1DKS " I don't know so much"
村上ꓘ(ムラカミトーレプーキ)
本文
本文
1DKS — I Don’t Know So much —
「ここなんて、築浅、駅近でお薦めですけどね」
と言いながら、スーツを着た男はいくつかの間取りが載った物件情報をデスク越しに、こちらに寄越して見せる。灰色のパーテーションで区切られた事務所然とした一角で、私は熟考を示すように分かりやすく腕組みをして、事務用回転椅子に座っていた。
成程、などと分からぬなりに応じてみたものの、生まれてこの方二十余年、実家暮らしの私には間取りの良し悪しの見当が一向につかない。大きな多角形に内含される小さな四角形のパラメータの差に有意を見出せないまま、既に小一時間が経っている。
「一度内見してみるのはどうです?見てみると印象って変わりますし、住んでみる地域の雰囲気も感じられていいと思いますよ」
資料に齧り付くばかりで、うんともすんとも言わない若造を見かねて不動産仲介業者も建設的な案を切り出す。男の意見も尤もで、私としても相似形を矯めつ眇めつしていても、一般項がぼんやり見えてくるのみで埒が明かないというのは正直な気持ちだ。
しかしながら急に決まった今回の転属は、今週中にも新居を決めて、荷物も程々に、可能な限り早く、身を遣せという辞令である。急ではあるものの初めての一人暮らしに淡い期待を胸に灯してはいた。しかし、こうも物件の目算がつかないとなると、当面は週極賃貸の世話になるしかないか。私はセールスに長居の詫びを入れ、一抹の悔いを振り払うように席を立とうとした時である。
卓上の資料の一枚が、徐ろに足元に滑り落ちる。拾い上げてみると、本日三桁手前まで見た他の多角形とは異なる要素がそこにはあった。
「えす」
えす、とは【S】である。アルファベットの【S】。それは恐らくダイニングと思われる居室の中で一回り大きな面積を占める四角形、その内部に記された正円に内包されていた。
「あ、それ気になります?やっぱり【S】あるのいいですよね」
私の反応を見て、不動産セールスがここぞとばかりに水を向ける。
「電気代も浮くって聞きますし、【S】付きはすぐ入居者が決まっちゃいますよ。人気ですから」
——あの、【S】って何ですか?、と言葉にしようとしたが、踏み止まる。物件探しは訳知り顔でやらねば、とんでもないものを掴まされるぞ、と転勤族の兄から注意されていた事を思い出した。相手の反応にもセールストークの気色があるように思えてくる。
【S】か。思いつくのはシューズボックスであるが、玄関にあってもリビングにあるものではないだろう。加えてセールスの話ぶりだとどうも光熱費の削減に繋がるようだし。照明の【S】、いやそんなものはどこにでもついているか。家電や空調の類だとすれば、ストーブ?そうだ、ストーブなら電気代も安くなろう。薪ストーブなども流行っていると聞くし、なんとも洒落たインテリアかもしれない。私はこの物件が当たりだと感じていた。
「ここ、契約します。今すぐ」
気づくと、決心は声と成っていた。契約書に揚々と、高塚ヒカルと署名をしたのが先週の土曜のことである。
そして今週の木曜、引越し業者の運転するトラックと相乗りする形で、私は新たな我が家に到着した。
新築6階建の鉄筋造りのマンションである。私の部屋は202号室。賃貸契約とはいえ、今日からここが私の生活拠点になるのだ。先刻管理会社から受け取った見慣れないディンブルキーを差し込み、右に回す。玄関の扉を開けると、室内に篭っていた真新しい建材の匂いが鼻をくすぐる。まだ何もない廊下、まだ何もないキッチン。余白の多さに胸が高鳴る。ここから私の新生活が幕を開けるのか。
外履きを脱ぎ、靴下一つで居室の奥に進んでいく、リビングダイニングの扉を開ければ、南向きの窓から光が差し込んでいる。カーテンを買わないと。何色がいいだろう。我ながら行き過ぎた高揚感だ。ここに水を指すものが現れる。それは巨大な【石】であった。
それは寝転んだ子馬を連想させ、さして広くもない単身用居室の中で過大な領地を占有していた。濡れたような黒い光沢に一瞬心奪われたものの、冷静に考えて居室に相応しい調度ではないと頭を振る。この部屋は新築物件だ、であれば前の入居者の置き忘れの線は無い。であれば建築業者の置き忘れだろうか?私の混乱を他所に、玄関周りで引越し業者が内装保護の段取りに入っている。それを傍目に、私は慌てて物件を契約した不動産仲介会社に連絡を取った。
「え?【S】ですよ、【S】。【ストーン】じゃないですか。気に入られてたでしょ、【S】」
その結果が、この返答だ。私以上に何故こんな電話がかかって来るのか、先方が困惑を示している。【ストーン】の【S】、想定外の答えである。
脳裏に、あの日見た間取り図が浮かぶ。見慣れぬ設備表記の【S】とは眼前の黒駒のことらしい。それにしてもここまで特殊な調度であれば、もう少し説明があっても良かっただろうと悪態を吐きたくなる。記憶にある【S】を囲んだスペースよりも目の前の石は二回りは大きく感じるのだが。しかし様々な諸手順をスケジュールを言い訳にすっ飛ばした私自身にも多分に非があろう。人生初の物件選びをしくじり、落胆していた私の背中に、引越し業者の作業員が——荷物の運び入れを始めて良いですか、と声をかける。
実家から運び入れたのはデスク、衣類や最低限の生活用品を詰めた段ボール十箱程度。それと型落ち価格で購入した洗濯機と冷蔵庫を家電量販店から送られた姿のまま引越し荷物として積載した。転居作業に充てることが出来る休暇は、今日を含めて二日間しかない。役所の手続きや生活用品の買い出しのことも考えると、これだけに手を拱いてもいられない。
作業を進めてもらうように応じたものの、仕事柄、様々な家々を渡り歩いてきたであろう作業員たちも、居室に横たわる【奇岩】には目を剥いていた。運び込む動線もこの【石】のおかげで限られてしまうので、黙々と作業をしているものの、彼らの視線には無言の抗議の色があった。新米家主はただただ苦笑いで応じることしか出来ない。
運び込んだ荷物が少ないこともあり、小一時間もしないうちに(針の筵は永遠にも思われたが)全ての荷物の搬入が終わった。荷受けの確認書類に押印を終えると二人の作業員は去っていった。そして残されたのは私と——御影石だろうか、黒い【石】だけ。予定外の同居人のことは一先ず先送りにして、私は転居に絡む諸事を終わらせることを優先した。まずは引越しの挨拶をと意気込む。贈答用に熨斗を巻いた食器用洗剤を携えて上下左右の隣室に向かった。
平日のためか、ほとんどの居室が留守でその日挨拶ができたのは右隣の203号室の住人だけであった。
「はは、ご丁寧にどうも。こういうん今時やるん珍しいよ。ていうか昨日のうちに引っ越しの業者さん、タオル持って挨拶きてはったし。五月蝿くしますが、言うてね。まぁ貰えるもんはありがたく頂くわ。ありがとさん。自分は転勤かなんかなん? へぇ、こんな時期に大変やね。まぁお互い独りもんやし、困ったことあったら遠慮せんと言ってな。僕もカノジョ連れ込む時は今晩うるさくなるけどすまんなって断るようにするし、ははは。冗談や冗談」
203号室の住人は西の地方の訛りを残す、同年代の賑やかな男だった。寝起きなのだろうか。まだ髪に寝癖を残し、濃紺のスウェット姿のまま私を玄関先で迎えてくれる。初対面の相手が、思いがけぬ弁舌の良さを披露してきたので気後れをしたが、分かりやすい友好を示してくれたことは正直嬉しかった。まだこの場所では他所者、新参者という立ち位置である私を受け入れてくれた住人がいることは新天地で胸を撫で下ろすには十分だった。
私も、相手の口達者に乗せられたのもあってか、他の部屋の住人があの【奇石】とどのような折り合いをつけているのか気になってくる。先人の知恵を拝借する思いで、やんわりと話を切り出してみる。
「このマンション、やっぱり皆さん【S】が気に入って入居されるんですかね。私は来たばかりでまだアレに慣れてなくて。」
「えす?なんのこと?まぁこの辺は駅からは遠いけど買い物する所も沢山あるし。バスがね、よぉけ出とるのよ。交通の便がえぇから皆住んどんとちゃうかな?よぉ知らんけど。」
おや、と思う。どうもこの部屋の住人はあの【奇石】について心当たりがない様子であった。もしかすると住居ごとに内装が違うのだろうか。確かに物件をみた時にも他の号室が紹介されていた記憶はない。あまり話を掘り下げて、然程痛くもない腹を探られるのも避けたくはある。
新たな隣人に挨拶も早々、話を切り上げようとすると——まぁ何かの縁やし、いつでも連絡してよ、と連絡先を交換することになった。成程これが所謂陽性人格のコミュニケーション力というものか、と驚きはしたが、断るのも忍びないので申し出に応じる事にする。数分後には目にも賑やかな画像メッセージが届いた通知が、通信端末に表示されていた。訪問した際に門戸に表札はかかっていなかったが、登録されたユーザー名にはタツキと表示されている。203号室のタツキくん。初日にして新たな知己が出来たのは幸先が良いな。
ただ冷静になれば、初対面の相手に対して些か不用心であったのも否めない。ひとり暮らしであれば防犯意識など改めて高める必要があるだろう。買い出しの際に防犯グッズも買っておこう。【石】付き物件の件についても、私はどうも肝心な確認が疎かになりやすく、詰めが甘い。それについては慎んで自重しなければなるまい。
部屋に鎮座した【石】のことは気掛かりではあったが、まずは転居の手続きが本日必須のタスクである。隣人の言葉通り、数駅隣に市役所の出張所があることは下調べしていた。タツキ君の言を裏付けるではないが、電車を使うよりも、バスで向かう方が都合が良さそうである。乗り換えなしに、十分弱で目的地に着くことができた。分庁舎は役所らしい、直線で構築された外観で大きなガラス面が印象的なメインエントランスから中の状況が一目で見通せる。平日ということもあってか幸い混雑していない。私は、天井から吊るされた案内表示を頼りに転居手続きの受付を探した。首尾よく見つけると、窓口前のカウンターに備えられた書類を数枚手に取り、記入例の案内と書面を交互に見ながら、空欄を一つずつ埋めていく。書類を書き終えた私は、機械から整理券を抜き取った。小気味の良い電子音と発券番号を復唱する合成音声が人気の少ないフロアに長く響いた。私は機械の言葉に促されるように、呼び出されるのを待つことにする。腰を下ろしたソファの反動は小気味よい。こういった公共施設の調度は主張が少なく、長く使えそうな頑丈さを備えている。こういう機能美には好感を覚える。自室のインテリアも、長く使えるものがいいな。グレーベージュの布張り地を撫でながら、私は内装の構想を組み上げる。一人暮らしにこのサイズのソファーは少し贅沢かな。間取りの大きさを検案していると、どうしても【石】の存在が首を擡げてくる。いっそのこと、あの【石】に腰かけて過ごすというのも一案かもしれない。
そんな風に考えていると、私の番号がモニタに表示される。前住所で受け取った転出書類をトートバッグから取出し、個人番号証明カードや記入した書類と併せて受付窓口に提出する。誤字や記入漏れがないかの確認と、転出・転居の日取りの確認が終わると、呆気なく受理される。これだけ簡単に済んでしまうと、いずれオンライン手続きができるようになると便利なのにな、と思わないでもない。手続きのついでに、勤務先に提出する必要がある住民票や印鑑証明書を、予備を含めて二部ずつ依頼した。私は庁舎を後にすると、その足で銀行に向かう事にする。引越しというのは思った以上に多くの手続きを伴う、次は銀行口座の住所変更だ。そこではクレジットカードを作らないかと営業を受ける羽目になったが(相手にもノルマがあるのだろう、仕方がない)、それを切っ掛けにカード会社の届出情報の変更が必要なことを思い出せたのは僥倖だった。こういった対人的な声かけがあることで社会行動が調整されている部分がある。オンライン手続きなどと嘯いているが、私もまだまだアナログが心地よい側なのだ、と自覚する。変更手続きが終わるのを、銀行のロビーで待つ傍ら、携帯端末でカード会社、ネット通販、各種会員登録情報を更新していく。同じ内容を何度も入力するのは楽になったよなと、予測入力の恩恵はこういう時に実感する。窓口から呼び出しがかかる頃には全ての情報更新が終わっていた。自分がもう実家に帰属する情報を失ったのだなと、若干の懐郷の念が過ぎった。これについては実家は隣県にあることを思えば、ヒロイックな感傷に浸りたいだけの自己演出の発露に違いなかった。
思い当たる手続きは全て済んだ。正午はとっくに過ぎており、そろそろ腹も満たしたい。まだ時間はあるのでこの後も買い出しに充てたいが、腹拵えをしない事には頭も回らなくなってきている。慣れない土地で、行動圏を開拓するというのも楽しそうではあるが、朝から荷物の搬出、挨拶回り、転入手続きと心身ともに疲れは出ている。ここは一度ホーム、言葉通り拠点に戻り、体を休めて、落ち着けるのが上首尾に思えた。新居最寄りのスーパーの売り場を一巡して品揃えを確認し、結局、即席麺の蕎麦、ペットボトルの日本茶だけを購入し店を後にする。他にも買えばよかったのだが、電子レンジの備えが無いことに食料調達の段でようやく気づいたのだ。実家暮らしだと物心ついた時からある家電でもあったので、生活必需というイメージが乏しかった。今後自炊をしていく上でも、この家電の心強さにようやく気づくというのは中々の世間知らずである。幸いにも、お湯を沸かす鍋はある。それで作成可能なものといえば即席麺くらいであった。無意識に蕎麦を選んでいる点が、後天的に獲得した文化背景の実在に気づけて、少しばかり愉快である。
家に帰ると、誰もいない室内に——ただいま、と声をかけてしまう。遅れて、あ、と間抜けな声だって零れる。こういううっかりも段々減っていくのだろうか。一緒に暮らす相手でも居れば別だろうが、そんな相手は年齢近似値で存在しない。私の嗜好のレンジが狭いことが問題の主因であるのは否めないだろう。別に面食いという訳でもないのだが、何故かタツキ君の顔が浮かんだが、なんでだろうね、顔の造詣は好ましい。とはいえ、ここは契約上単身者用住居。居住ルールの上でも適わないのだから、考えてみても詮ないことだ。
荷物を肩から下ろしながら、靴を脱ぎ、そろりと、カーテンもまだ掛かっていない居室に歩みを進める。荷解きを待つ段ボールが積まれた状態に変わりはない。残念ながら【石】も健在で、目下の悩みの種として顕在している。段ボールが視界に入ると、荷解きの作業のことを思い、少しばかり憂鬱になる。数日掛かりで必死に詰めた荷物を、数日掛かりまた取り出すという引越し作業は、掘った穴をまた埋め直す拷問に似ているのではないか。人間の活動の大半は俯瞰で見ると大体そんなものばかりなのかもしれない。
思考がとっ散らかるのは空腹のせいだ。そう割り切ると側面に「キッチン」と太いマーカーの殴り書きの文字が書かれた箱を探す。割れ物が入っていることもあって、最上段に積まれていたので簡単に見つかる。その中から箸、コップ、雪平鍋を取り出し、包んだ新聞紙を剥がす。そうか、ゴミ箱。現在行きどころのない使用済みの新聞紙を、取り出した段ボール箱に押し込むように戻すと、剥き身になった食器類をシンクに運んで、軽く水で濯ぐ。スポンジも買わないと。水を鍋に汲むと五徳にかけて火をつける。即席麺の蓋を開け、調味液とかやくの入った小袋を取り出す。数分すると水は沸騰し始める、私は鍋から直接、沸いた湯を、麺の入った容器に向けて注ぎ入れる。案の定幾らかは容器の外に溢れてしまう。台拭きも箱から取り出せばよかった。麺の完成を待つ間に段ボールから台拭きを見つけ出し、容器に入れ損なった湯を拭き取る。湯沸かしポットもあると便利だな。行動の一つ一つによって色々な物の必要性が波紋の如く浮上してくる。私の粗忽が招いているのだが、プールの中で体を動かすと波紋が生じるのに似た感覚があって。普遍的な楽しさを覚えた。ただ、忘れないうちにと、携帯端末の買い物リストに今思いついた物品をメモをしておく。
作業デスクと椅子だけは組み上がった状態で持ち込んだので、幸いフローリングに座り込んで食べるということは避けることが出来た。買い物リストに食卓の文字を書き加える。【石】に座るという案も勿論あったのだが、いざ【本人】を目に前にすると、第一印象でも感じた、有機的な曲線美を腰掛けにするのを躊躇わせた。ずるずると即席麺をかき込み、コップに注いだ日本茶を飲み下し、熱を帯びた喉を潤す。腹が膨れると、ひと心地ついた。そうして眠気が襲ってくるのは生理現象なのだからどうしようもない。——食べてすぐ横になるなんて、と実家であれば母親に諌められただろう。けれど、ここには私と【石】しかない。一人暮らしに遠慮する相手はいないのだ。敷物が無いから床の感触は冷たいだろうか。日差しが当たるからだろうか、予想に反して不思議と心地よい温かさがあった。まずいな、これは本格的に寝入ってしまう。私は携帯端末のアラームを半刻後に合わせると、優雅な午睡に向けて、甘い睡魔に抗うのを止めた。
頭の中で、ごつんと音がして目が覚める。鈍い痛みをじわりと感じて、漸く私は、何かに頭をぶつけたことを理解した。気づくとアラーム音が部屋に鳴り響いている。ぼんやりとした端末の液晶画面を覗くと、そこには三度目のスヌーズであることが表示されていた。寝過ごしてしまった。だが幸いにも多少日は傾いているが、まだ外は十分明るい。時間のロスも精々一時間ほどで買い出しを終えることも、電子レンジを見繕う時間だって作れそう。慌てるようなヘマでは無い。打ち付けた頭部を摩りながら、まだ目醒めきらない視界で周囲を見回す。私を起こした、もとい頭をぶつけた相手は【石】だった。【石】が勝手に動いて起こしてくれたということでは勿論無い。私が寝ながら徐々に移動して【石】の側に寄っていたに過ぎないだろう。私は寝つきは良い方だが、寝相には滅法自信がないのだから。偶発的とはいえ、この【石】が助けてくれたように感じるのには十分だった。
固くなった背筋をほぐす様に伸びをする。そしてゆっくりと【石】に手を伸ばすと、その滑らかな石肌を優しく撫でてみた。ひやりとした冷たさは不思議と無い。あまりにも早い手のひら返しはご愛嬌だ。いいことを思いついた。緑の丸いラグを敷こう。私の脳内には、草原に寝そべる私と黒駒のスケッチが出来上がっていた。
最後の段ボールを開けたのは、それから二ヶ月以上後のことである。言い訳のようになるが、仕事が始まると新しい環境や仕事に慣れるのに手一杯で、部屋の片付けなど二の次になっていた。自炊をするという決意も最初だけで、新しく調達した電子レンジもコンビニエンスストアの惣菜弁当を温める専用機として重用されている事態である。部屋作りも進捗は芳しくなく、購入を決意した緑の丸いラグを白いフローリング床に敷くと、【石】との対比で枯山水のような出来になった。大して気に入ったわけでもなく、取り急ぎ手に取った薄いブルーの遮光カーテンは部屋の雰囲気に合っていない。それ以来、要に迫って買い揃えると後悔するのを理解した。私は多少の生活の不便を受け入れながら、慎重な購入を心がけている。
そろそろ季節も秋めいて来る。外の風は涼しいを通り越して肌寒さを感じさせた。最後の箱から取り出した秋冬服をクローゼットに加え、代わりに夏物の半袖シャツや通気性重視のスーツを入れ替わりに段ボールに詰め直す。衣替えを進めながら——そろそろエアコンを使う季節か、と天井を見上げる。そこで私はある事に気がついた。この発見については、私が如何に物を深く考えず、場当たり的に生きているかの証明でもあるので、穴があったら入りたい。この部屋にはエアコンが無かった。
過ごしやすい季節に入居したこともあり、今まで空調に頼ることがなかった、と言うのは勿論あった。遅すぎる事実の発覚を契機に、私の中で全ての点が繋がった。名探偵気分であるが、ここまで勘が鈍い探偵であれば、既に被害者の一覧に名を加えていることだろう。私は、確かめるようにフローリングめがけて体を沈める。勿論、床暖房だったというようなオチでもない。——電気代も浮くって聞きますし。不動産仲介業者の言葉をようやく理解出来た。床に鎮座した【石】に触れてみると、じんわりとではあるが確かな熱源を感じる。間違いない。この部屋の空調はこの【石】に依拠していることは明白だった。
ここに来て私は、【石】について、先送りしてきた疑問の解決に心血を注ぐ事になる。先ず調べ始めて気づいたことは、この【石】は私が思っている以上に謎に満ちていた。先ずインターネット検索で情報を探すのが私の世代の常である。そうすると、この不可思議な存在を形容するには【石】という言葉を用いる他無い。その結果、庭の敷石、石の質感を模した壁紙、古墳の石質といった情報が呼び出されるだけだった。根気強く色々な検索式を総当たりしてみたものの、結局【石】が【石】であるために、私が探し求める情報に辿り着くことは無かった。石と暖房を組み合わせた検索式では、石を使った蓄熱について知ることが出来たが、そこに書かれていた太陽光蓄熱では、この【石】が起こしている現象を説明するには不十分に感じた。
次なる手立ては、餅は餅屋、不動産会社である。この物件を紹介した不動産仲介業者の男は、少なくとも【石】の存在、性質を認知していた。でなくてはあのような紹介をすることはないだろう。少なくとも私よりは【石】の実態を把握しているのが道理である。貰っておくが、二度と見返すこともないだろうと、たかを括っていた名刺の実存は正直心許なかったが、幸い契約書と共に保管してあるのを見つけることが出来た。ただ結論を先に言うと、この情報筋を確実視していた私の期待は裏切られる事になる。
不動産仲介業者に電話をかけ、担当者への取次を頼んでみたが、既に退職しており、連絡を取ることが出来ないという返答だった。参考人が消えるという、ミステリ小説にありそうな展開は背筋を凍らせたが、終身雇用が形骸化している昨今珍しいことでもないだろうと納得できる尤もらしい理屈を塗り付けて蓋をする。善後策として、応対をしてくれている職員に【S】について知っていることがないか、尋ねてみた。その職員が言うには間取り図として【S】を使う場合、サービスルームを意味した表記であると言う。サービスルームと言うのは建築基準法を満たしていない(例えば窓がないとか)為に居室として使うことはできない部屋のことを言うらしい。日本語で言うなら納屋というのが最もその意味合いに近そうだった。また【Sto】という表記も存在し、こちらは収納を意味するとのことだった。恐らく【ストレージ】の【Sto】だという推測が出来る。ただ【石】が置かれているというような物件は自分が知る限り無い、というのが聞き出せた全てであった。業界人が知らないという事実は、私と暮らすこの【石】が稀少な存在であることを裏付けるには十分だった。外部から、これ以上情報を得るのは難しいだろう。事実上の手詰まりである。こうして私の【石】についての調査は一旦の終了を迎えた。却って【石】の謎は深まったのだが、私はこの不思議な【同居人】がそこまで悪い奴とは思えないでいる。
【石】との暮らしに慣れてくると、いろいろ気も緩んでいく。当初はこの不思議な【石】の存在を人に知られるのは危ういのではないか、と私も様々に気を揉んでいた。部屋の中を除かれないように外出の際はカーテンを締めるよう心掛けた時期もあった。【石】の超常的な力を狙う秘密結社に、私が口封じの為に命を狙われる事になる、捻りのない逃亡劇で魘される日だってあった。今思っても、我ながら貧困な想像力の豊かさに乾いた笑いが溢れてしまう。
半年もすると、私はタツキ君を自室に招くようになっていた。彼になら【同居人】を紹介してもいい、と思えた。彼への信頼は勿論あったが、私の小さな秘密を彼に打ち明けることで少しばかり楽になりたいという身勝手な思いがあったというのが本音のところだ。初めこそタツキ君は部屋に鎮座した【石】に驚いていたが、——なんかヒカルさんっぽいわ、とすぐに【石】を受け入れてくれた。単身者用の部屋に、二人と【石】が一緒に収まると窮屈さは否めない。ただタツキ君とこの距離感になれるのは私にとって嬉しい時間、幸福と言う他なかった。仕事の疲労やストレスを和らげる唯一無二の時間だった。そんなこともあって私はタツキ君が部屋に遊びに来てくれた翌日は決まって。念入りに石を磨き上げ、——よしよし、と頭(お尻だったかもしれない)を撫でてやるのが習慣になった。下心を含んだ祈願をしても、【石】は嫌な顔一つせず、私と共に暮らしてくれた。
隣人と【同居人】の対面を終えた翌月、私は【石】の第二次調査に着手した。外側から情報を得ることが出来ないのであれば、せめて自分でデータを集める事にしたのである。その観察と実験の結果、【石】について、いくつか分かったことがあった。
【石】の最大の利点にして、最大の不可思議はその温度調節機能にある。毎日の温度測定で、【石】の表面温度は大体二十四度前後から大きく変化しないことが分かった。これはあくまでも、この二週間の平均である。この季節だからなのか、それとも恒常的に一定なのかは現時点では定かではないが、少なくとも人間、というか私にとって丁度良い室温であることは確かだ。また、部屋の中央部と端の温度、部屋ごとの温度も調べてみたが、【石】の居住する部屋では気温のムラが殆どなかった。流石に玄関あたりまでくると効果は弱いのか、外気に近い温度であったし、換気をした直後も室温は当然相応に変化した。室温は【石】からの距離に相関があり、空気の受動的な拡散とは異なる方法で熱を伝播している可能性がある。部屋のカーテンを締めて遮光に努めたが、石の暖房能力は衰えることがなかった。太陽光蓄熱説を否定する結果だと言えるだろう。
素人考えだが、鉱石といえば遠赤外線や放射線などの物理量が絡んでいるのではないだろうか。遮蔽された屋外や、ドアや壁を挟んだ隣室に影響を及ぼさないとなるとそこまで的外れな仮説ではないかもしれない。それを裏付けると言い切っていいのか分からないが、閉め切ったクローゼットの中は室温よりも低い温度を示した。仮に放射線の類だとすれば、人体への影響がどうしても気になる。その仮説を支持した私であったが通販サイトで線量計の価格を見比べて腕組みをして、一人唸っていた。——健康は金で買えない、と自分に何度も言い聞かせ、それから一週間と三日の葛藤の末、購入ボタンを遂に押した。届いた線量計で測定した結果は異常値を示すことがなく、安心を得ただけで、取り越し苦労に終わった。
【石】の内部についても興味は尽きない。可能であれば、超音波検査などで内部構造を画像化することができれば良いのだが、如何せんそのような調査機関への伝手はない。よしんば伝手があったとして、この巨体を運び出すのは至難である。別に床に根付いているわけでもないのだが、掃除の際に少し移動させようとした時には持ち上がる気配が全くなかった。引きずってずらすことは辛うじてできそうだったが、退去時に発生するフローリングの修繕費のことを考えると気が引けた。わずかに空いている床下との隙間を縫うように拭くのが現状関の山というところである。
ただ超音波検査が出来ないとしても、音に寄って分かることはあるだろう、ものは試しと聴診器を買ってみた。結果は当然、相手はただの(只者ではないが)【石】なので、鼓動もクソもあったものではない。些細な駆動音もなく、外から叩けば、わずかな反響を耳に拾えたが、気のせいかと感じるほど微かな変化であった。少なくとも生物的な内部循環や、機械的な内燃機関は持っていないのであろう。機械的な人工物ではないことの証左を得たのは確実な収穫である。ただタツキ君が遊びに来た際、この聴診器が見咎められたのは痛かった。——そういう趣味あるん? という彼の怪訝そうな問いは、私の心に傷を残した。当分忘れることはできそうにないし、役目を終えた線量計と聴診器はフリマアプリで出品しているものの一向に売れる気配がない。
こうして私による【石】の第二次調査は幕を引く。結局【石】のことではっきりとしたことは分からない。分からないなりに【石】を調べることで、私は【石】との距離を縮めるようで、喜びを覚えるようになっていた。
五月の頭、嬉しい発見があった。季節外れの猛暑日であっても私の部屋は、変わらず二十四度の適温を維持していた。仮説では加温を説明できたが、冷却といった現象が加わるといよいよ原理は余計に分からなくなってしまう。ただ仮説の反証が生じたことよりも、暑さを堪える必要が無いことが率直にありがたい。これで少なくとも室内で打ち水をするという事態は避けられし、エアコンを新調する必要も無さそうだ。
翌月の中頃、悪い発見もあった。流石の【石】も湿度には寄与しないようで、梅雨の間は除湿器の使用を余儀なくされた。浮いたエアコン代と電気代に比べれば可愛い出費だ。
私がこの町に暮らして、一年が過ぎたある日、今は良き飲み友達(酒の勢いによっては、より親密な関係)でもあるタツキ君から、仕事中に電話が入る。電話で連絡が来るなんて珍しい、週末の誘いだろうか、とぼんやり思いながら不意の着信に応じる。出てきた声は私の想定と大きな温度差があった。
「もしもし? ヒカル? 今、電話大丈夫? 自分、今、部屋におる? なんやすごい物音がお前の部屋からしてな。ドーンちゅうて。今は静かなんやけど。お前が倒れて怪我しとるんちゃうか気になってな」
「え。いや、今は職場で。それに俺の部屋、誰も呼んでない」
「ホントか、どないしよ。空き巣とかやったら怖いし、警察とか呼ぼか? 」
「いや、とりあえず直ぐに部屋に戻るよ、連絡ありがとう」
実際心当たりは無いでもない。【石】だ。気のいい【同居人】と思って、この一年間を過ごしてきた。夏の暑さも冬の寒さも【石】の恩恵に肖って乗り越えてきた。一方的な共生かもしれないが苦楽を共にした仲だと感じる程になっている。しかし今でも【石】がどういった存在なのかはよく分かっていない。ただ、この異変が【石】に関わっていることは予感としてあった。
急ぎ早退の手筈を整えると、電車を待つのも煩わしく、普段使うこともないタクシー車を呼び止め、矢の如く【石】の待つ我が家に向かう。家の前には、警察車両が一台。警官と思しき濃紺の制服を着た男が数名とそれらが呼び寄せた野次馬や、不思議そうに眺める歩みを緩めた通行人の流れがあった。私はタクシーの支払いを終え、息も切れ切れにマンション前にいた警官の一人に駆け寄る。
「あ、あの私、ここの、このマンションの202号室に住んでいる高塚と言います。うちで何かあったんですか」
警官も突然の来訪者に一瞬驚きを見せたが、私の名乗りを聞けば理解が早い。
「202号室の方ですか、念のため身分証明を拝見できますか」
じんじんと熱を帯びて指先が覚束ない。なんとか財布から個人番号証明カードを取出して、提示する。警官は手元の紙に、控えを取るとカードを返した。
「丁度良かったです。こちらも管理会社伝手に連絡を取ろうとしていたところでした」
やはり我が家で何かが起こっている。警察が既に来ていることは予想していなかった。タツキくんは私に断りもなく、こういうことはしない。他の部屋の住人だろうか。
「あの、うちに、部屋に入れて貰えることは出来ませんか」
私の【石】に、【石】に何かあったのではないか?嫌な予感で鳩尾のあたりから酸っぱいものが込み上げてくる。【石】について切り出しても、きっと警官には伝わらない。何にも替え難いあの【石】が無事なのか。私の気掛かりはそれ一つきりなのに。
「落ち着いてください。今、実況見分をしているところですので直ぐには入室頂けません。ところでこの男に見覚えはありますか? 」
警官が一人の男の写真を見せる。写真の男の顔に全く見覚えも、心当たりもない。警官の問いに冠りを振って応える。
「ありがとうございます。まだ詳しくはお伝えできませんが、貴方の部屋にこの男が侵入していました。大きな音がして、ガラスの割れた窓があると通りすがりの方から通報がありました」
警官の説明に【石】の安否は、欠片も入っていない。
「で、現着して、失礼ながら割れた窓側、犯人が侵入したベランダから室内の様子を窺いました。すると、この写真の男、この辺りで頻発していた空き巣の容疑者で、恐らく余罪もあります、こいつが室内で倒れていました。ただ幸いなことに部屋の中を荒らした形跡はありません。今回はドジを踏んだのでしょう」
私財などこの際どうでもいい。【石】は、【石】はどうしている。
「部屋の中で石につまづいて転倒し、気絶したようです」
「【石】、その【石】です! 私の【石】、【石】は無事でしょうか? 」
警官は私の剣幕に身じろぐ。彼も私の言動で、現場に残されていたもののプライオリティをようやく理解した様子であった。そして彼に非がある訳ではないが、ばつが悪そうにこう続けた、——犯人が転んだ拍子に何かをぶつけたのでしょう、石は割れてしまっています、と。
その後の事はあまり覚えていない。現場検証が終わると警察は帰っていき、割れたガラス窓を管理会社が応急処置をして、また帰っていった。その辺りのことはタツキくんが上手く取りなしてくれたのだと思う。彼の明るい印象からは少し離れてしまうが、こう言った時の距離感の取り方も心得たもので、一人になりたい時には一人で居させてくれる。
私は床にへたり込んで、身を起こすことも出来ずに、大小十数個に砕けた【石】の傍らで一夜を過ごした。この部屋はこんなに寒かっただろうか。【石】が発していた、触れて感じていた温もりが今はどこにもない。慣れ親しんだ艶やかな曲線も、黒く高貴な光沢も失われた。空き巣が転倒したのだって偶然ではないだろう。この【石】のことだ。身を挺して下手人を追い払おうとしたに違いないのだ。馬鹿野郎。【お前】が無事であること以外、私に必要なものなんて無いのに。大の大人がこんなことで泣いてしまっていいものか、ただいつまでも感情の整理が出来ない。私は生理的に溢れる嗚咽と涙液に抗う術を持っていなかった。
その晩、私は夢を見た。いつの間にか寝てしまったのだろう。これは夢だ、という実感だけが確かにあった。それは石と暮らす人々の夢。初め、石の中には熱とうねりがあり、それは惑星の似姿だった。石の有り余る熱は、未だ火を知らない人類の祖先に寒さに凍えぬ知恵を与えた。そうした石の真意は解らなかったが、人々は石に感謝し、好意と敬愛を持って応えた。いつの時代か見当がつかないが、石と人との交流は、この惑星の上に遍在していた。夢の中の私の視点は、一つの集落に定まる。環状に並んだ巨石に寄り添い、声を掛けている人たち。日々の恵みも、受難も、ありとあらゆるものを石と分かちあう人たちがいた。あぁ私も石とこう暮らしていた。幾度も陽が昇り、陽が沈む。人に比べればとても長いライフサイクルではあるが、石もまた人と同じく終わりを免れた造物ではなかった。叡智と在り方が時と共に摩耗していき、石たちは在りし日の光沢を失い、灰色のありふれた自然物に成り果てていく。人々は石の喪失を深く悲しんだ。その悲しみは私にも理解できた。石への愛着や憧憬を、信仰の形で人々は受け継いでいった。ある者は石の姿を模刻した。またある者はその亡骸を価値あるもの、例えば貨幣とした。亡骸に詩文を刻む者もいたし、石と人が交わったような人形に神の名前を与えるものもいた。石は私が私で在る前から、人類と共にあったのだ。
目を覚ますと朝だった。私の傍には【石】があった、勿論砕け散り、冷たくなった【石】の亡骸だ。【石】の喪失が夢であったらいいのにと思ったが、今しがたの夢はこの同居人からの最後のメッセージだという確信もあった。優しい誰かがかけてくれた毛布はあったが、空調が碌に無いこの部屋だから、九月の朝の寒さで、私の体温も『石】と同じになっている。【石】の一欠片を拾い上げて、両手で固く、祈るように握りしめる。——ありがとう。私は本当の一人きりになった部屋で、そう呟いた。
空き巣事件の後、私は管理会社から砕けた【石】を引き取る権利を得ていた。私も最初からそのつもりであったが、事務的な手筈を整えたのは私ではない。私はそんなに木の回る奴ではない。タツキ君が手を回してくれていた。彼が言うには、担当者はそもそも室内に石があることに怪訝そうであったが、処分費用が浮くのであれば先方にとっても悪い話ではないからと、あっさりと許諾を貰えたとのことだった。大したことではないからと、いつものように明るく笑っている彼を見ていると、不思議と表情筋が緩んでくる。それ以外にもタツキ君は、私が事件以来ずっと気落ちしているので、毎日のように様子を見にきてくれる。本当に優しい奴だ。私だって、そんな彼を憎からず思っている。憎からずなんて逃げているな、大好きだと言い換えよう。この部屋には石との暮らしの思い入れがある。とは言え、盗人の入ったこの場所に住み続けるのは正直気持ちのいいものでもない。そろそろ転居も考えなければいけない頃合であることは私も分かっていた。
便宜上、石と暮らしていた私は未だ一人暮らしをしたことがない事になる。そんな不心得な私はタツキ君と一緒に暮らしてみるのがいいかもしれない。私個人の希望というわけではない。心配性な彼からも既にその提案を貰っているのだ。申し出を喜んで受け入れようと思う。この先の二人の関係は上手くいくだろう—よぉ知らんけど。
最近、彼の口癖が感染ってきているのも嫌ではない。知らんけどなりに上手くいく関係はあるだろう。私と【石】がそうだったように。けれど新居を探す前に一つ区切りを付けねばならない。これは私と私の【石】の問題なのだ。私は、引き取った【石】の遺体を実家の庭に埋めることを決めていた。
わざわざカーシェアリングで車を調達し、欠片一つ残すことないように部屋から【石】を運び出す。あんなに重いと感じていた【石】は、石相応の重さはではあったが、拍子抜けするほど軽かった。移動させられるのを拒んでの重さだったのかな。猫のように身を強張らせて抵抗を示す【石】の姿は簡単に想像できた。【石】を乗せた車を、私は隣県の実家に向けて走らせる。粉々に割れた【石】を伴って、【こいつ】を弔うので庭に墓を掘らせてほしい、と帰省した息子に両親は当然怪訝な顔を見せる。ただ先日の事件のことは伝えてあったので、気持ちの整理が着くのであればと、多くに触れず好きにやらせてくれた。タツキ君とのことも伝えようかと迷ったが、結局それは見送った。
私は額に汗を滲ませ、一心不乱に庭の土を掘る。土の温もりはどこか【石】の温もりに似ていた。【石】にとって還るべき場所があるとすれば、土の中だ。あの夢を見て以来、私はそう感じていた。砕けているとはいえ、子馬ほどあった【石】を納める穴を掘るのは重労働だ。園芸用のショベルで何度も、何度も、土を掻き出す。ようやく十分な大きさに仕上がった穴に、私は【石】の身体を納めていく。パズルのピースを嵌め込むように一つ一つ並べて、埋葬する。私と過ごしたあの【石】の姿を思い起こす。掘り上げた土をかける度、少しずつ【石】の姿が見えなくなっていく。私の目に汗が入る。この期に及んで、私はまだ淋しいままだ。
そうして出来上がった【石】の墓(墓石でも石櫃でもない、言葉通りの【石】の墓)は、我ながら大したものに思えた。少し盛り上がった、まだ湿度を帯びた土を撫で、私はそっと手を合わせる。
了
1DKS " I don't know so much" 村上ꓘ(ムラカミトーレプーキ) @etalpyek_mrkm
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます