煙草に火が付いた。
「ほら、ゆっくり吸ってください」という言葉と同時に彼女は私から離れた。
私はそれを聞いてゆっくりと灰色の煙を吸った。
「……ッ……ゴホッ」
肺いっぱいに何かが入っていく感覚がある、喉が焼けるような、喉の奥を直接触られたような、気持ちが悪い。
「あー、むせて落としたー、もったいないですよ~」
彼女は床に落ちた煙草を拾い、灰皿の上に置いた。
「……ゲホッ……し、仕方ないだろ、初めてなんだから」
「わーい! 私の夢が叶っちゃいました。ちなみに好きな人の初めてをもらう事です」
さっきから何度も私に見せている、いたずらに成功した女の子のような笑い。
「……言い方ってものがあるだろ」
「えー、それってどっちですか? もしかして『初めて』ですか? それとも『もらう』ですか?」
「……『初めて』の方にきまってる」
数秒ほど無言の時間が訪れる。
意表を突かれたのか、目をぱちくりさせている。
「両方じゃないんですか」などと小さく聞こえてきた。
「もう……私の方が元気づけられて、どうするんですか」
彼女はそう言って、小さく喘ぎながら大きく背伸びをした。
「連絡先の件、覚えていますか?」
「うん」
「なら、大丈夫です」
私はその言葉を聞き、彼女の休憩時間が終わりなんだと気が付いた。
いやだ。
彼女と私は喫煙所から出た。
いつの間にか雨はやんでいた。
きっとゲリラ豪雨か何かだったんだと思った。
傘を日頃から携帯しているなんて彼女らしい。
「最後に少しだけ」
彼女はこちらを振り向き近づいてきた。
私も一歩前へと出た。
「うん」
「今日、あなたに何があったのかわかりません。軽率かもしれませんが、諦めたり、落ち込んだりするのは、あなたらしくありません。おっと、勘違いしないでください。べつに落ち込むなってことじゃないです。ただの励ましです」
「ごめんなさい、続けますね」
「辛い事があったら、今日の、この場所の、さっきの出来事を思い出してください。あなたなら頑張れます。きっと出来ます。あなたが泣いているのを見るのは悲しいです。嫌です。ですので、もう、絶対に泣かないでください。私は転勤で遠くに行かないとですから」
「これは餞別です」と付け足して何かを投げてきた。
落としそうになりながらも受け取り、それが何かを確認すると「ライター」だった。
少しだけ重みを感じる「ライター」
シンプルなデザインだけど、なんだか少しだけ可愛いげのある「らいたー」
「ライターです。どうしても諦めそうなとき。どうしても辛いとき。戦えとは言いません」
「どうしてもって時は」
彼女は楽しくて、面白くて、頭が良くて、美しい。
賢い彼女なら私の事情なんてきっと知っている。
でなければ「ライター」なんて渡すはずがない。
出来の悪い私の頭でも彼女が何を言いたいかわかる。
この「ライター」が次の言葉を教えてくれる。
「「逃げちゃえばいいんです」」
「もー、かぶせないでくださいよ、それにやるなら『んです』って文末にくださいよ~」
「ありがとう」
去り際、彼女は私の頬にキスをした。
「今日の朝キューブレーキしてすみません」
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