最終章

《夏の始まりを》

 ――六月二十三日。


 とても梅雨とは思えないほど晴れ渡る空。昨日の雨が残していった湿気だけが煩わしい。

 「おはようっ」と凪。

 僕も同じように「おはよう」と返す。


 東武野田線の鈍行に揺られる。

 年季の入ったやたらにふかふかなシートが心地よかった。

 心なしか、凪も眠そうだった。開いた小説も、先ほどから同じ箇所を行き来している。


 教室の扉を開ける手が、一瞬だけ震える。少しばかりの不安が襲う。

 けれど、その手を、凪が優しく包む。

「大丈夫だよっ」

 確信めいた力強い言葉に頷くと、今度こそ……二人で扉を開けた。


 窓から差し込む朝陽が眩しくて、思わず目を瞑った。

 一瞬のことだったと思う。

 はらりとカーテンが揺れる。

 最後尾、窓側――……。

 豊四季波はいつも通り、そこにいた。

 風に髪を靡かせながら、優雅に、圧倒的で絶対的な微笑みが、そこには、あった。

「おはよう」

「おはよう」

「おはようっ」



 ――六月二十九日。

 学校帰りに、三人でタピオカを飲んだ。

 凪は黒糖ミルクティー。

 波はただのミルクティーだが、ミルクフォームトッピング。僕は抹茶ミルクティー。

 どうやら、ストローを刺す前によく振らなければいけなかったらしい。

 知らずに先走り、二人に笑われる。



 ――七月一日。

 期末試験が始まった。寝不足の日々。

 午後はクラスのみんなで勉強会。



 ――七月三日。

 期末試験が終わった。上々の出来。

 ラーメン部に凪と波がゲスト参加。部員歓喜。



 ――七月七日。

 テスト休み。

 頑張った僕たち三人に、凪の両親が一泊二日の旅行をプレゼントしてくれた(もちろん、凪の両親同行)。

 『今夜星を見に行こう』と、日光は戦場ヶ原。

 レジャーシートを敷いて、三人で星空を眺めた。

 そういえば、学校の屋上からは見えなかったなあ……なんてことを思い出した。

 願いごとは口には出さない。

 それぞれの胸に、想いを秘めて。



 ――七月十五日。

 全教科が返却される。やはり波が一位。

 こいつはもはやチートだから。

 「頑張っちゃったっ!」

 誇らしげに胸を張る凪に、二位の座を明け渡す。可愛い。



 ――七月十七日。

 例年よりも少しだけ早く、梅雨が明けた。



 ――七月二十一日。

 終業式。ずいぶんと濃い三か月だった。

 成績表を受け取り、「また九月にな!」とクラスメイトたちと別れる。

 遅めの昼食。あの日、断念した駅前のサイゼリヤ。

 たらこソースシシリー風を啜りながら、凪が隣街で開催される花火大会に行きたいと言った。

「どうかな……? 七月三十一日、みんな予定はどう?」

「……ええ、問題ないわ」

 波の反応に引っ掛かる。

 この違和感に、僕はもう少し正直になるべきだった。



 ――七月二十六日

 三人で清水公園の市民プールへ。

 流れるプールぐらいしかないけれど、それでも地元の小学生たちで賑っていた。

 余りにも塩気の強いライドポテトがノスタルジーを掻き立てる。

 それにしても二人の水着姿があまりにもあまりにも……だった。

 凪は、白を基調としたオフショルダー!

 フリルがあしらわれた胸元に釘付けになる。思わず漏れるため息。

 神々しさに卒倒しそうになっていると、

 「ちょっと……づっくん……見過ぎだよぉ……」

 恥ずかしそうに薄手のパーカーを羽織る。

 その恥らい方……! 満点だよ、満点!


 プールサイドに鼻血の湖を作っていると、呆れた顔で波がやってきた。

 シンプルな黒のビキニ。

 ここまでビキニらしいビキニはないストレート球。

 華やかな顔立ちとモデル並みのプロポーションには、却ってそれがよく映えた。

 さすが、自分の見せ方をよく理解している。感心。

 「ジロジロ見ないで欲しい」

 と、真夏のプールサイドとは思えない凍えた風が吹く。



 ――七月二十七日

 遊んでばかりもいられない。

 夏休みの宿題を片付けるデーということで宿連寺家。

 波はこのままお泊まり会らしい。

 さすがに男子の僕はお呼びでないと、早々に帰される。



 ――七月二十八日

 宿題デー、二日目。

 昼食はまさかの流しそうめん。

 凪パパDIY。

 ……暇かよ。



 ――七月二十九日

 宿題デー、三日目。

 夕立がひとしきり降った後、オレンジ色の空が美しく、三人で散歩をした。

 途中、駄菓子屋に立ち寄り、かき氷。

 夕涼み。

 食べ歩き。


 

 ――七月三十日

 「手持ち花火をやりたい」と凪。

 きらきらと輝く花火を両手に、はしゃぐ凪とそれを柔らかい笑顔で眺める波。

 最後に残った線香花火。

 はしゃいだ名残が公園にたゆたう。

 祭りの後の寂しさ。

 夏が終わり、秋の気配を纏った風を感じた時の感覚に似ていた。


 人は、何かが終わったときよりも、終わりがあることを知ったときにこそ、切なさを感じるものだから。

 この瞬間が《永遠》には続かないことを、僕たちは、心のどこかで理解していた。

 いとも容易く壊れてしまいそうな今が儚い。

 それはまさしく、線香花火みたいだった。

 しんみりとした空気を振り払うように、波がいう。

「誰が最後まで落とさずにいられるかゲーム、スタート」

 何度やっても最下位の波に、ハーゲンダッツを奢ってもらった。



 とにかく楽しい、きらめく毎日が、瞬きするほどの速さで流れていく。

 

 僕たちは、穏やかな夏の始まりを、夏の序章を駆け抜けている。


 どこまでも高く青い夏空。

 爽やかな風と痛い陽射し。

 伸びゆく飛行機雲のように、真っ直ぐに、どこまでも続いてくれたらいいと思った。


 こんな――こんな日々が、いつまでも続いて欲しいと思った。


 続いたらいいと思っていた。


 続くはずはないと、心のどこかで思いながらも、それを信じていた。


 信じていた。

 


 そして――……七月三十一日。


 そして、僕たちは、七月最後の日を迎えた。



 八月の空を目前に控えた今日、僕たちは――…… 

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