買われる男
及川誠一は人生の憂き目を知らなかった。
サンタクロースとの出会いは、彼にそういう生き方をさせる出来事となったのだ。
しかしこれまでの22年の人生で、不幸で理不尽で世界に唾吐くような出来事がなかったのかと問われると、決してそんなことはない。
及川誠一にも確かに人間関係での苦悩や面倒事、才能あるものへの恨めしさや意中の女の子に振られるといった出来事は、その身に起こっていた。
その間、彼が何をしていたのかというと、特に何もしなかった。
それが、サンタクロースが及川に与えた力だった。
及川少年はあの夜、サンタがくれた
まだ8歳の彼がコルク栓を開けるのはかなり厳しい作業ではあったが、彼はなんとか達成した。
輪郭を感じさせない淡く輝く不思議な球体は、手に乗せても感触がなかった。すると光のそれは宙に浮かび、放物線を描くように全身に降り注いだ。
彼は光に包まれた。
クリスマス当日、及川は友人宅を訪れていた。及川は少し遅刻をした。
今日自分の身に起きることを案じて、約束の時間になっても家を出られずにいたのだ。
このまま行かなければ良いのではないかと思ったが、その方が嫌われそうでやめた。
結果、彼は40分遅刻をした。
遅れていくと友達にはブーブー文句を言われ、友人の母親から手洗いを勧められた。
水を吸わない上質なタオルで手を拭くと、一人ずつささやかとは言えない量のお菓子(虫歯が心配されるくらい)が配られ、その上ショートケーキまで用意されていた。彼は生地の大きさよりも苺の大きさでケーキ選び、飲み物はオレンジジュースにした。
母親はにこやかにグラスに注いでくれた。
みんなが笑っていた。
遅刻をしたこと以外、この空間はクリスマスの幸せに満ちていると、及川は思った。
そしてそれを自分が壊してしまうかもしれないことに恐怖を抱いた。暗雲立ち込める心の仄暗さが映し鏡のように、外はどんよりした曇り空だった。
窓の外を見ながら、及川は昨日のサンタクロースとの出来事を思い出した。
「何か困ったことがあった時、きっと役に立つ。ただ思ったことを念じればいい」
思ったこととはなんだろう? 及川少年は色々考えて念じてみた。
「ゲームの腕がプロ級になりたい」何も起こらなかった。
「嘘をなかったことにしたい」何も起こらなかった。
「時間を巻き戻したい」何も起こらなかった
「この場をどうにか切り抜けたい」何も起こらなかった。
「早く帰りたい」気づけば外は夕闇に染まり、彼は自宅に帰りついていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日の12月26日、この日は月曜日で終業式をしてから冬休みという学生にとっては文句しかないスケジュールだった。
登校してから友人全員が集まると、昨日の思い出話になったが、特に何も起きなっかった。
及川は学校に着くまでに自分が向けられる言葉の雨霰を考えていた。
「嘘つき」
「もう友達じゃない」
「お前とはもう遊ばない」
色々考えたが、思い出話は爆ぜる焚き火のように盛り上がり、結果何も追求されることはなかった。
及川が話を聞いていると、昨日はいろんなことがあったようだ。
友人Bがコントローラーの上にケーキをこぼして母親が四苦八苦しながら拭き取ったり、
友人Cがはしゃぎ過ぎて椅子から落ちて鼻血を出したり、
みんなで初めてエッチなサイトを見たりと、あの日は盛りだくさんな1日だったらしい。
及川はこれらの出来事を全く経験してはいなかったが、不思議とどれも記憶の少ない部分をそれらの思い出で占めていることに驚いた。
昨日の出来事ともあり、記憶の新鮮さまで感じられた。
しかし、あの日の自分の行動だけは何も思い出せなかった。
聞いた話が思い出として記憶に焼きつき、
それからサンタクロースの話をまた思い出した。
「もうそのゲームは引退したことにすればいいんだ。だいたい遊び尽くしたから、新しく違うゲームを始めたんだって」
ずっと話を聞きながら相槌だけしていた及川は、この日自分から口を開く。
「そういえば昨日、クリスマスプレゼントで違うゲームをもらったんだ」
そして及川少年の屈託は全て解決した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
結果的に、及川誠一は軽薄な人間になった。
体験はしたが経験はしていない。知っているがやっていはいない。そんな具合に、彼は己の力を使い続けた。
及川はクリスマスの経験から力の使い方を研究し、サンタクロースがくれたのは、時間をコマ送りするような力だと結論づけた。
テレビでコマーシャルを飛ばすように、必要な部分だけを享受して、人生における逼迫された部分はただ念じるだけで飛ばすことができるのだと。
逼迫された何かなんて、人間社会にはありすぎる。及川の力の使い方は様々だった。
授業参観での作文の発表も、受験の面接も力を使って過ごし、過ぎていった。
授業の一コマだけだったのは嫌いな授業全部になり、最後は学校全部になった。
大学でもそうやって過ごしたし、就職した仕事でもそうやった。
就職するための面接だって力を使ったし、女の子との初体験も及川は力を使った。
緊張したり怖くなったり尻込みしたり足踏みしたり、そうなると及川は反射的に力を使っていた。
早く終わりたい早く帰りたい早くはやくハヤク……。
・・・・・・
この日、23歳になった及川誠一は自室の天井を眺めながら死ぬことばかりを考えていた。誕生日という区切りの1日も、彼になんら変化をもたらさなかった。
ただ、誕生日の前日を一緒に過ごした女の子から「あなたってなんだか軽薄よね。頼りないし」と早朝に家を出ていくのを何もせずに見送ってから、今日は最悪の誕生日になろうとしていると感じた。
仲良くしていた友人とも疎遠になり、誕生日にもかかわらず誰からも連絡はなかった。
「簡単じゃないか。あの時とおんなじだ」
及川は初めて学校をサボるために力を使った時のことを思い出していた。
初めはドキドキしたが慣れてしまえばどうってことはなく、力を使って家と学校を往復するだけで、あとは家でゲームをしたり友達と遊んだり、そういった生活は気がつけば日常になっていた。
大学のときだってそうだし、就職してからもそうだった。
及川にとって死ぬことは難しいことではない。
首を吊らなくても線路に飛び込まなくても銃で脳天を撃ち抜かなくても、彼なら何もなかったかのように痛みも苦しみもなく死ぬことができるのだ。
親からも誰からも心配させず、ただ念じればいい。
「早く人生を終わりたい」
それだけで、きっと彼の人生はスキップするだろう。確かにあったが経験はせず、人生という知識だけを受け取るように。
自分ならそれができると思った。
できないかもしれない。
しかし彼の経験上、秤は希望なのか終幕なのかわからない方に傾いた。
及川は部屋の電球を見上げながら、あのクリスマスの日にサンタクロースからもらった淡く輝く球体について思い出した。そして念じようとしたその時、玄関ドアが激しい音を立てた。
ドオオオオオオオオオオオオン!
ドオオオオオオオオオオオオン!
ドオオオオオオオオオオオオン!
ビルを倒壊させる鉄球でもぶつけているのではないかと思わせる爆音に、及川は怯えて動けずにいた。
ドアは5回目の衝突音と一緒に派手に破壊され、大きな黒い二人組が現れた。どちらも鹿のような動物の頭蓋を顔に被せ、黒い頭巾に黒衣といった出立だ。
及川はその二人組に捕まった。目隠しをされ、手錠をかけられ、そのまま引越し業者がソファでも運び出すように誘拐された。
担がれながらアパートの階段をおり、そのまま近くに停車していたのであろう車のトランクに雑に放られ、二人組が乗り込んだ時に車が大きく沈んだのを感じてから車が走り出した。
リンチにされるのかなんなのか、及川には拉致されることに当然心当たりがなかったし、自分をどうこうする奴がいるとは思えなかった。人間関係も何もかもが希薄になっていたのだから。
車の中から、2人組の話し声が聞こえてきたが、それは声ではなくただの音に聞こえた。
「縺九▲縺溘j繝シ縺ェ」
「縺セ縺ゅ?√◎縺?>縺?↑縲よ・ス縺ェ莉穂コ九□縺励?」
とても言語には聞こえなかった。
及川にはこの場を打破する力はないように思えた。頭はパニックになり、ほとんど何も考えられなくなっていた。
そんな中で得た光明は力を使うことだったが、これには何も意味がなかった。
ただ時間が過ぎるだけで、あったことをなかったことにできるわけではない。
それに、今この場をどうにかできても、次の場面では地獄のような経験をするかもしれない。知らず知らずに激しい痛みを伴っているかもしれない。想像するだけで胸が苦しくなり、怖くなった。
しかし、及川は思い至った。
自分はさっきまで死のうとしていたのではなかったか。
この人生を早く終わらせようとしていたのではなかったか。
こんな形で終わらせたくはなかったが、彼は力を使おうとした。
けれど使えなかった。
彼の中の天秤は一気に逆方向に傾いたのである。
それならこの状況を終わらせようと思った。これもダメだった。
彼は理由もわからず力を使えないでいた。
一体どれくらい走ったのだろう。光の届かない完璧な目隠しは、彼に時間と手足の感覚を麻痺させていた。
車が止まり、トランクが開けられ二人組のどちらかが目隠しを外した。
どこともしれない地下駐車場ですら明るく見えた。手錠も外されて、及川は形だけでも自由に見えた。
二人組は鹿のような頭蓋を外して顔を曝け出し、黒衣も脱いだ。
どちらも成人男性の顔立ちをし、一人は金髪でもう一人は黒髪、スラリとして見えるが筋肉質で、黒衣の中にはブラックスーツを着込んでいた。
一人が先導し、もう一人が及川の後ろについてくる形になって歩き始めた。
及川は早く解放されたいと思った。
・・・・・・・・・
「戻ってきたかな」
知らない男が目の前にいた。
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