第28話 答えはシンプルに 2

「自惚れていいなら…それは、…。いや、俺じゃ駄目なんだよな」

 気がついたら、特定の人のことを思い浮かべていた。そのことに気がついて、アーレは自分の顔が熱を持つのを感じた。うっかり言葉にしてしまった自分を恥じた。

「駄目なのは、アルトゥールじゃない。駄目なのは、私」

 困った顔をしたアルトゥールを見て、アーレは余計自分が嫌になった。

「あなたは悪くない。私が駄目なの。私が…。…ごめんなさい」

「ああっ、もう」

 アルトゥールは馬を止め、片腕で荒々しくアーレを引き寄せると、背中に腕を回して力を込めた。

「…もう、こういうことはしないと決めていたのに」

「ごめん」

「謝るな。謝ったって許しはしない」

「ごめんなさい」

「黙らせようか」

「ごめ…」

 軽くついばむように短く触れる唇が何度も言葉を塞ぎ、そのまま緩やかに唇を触れ合わせると、柔らかく動く唇に合わせるように次第に瞳が閉じていく。

 ゆっくりともたれかかってくる体を受け止めて、アルトゥールはあの時のアーレからの許しは本物だと確信した。

 それなのに、こんなにも自分を受け入れながら、拒絶する。

 アルトゥールにはわからなかった。

 自分が勘違いしているのか。まさか、男なら誰でもいいというのでもないだろう。だが、今のアーレならこのまま無理矢理自分のものにしてしまっても抵抗することなく受け入れ、そして自分自身を嘆き、絶望してしまいそうに思えた。

 定まらないアーレに惑わされる。

 自分がどうしたらいいのかさえ、わからなくなってきた。


「家が釣り合わないのが嫌なら、家を捨ててもいい」

「違う…。そんなこと、望んでない」

「じゃあ、望みは何だ」

「…何を望んだって、…何も手に入らない」

 止まっていた涙が、またあふれ出す。そして涙だけでなく、言葉までも、決して誰にも言わなかった思いまでもがこみ上げてきた。

「お勉強だって、もっと続けたかった。絵だって描いていたかった。嵐の夜には誰かにそばにいてほしかった。熱が出たときには、お薬よりも誰かの手がほしかった。頑張ったときには、褒めてもらいたかった。祈りだって、私を見ていたんじゃない。あのきれいな光を見ていたのよ。だから祈りが終わったら私なんていらなかった。いつも胸を張って生きろと、何をやってもできて当然だと、周りを許せと、自分の物を差し出せと、どんなにそうしても、みんな私なんて見てなかった。だって、私は厄介者なんだもの」

 止まらない涙もそのままに、自虐的な笑みを浮かべる。その目線はアルトゥールを映すことなく、遠い何かを見ていた。

「あなたは、今まで頑張ってきたものを手放してはいけない。私なんかのために、何も失わなくていい。そんなことをすれば、いつかあなたは後悔し、私は…自分が許せなくなる。あなたには今のまま、誠実で、優しく、誇り高くいてほしい。あちこち繕われた服で、裸足で大地に立ち、汚れた手をした女が、あなたの隣に立てるわけがない」

 アルトゥールと目を合わせると、その笑みが、いつか見せた全てを諦めた偽物の笑みに変わった。そしてゆっくりと諭すように

「あなたは、そういう女を隣に置いてはいけないのよ」

 そう口にした途端、また大粒の涙があふれ出た。律する心、矜持ある言葉で自分の想いを砕き、傷ついた心が流し続ける涙。

「本当はわかってた。二年前なんかじゃない。もっと前から、みんな私から離れたがってた。一人になって、…寂しくなくなった」

「嘘だ」

「嘘じゃない。もう置いて行かれるのを怖がらなくて良くなったんだから。みんながいた時からずっと一人だった。これからだって、…。私が魔女なら、ここで祈りながら、そっといなくなる。命が短いならむしろそれでいい。あなたが見せてくれた私の魔法を信じて、みんなのために祈るから。だから」

 アルトゥールのシャツを掴む手が、言葉とは反対に、強く、アルトゥールを引き留めようとする。

「だから、私を…、こんなことしかできない私を、もう…許して」

 その手に、アルトゥールは手を重ねた。

「許すわけがない」

 いつも、どんなに怒っていても言葉には怒りを出さないのに、その口調は怒りに満ちていた。

「俺が助けた命を粗末にするのか。命が永らえるようにできる、そう言ったのに、短くていいなんて言うのか。…おまえが、そんなばかとは思わなかったっ」

 重なった手に、力がこもる。痛いほどの力で、アーレがしがみつく手を、離れないように握りしめる。

「自分の隣に誰を置くかは、自分で決める。余計なお世話だっ」

 腹立たしげに言葉を言い切ると、言葉が途絶えた。


 耳が痛みを覚えるくらいの静けさの中、アルトゥールはアーレの頭を自分の胸元へと引き寄せた。ゆっくり深く息をつくと、いつもの、妙に冷静に聞こえる口調が戻ってきた。

「俺の隣にいる者がきれいな服を着ていなければいけないなら、おまえに服を買うくらい何でもない。そんなのは俺の甲斐性の問題だ。仕事をしていれば、服が汚れ、破れるのは当たり前だ。手が汚れ、まめができるのは、おまえが真面目に働いてきたからだ。それの何が悪いんだ。何故卑下する。…俺には理解できない」

 自分の言葉を否定されているのに、決して非難されていない。むしろ、自分のことを認めてくれる。自分でさえ、認められない自分ことを。


「自分で手に入れた金で、おまえは絵の具を買っていただろう。絵を描くのが好きなら、やりたいことを自分でできるようになっている。下らない連中の力なんか借りなくても、おまえは自分で生きる力を身につけているんだ。むしろ、おまえを利用するだけ利用して、厄介者扱いするような連中とは手が切れてよかったと、俺ならそう思う」

 それは、アーレ自身も気がついていたことだった。叱られ、止められていたことを思いのままにできる。与えられた仕事でも、自分の好きなことだから選んだ。

  うまく描けている。

  おいしかった。

  あなたの作る魔法の実が好き。

 自分がした仕事を、認めてもらった。

 それは、置いて行かれたさみしさを打ち消せるほどに、ずっと自分の救いになっていた。

 だから、森の生活を続けられた。気がつけば、自分は自分の力でちゃんと生きていた。


「裸足を地に着けるのは、森の魔女であるおまえにとって当たり前のことなんだろう。祈るおまえの姿は、美しく、誇り高く、神聖なものだ。杖から発するあの魔法を見て、潤っていく大地を見て、それでもおまえが大地に素足で立つことを卑下する者がいるなら、そいつが愚かなんだ。少しも恥じることじゃない。おまえから祈りを奪えば、おまえの命に関わる。決して恥じるな」

 そう言われて、気がつく。

 アーレは自分が裸足になることが恥ずかしい訳ではない。ただ、アルトゥールの隣に、裸足で立つような人間がそぐわないと、そう思っただけ。それは与えられた知識の中では正しい判断であり、それを間違っているとは思わない。

 思わないけれど…、アルトゥールの言葉を心がすんなりと受け止める。そうありたいと、願う。


「例え、おまえが俺を受け入れられなくても、俺はおまえを守る。おまえの力は尊い。守られるべきものだ。俺のガルトナーの名はなかなかに利用価値がある。おまえを守る盾にだってできる。使えるものは利用することを、おまえも少しは覚えるべきだ」

 自分の力が、尊い…?

 守る? 必要とされるのではなく?

 聞き間違いかと思った。


「嵐が怖いならそばにいるが、嵐より怖い狼をそばに置くことになるかもしれない。…まあ、おまえの前なら、狼だって番犬になる」

 アーレは思わず笑ってしまった。こんな素敵な番犬を置けるなら、それが狼だって構わない、そう思った自分に驚いた。

 アルトゥールの手の下で、掴んでいたシャツを強く握りしめる。強く、より強く。

 この手を離したくない。

 それなのに、言葉が出ない。出せない。


 アルトゥールは、自分の出す答えからアーレを切り離すことにした。

 望みを持たず、破滅を願う者の言うことを聞いているから、自分の判断が揺らぐ。

 面倒な立場や生い立ちなど、今、自分が決断を下すのに邪魔なノイズに過ぎない。アーレの希望を聞くのは、本人が自分自身への望みを持つようになってからでいい。


「聞きたいのは、一つだけだ」

 アルトゥールは、アーレの顎に手をやり、顔を引き上げた。

「俺のこと、どう思ってるんだ」

「だって、私」

「余計なことは言うな。答えはシンプルに」

 心を射貫くような目は、偽りを許さない。

「好きか、嫌いか、」

 思わず、目をそらすと、頬を両手で挟まれ、正面を向かされた。

「どっちだ。言えよ」

 唇が動こうとしても音を出せない。答えてはいけないと何かが止める。

「俺がおまえを好きなのはわかってるんだろ? それなのに、あの答えは何だ」

 低い声で、間近に叱られ、

「ごめ」

 思わず謝ろうとすると、その口は短く塞がれた。

「謝ったって駄目だ。ほら。答えろ」

 返事を求め、聞き返す唇は、今にも触れそうな距離を保ちながら問いかけ続ける。

 吐息が触れて、唇をくすぐる。

 熱のこもった思いが、胸の奥に凍らせた言葉を吐き出したいともがく。

 絞り出した音が紡ぎ出した言葉は、

「…好き」

 シンプルに答えるなら、たった、それだけ。それなのに。

「気がついたら、あなたのことを考えてる。…思いを止めてしまいたいのに、止められない。でも、私はあなたにとって何にもならない。あなたは私をこんなに救ってくれるのに、私はあなたにとってメリットなんて何もない。むしろデメリットばっかり。私は厄介者にしかなれないのに。こんな身の程知らずな自分が許せない。こんな…」

「答えはシンプルに。他はいらない。俺を好きなら、それでいい」

 頬を両手で押さえられたまま、重ねられた唇。いつか最悪の味を移されたそのやり方で、あの時と同じように強引に。それなのに触れる優しさに、あの時のように逃れたいと思うことはなく、全ての言い訳は溶かされていく。

「それなら、もう誰にも譲らないからな。覚えとけ」

 うっすらと笑みを浮かべながらも、アルトゥールの目の奥は鋭く光っていた。

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