悪女は死んだ! ……はずだった
雨傘ヒョウゴ
第1話 悪女と出会う
“逆さの”女がパメラを見下ろしていた。
上下逆さ、足は宙に、頭は地面に。女は不思議なことにふわふわと宙に浮いていた。
そう、“浮いている”のだ。
女が着ている服はお偉い貴族が着るような質のいいものであることは見てわかったが、どうして逆さになったスカートの中身が見えないのかパメラにはまったくもってわからないし、彼女の豪奢な金の髪がゆらゆらと重力に逆らって空中を楽しげにゆらめいているのか理解ができない。
薄暗い路地の中、あまりの不可思議すぎる状況に、ただただどうでもいいことばかり疑問が溢れてくる。
(これは、人……? 本当に?)
パメラは無意識にも手の中にある宝石を握りしめた。別にほしいわけではない、落ちていたから拾った。ただそれだけだったが、握りしめずにはいられなかった。それでも美しすぎる女を前にして視線を逸らすことすらできない。
『あなた……』
逆さの女は泳ぐように体を反転させ、こちらに手を伸ばした。そしてその真っ白な指先で手袋越しにパメラの顎を静かになでた。ひんやりと冷たい。たしかに触られたはずなのに、そこにはぞっとした冷気があった。
彼女は生きている人間ではない。直感として理解した。死んでいる、つまりは幽霊<ゴースト>。
だというのに、足は縫い付けられたように動かなくて、ただ女と見つめ合った。
もしかすると、彼女のアメジストの瞳がきらきらと星のように輝いていて綺麗だったからかもしれない。女も大きな瞳をじっと見開き、パメラに顔を近づけた。――そして。
『なんだかちょっとへちゃむくれねぇ!』
「…………へ、へちゃむくれ」
『あらごめんなさい。私、考えたことをついつい口にしてしまうだけ。別にぶさいくってわけじゃないわよ? 平民なりに愛らしい見かけで。でも、そうね、なんだかつまらない顔だと思ったの』
つまらない、という言葉にピクリとパメラは眉を動かす。女はそんなことにも気づかず、自分の頬に手を当てながらうんうんうなって、ついでにくるくると宙で回っている。『決めたわ』 そして、むふりと口元に笑みをのせた。
『そのつまらない顔! 私が輝かせてあげる! まかせなさい、私は強欲と呼ばれた女、ほしいものは全て手に入れてきたの。ここで出会ったのも何かの縁ね、辛気臭い顔はこのパメラフィナート様の好みではないわ。素敵に消し去ってあげる!』
一体どこから取り出したのか、ふかふか、ひらひらなレースをとりつけられた閉じた扇の先をパメラの眼前に突きつけたのだ。
――これは交わるはずがなかった少女二人の物語。
死者と生者。とっくに死んでしまったはずの悪女との出会い。
ただの孤児であるパメラと、公爵令嬢パメラフィナート・エーデルシュタインとの始まり。
***
「神父様、それじゃあお届けに行ってきますね!」
「パメラ、気をつけて。マキューダさんのお宅にパンを三つ。サロメさんは二つ、お代はもうもらっているからね!」
「はい!」
そう言ってバスケットを片手に孤児院を飛び出したのは赤髪の少女だ。
十二歳になったばかりで、年の割には手足がすっと長い。体はやせっぽっちだが、孤児院の子供ならばこんなもので、クローディンスの街ではさして珍しい姿でもない。
そんな彼女を神父は微笑ましく見送った。人が良さそうな、と形容すると褒め言葉だが、ひょろりとして頼りがなさそうで、髭面で、頭もちょっとぼさぼさだ。でもそんな神父のことをパメラは大好きだった。彼女の育ての親でもある。
神父の裾を引っ張るように立って、「行ってらっしゃい!」ところりと転がる鈴のような声を出したのは弟分のルネだ。女の子かと見紛うような柔らかいほっぺをしていて、ルネを見るとパメラは少し恥ずかしくなるような気分になるときがある。パメラだって十分すぎるほどに可愛らしい女の子だが、往々にして自分のことはよく見えないものだ。
パメラが見送りの言葉に苦笑して手を振って応えると、ルネ――おかっぱ頭の少年は、けほんといがらっぽい一つ咳をした。彼はつい先週までひどい熱を出していて、まだ病み上がりなのだ。
「ルネ、無理をしちゃだめだからね!」
立ち止まって、膝丈のチェックのスカートをくるりと揺らしながら振り返る。それからバスケットを持っている手とは反対の手で口を覆いながら大声を出した。神父の隣で、つんと口元を尖らせるルネが、「パメラだって同じくせに」ときっとすねた言葉を言っているのだろう。不満げな顔をしている。「頑丈さが違うのよ!」とパメラは元気に笑って売り物であるバスケットの中身を大切に持ちながら小高い丘を駆け下りていく。これがいつもの光景である。
暖かい春の日差しを存分に浴びながら、ころころと元気な子犬が転がるようにパメラは走った。
パメラの癖っ毛の赤髪は本当は赤とも紫とも言えなくて、池を覗く度にがっかりする。同じ孤児院の女の子の中には髪を伸ばしている子もいるけれど、パメラが同じことをしたら朝起きたときにくしゃくしゃになって大変なことになってしまう。どうせマゼンダみたいな中途半端な色合いだからと諦めて肩口にそろえている。
ぱちぱち紫の瞳を瞬かせて、元気に膝小僧まで見せるように足を動かし樫の木の下を通り過ぎて街に向かったとき、少しだけ悲しい気分になった。それでも前を向いた。パメラは『つまらない』生き方はしない。パメラは十分に幼いけれど、それよりもずっと小さな頃に誓っていたことだ。『つまらない』というのが、実際どんなものかわからないけれど、いい『スキル』に恵まれなかったことにいつまでもくよくよすることではないような気がした。
――『スキル』とはこの世界の誰もが持つ神の恩恵である。
十二歳になると平等に与えられる権能で、スキルを含めてこの先の仕事を決めるものも少なくはない。十二歳になった朝、目を覚ましたときに不思議と自身の力を知るのだ。逆にいうと、自分が生まれた日を知らない人間は驚きつつも自分の誕生日を知ることができる。かくいうパメラもその一人だ。
親の顔も知らないから、孤児院に迎え入れられたときにとりあえずとつけられた誕生日が、まさか半年もずれているとは思わなかった。スキルを授かるまでまだまだ時間があるに違いない……と何も身構えていないときだったので、起きたときはとにかく混乱してベッドから転げ落ちた。そして自身の能力を知ってさらに二回目、床に額を打ち付けた。
パメラの当初の予定では、とにかくすばらしいスキルを手に入れて孤児院を卒業し、スキルにちなんだきちんとした職について孤児院のみんなを少しでも楽をさせたい、と考えていた。でもそんな目論見はあっという間に崩れ去った。それでも他の卒業した子供達と同じくなんとか外で職を見つけようと思ったのだけれど、どうにもうまくいかず失敗ばかりで結局ずるずると家事手伝いのまま日々を過ごしている。
「……もしかして、これって、『つまらない』って、いうのかな」
決して、育ての親である神父や、孤児院の手伝いをすることが嫌なわけなのではなく。
嘆いたところで授かったスキルは変わらない。だから、気にしないように、と考えて前向きになっているつもりで、本当はうじうじとしている自分が、多分一番、つまらない。
ちょっとだけ視線が落ちてしまって、立ち止まった。けれどもすぐに、ふんっと息をついて前を向いた。
「配達先は、マキューダさんのお宅にパンを三つ。サロメさんは……ええっとそれも三つ!」
教会に併設されている孤児院は善意の寄付から成り立っている。けれども以前ならばともかく、ほいほいとお金を出してくれる大人が今のクローディンスの街にいるわけがなく、孤児院もある程度の収益を確保する必要があった。卒業した子供達からの力添えの他、細々とした収入ではあるが出来上がったパンの宅配だってとても大切な仕事だ。
「……違った、二つだった!」
顔を上げて、足を踏み出したとき、嫌な“未来“が見えた。「ひぎゃっ!?」 落とし穴である。頭の上からケタケタ笑う声が聞こえる。見えた”未来“のおかげで、バスケットに入ったパンはなんとか死守できた。「いたたた……」 バスケットを持ち上げて、穴の中から首から上を覗かせながら声の主達を睨み上げた。
「一体、何……」
「やあ、『ちょっと』のパメラじゃないか! こんなところで何をしてるんだ?」
「楽しそうだなぁ、混ぜてくれよ! 嘘だよ、お前には穴の中がお似合いだよ!」
ぷっぷくぷう! とおしりを振りながらパメラを馬鹿にするように踊っているのはクローディンスの街に住む子供だ。パメラと同い年の弟のふとっちょと、一つ年上の兄ののっぽである。街では珍しいほどによく肥えている。
「お前今、失礼なことを考えたな! 僕の名前はフトッロで、あんちゃんはロッポだ!」
パメラが無言で睨みあげているとフトッロがどすどすと地団駄を踏んでいた。
「……何も言ってないわよ。フトッロ! ロッポ! パンの配達の最中なの、馬鹿なことをしていないで、ここから出して!」
「ちょっと待ってくれ、その言い方だとまるで俺達が君を穴に落とした犯人のようじゃないか! なんてひどい、これは傷つくしか無いな、弟よ!」
「あんちゃん! ひどいよね、まあ僕達が落とし穴を作ったんだけど!」
「その通りだ弟よ、イエイ!」
「二人で両手を合わせないで……」
他の孤児院の子供達には案外大人しくしているのだが、彼ら二人の兄弟は、こうしてよくパメラをからかう。この兄弟だけではなく、街の子供達はパメラを見ると鼻で笑うし、全員とはいわないが大人達だってそうだ。下に見られている、とはっきりと感じるときがある。
「……こんなことに、『スキル』を使うなんて」
と、いいつつももう何度目かわからないので、今更である。彼らは能力をひけらかしているのだ。彼らはこの街の中では当たりな方で、一番年が近くて、ハズレの『スキル』であるパメラを見ると嬉しくなるのだろう。
「ふふん、俺のスキルは『穴掘り』で、フトッロは『怪力』だ。宝石堀りの街では丁度いいだろう!」
「そんなの、もう随分前のことで今は少ししか採掘できてないじゃない……」
「その少しを、僕とあんちゃんで増やしてやろうってのさ! そもそも負け犬の遠吠えなんてしてないで、お前が自分のスキルを使って避けたらいい話だろ! まあ、『ちょっとの』パメラにできれば、の話だけど!」
ここまでがお約束の流れだ。楽しそうに笑いながらふとっちょとのっぽの兄弟は消えていく。「理不尽、極まりない……」 難しい言葉を使ってなんとか気持ちを落ち着けようと考えたものの、さらに現状が馬鹿馬鹿しくなるだけだ。パメラが通るであろう道を予測して、わざわざ落とし穴を作っておいたのだろう。頬を膨らませて、瞳をつむった。こんなことをしている場合ではない。
こうして何度も落とされるものだから、そろそろ抜け出すコツも覚えてきた。穴は深かったが、パメラの肩程度までの深さたったことは幸いだ。
「よいしょ……っと」
バスケットは一旦地面の上に置いて、うまい具合にくぼみに足を引っ掛けなんとか登る。服にはすっかり泥がついてしまった。今から食べ物を届けるという格好ではないけれど、いちいち戻っていてはパンが固くなってしまう。仕方ない、とパメラは上着を脱いで反対にして腰に巻いた。そうしたらスカートの汚れも見えなくなる。
「……はあ」
溜め息が出た。
――お前が自分のスキルを使って避けたらいい話だろ
これは、本当にその通りのことなのだから。パメラには落とし穴があることはわかっていた。だからせめてもの抵抗として、パンを守ることができたのだ。そもそも落ちないように避けたらよかった。これも間違いない。でもそれはできなかった。
「ハズレスキル、か……」
パメラのスキルは、“未来を見ること”。未来視、というんだよ、と育ての親の神父には教えてもらった。
十二歳になった朝、窓の柔らかな日差しを浴びながら、体の奥底に湧き出た新たな力に身震いをした。最初はとにかく驚いた。ベッドから落ちた自分の姿を見て、痛みに身構えた瞬間、本当の痛みがやってきたのだから。平民が得るスキルといえば身体能力の向上の他には趣味の延長のようなものが多い中、これはすごいスキルだ、と飛び跳ねるように喜んだのも束の間だ。
パメラのスキルでは、見ることができる未来はほんの一時。一秒、長くても二秒後がせいぜいだ。
そんなものを知って、一体何になると言うのだろう。使えないスキルなら、何も持っていないことと同じである。
ちょっとのパメラ、というのはいつの間にか街の子供達につけられていたあだ名だ。未来が視えるパメラ。でも、ちょっとだけ、ほんのちょっぴり……。
誰しもが持っているスキルなのに、パメラには何もない。そのことを考えると唐突に胸の奥がぽっかりとあいたような気分になる。すかすかで、からっぽ。それでもぐっと胸を握りしめた。
スキルがないのなら、ないで仕方がない。今までと同じだけだ。街の子供達にからかわれることなんてどうってことない。まずは自分で、できることをしよう。そう誓ってパメラはバスケットを抱えなおした。
***
「サロメさんのところはすぐに行くことができたけど……、ええっと、マキューダさんの家には最近行っていないから……ええっと、どこだったっけ?」
パンを届けてお疲れ様、と伝えてもらう言葉は少しだけパメラを元気にする。ただ街の大人がパメラを見るとき同情の感情がないことに気づかないわけではない。
「大丈夫、大丈夫……。パメラとパン、パメラとパン、響きもなんだか似ているし」
スキルがあろうとなかろうと、そんなに落ち込むこともない……となんてことは自分でも何を言っているかわからないけれど、スキルを授かって半年。この間に自分をごまかす術はなんとか覚えてきた。そんなときだ、ふと路地裏が目についた。
薄暗い道だから、万一のこともある。だからいつもなら近づきすらしないはずなのに。「……ん」 片目をすがめた。すると、きらりと何かが輝いていた。右に、左にと周囲を確認して、ゆっくりと歩を進める。バスケットを置いて、暗がりの中で奇妙なほどに主張するそれに、気づけば手を伸ばしていた。
「……ネックレス……?」
大粒の紫色の石が埋め込まれていたが、パメラには石の知識なんてないから名前なんてわからない。
「どうして、こんなところに?」
『それは私のものよ。許可なく触らないでくださる?』
「あっ、ごめんなさい……誰?」
見上げると、そこには宙に浮く女がいた。
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