第12話 先生はやめてくれ

「それじゃあ……よろしくお願いします、ウィル先生」


 寮のリビングにてリリーシュカと顔を向かい合わせて座った俺は、そんな言葉と一種に頭を下げられていた。


 昨夜、リリーシュカとした約束――花嫁授業と呼ぶことにしたそれは、王子の婚約者となるリリーシュカへ必要な常識や知識を教え込むことを目的としたもの。

 その第一回が翌日の今日であるのだが。


「……先生はやめてくれ。俺はそんな柄じゃない」

「じゃあなんて呼べばいいのよ」

「普通にウィルでいいだろ」

「面白くないわね」


 面白さを求めるべきは断じてそこじゃない。

 実害はないし、口出しするのも面倒だからもうしない。


 咳払いをして空気を変え、


「まずはリリーシュカの現状を知るところから始めようと思う。簡単なテストだ。まともな教育を受けて育った貴族なら即答出来る」

「ウィルも?」

「……俺を何だと思ってるんだ? こんなでも王子だぞ。子どもの頃は比べるまでもないほど真面目で、そのときのことは身体に染みついてる」


 俺が今でも王子でいられるのはその頃の積み重ねだ。


「…………期待を裏切るようで悪いけれど、まともな教育を受けた覚えはないから解けないと思うわよ?」

「初めから上手くいくなんて期待してないから安心しろ。時間はある。気楽にいけばいい。やる気なし王子の言葉は信じられないか?」

「正直、あんまりね」


 嘘でも信じると言わなかったのはリリーシュカなりの誠意か、本心か。

 どちらでもいいなと思いつつ「解いてくれ」と一声かければ、リリーシュカは問題の書かれた紙の面に向き合い始めた。



 リリーシュカが数十分ほどで導き出した解答へ目を通した俺は……有体に言って頭を抱えていた。

 正答率で言えば半分以下で、答えられていた問題も学園の授業で教わる内容ばかり。

 その範囲から外れる生活面や文化、歴史に関してはまるで歯が立たず、解答欄が不毛の大地と化している。


「…………ねえ、ウィル? なんとか言ってくれないと凄く不安になるんだけれど」

「……………………ああ、悪い。俺の予想の斜め上過ぎて言葉を失っていた」

「だから言ったじゃないっ! 私、まともな教育を受けていないって」

「大魔女の直系の割にはって意味だと思ってたんだよ。何度も言うが責める気はない。人間、初めからなにもかも出来るなら練習や鍛錬なんて言葉は存在しないはずだからな」


 一部の天才を除けば誰もが物事を繰り返すことで習得する。

 個人で得意不得意はあるが、根本的なことでなければ不可能はない。


 つまり、リリーシュカも俺の教え方次第で変われるわけだ。


「リリーシュカの頭の出来は悪くない。学園での成績を見る限りいい方だろう。悲観することはない。所詮は知識だ。そのうち身につく」

「……そうだといいけれど」

「少しは自分を信じろ。まともな婚約者になってもらわないと俺が困るんだ」

「そこは嘘でも私のためと言って欲しかったわね」

「自分の望みには正直に生きると決めていてな」


 政略結婚をしたのも、リリーシュカをまともな婚約者に育て上げるのも、俺が何かの間違いで王にされないため。

 手違いかもしれないが、可能性の芽は出来る限り潰しておきたい。


「一安心しているところ悪いが、確かめる項目は他にもあるぞ。ダンス、礼儀作法、テーブルマナー、社交術――貴族ってのは面倒だろう?」

「…………気が遠くなってきたわね」

「参考程度に聞いておくが心得はあるか?」

「礼儀作法とテーブルマナーは一応ね。他はほぼ経験がないわ。……特にダンスの自己評価は悲惨よ。運動能力の低さは自覚しているから……」


 リリーシュカは浮かない顔をしていたが、そんなに不得意なのだろうか。


「ダンスは貴族の嗜みだし、ダンスパーティーも控えている。ちゃんとできるようになるまで付き合ってやるから安心しろ」

「…………お手柔らかにお願い。精一杯頑張るけれど……今から憂鬱ね」


 俺も俺で憂鬱だ。

 ダンスなんて最後に踊ったのは何年前だろう。

 覚えているとは思うが……誰かを頼ることを考えておくべきだな。


 第一候補はレーティアだけど頼むのは気が引ける。

 本人は気にしないと思うが、多忙なレーティアに俺の面倒な事情を押し付けるのは流石に申し訳なく思う。


 ただ……ダンスともなれば身体の接触が必然的に増えるし、礼儀作法も男女で差異があったりするわけで。

 あと、なるべくいろんな人との経験を積んでおいてもらいたい。

 ダンスで踊る相手が俺だけとは限らないからな。


 最悪の場合、クソ親父に頼みに行くことも視野に入れておこう。

 一度引き受けたのだから中途半端に投げ出すのはいい結果に繋がらない。


 やる気のない俺でも知っている数少ない真理だ。


「ひとまず知識教養についてはこのくらいでいいだろう。明日は学園施設を借りてダンスと礼儀作法の確認だ。予定があれば別の日にずらすが……」

「知り合い以上の人があなたとティアしかいない私に予定らしい予定があると思う?」

「そういえばそうだったな。スケジュール管理をしなくていいのは楽だ」

「清々しいまでのセリフね」

「浅い関係の友人なんて数がいても困るだけだ。勝手に取り巻き認定されていたり、裏でなにかあるんじゃないかと妙な憶測が広がるからな」

「王子様は大変ね。それと比べてティアは……本当に凄いのね」


 それについては俺も同感だ。

 魔晶症のことがなければ完璧な公爵令嬢としての人生を送っていたはず。


 比べて俺は……いや、やめよう。

 俺はこれでいいんだ。

 むしろ、下手にやる気なんて出したら困る人がいる。


 やる気なし王子と蔑まれ、笑われるくらいがちょうどいい。


「そうと決まれば今日は早めに寝ておこう。寝不足だとパフォーマンスが下がるし、美容にも悪いんだったか?」

「……あなた、美容を気にしているようには見えないのだけれど」

「レーティアが言ってたのを覚えていただけだ」


 女の髪や肌は命と同義らしい。

 容姿は美しいに越したことはないが、真に大切なのは精神性――なんて言うのは俺の柄じゃないか。





「苦手とは聞いていたが――すまん、ここまでとは思っていなかった」


 学園敷地内にある訓練場の一室。

 そこで見せられたリリーシュカの現状に本心からの苦悩を滲ませつつ呟いた。

 俺の隣では完全に意気消沈したリリーシュカが項垂れながら座っていて、「……だから言ったじゃない、身体を動かすのは苦手だって」と心なしか弱々しい声質で漏らす。


 ああ、確かにリリーシュカは事前に伝えていた。

 だけど……いくらなんでも限度がある。


「どうしてこうなった……? 見た目は完全に糸が切れた操り人形だったぞ」

「……酷い言いようね。信じられないかもしれないけれど、あれが私の全力よ」


 俺が目にしたのは手足の動きがとてつもなくぎこちない、ダンスではなく挙動不審と捉えられかねない奇怪な動作をするリリーシュカの姿だった。

 思わず笑ってしまいそうになったが顔に出さなかった俺を褒めて欲しいとすら思う。

 心境を見透かしたリリーシュカに涙目で睨まれはしたものの、それ以上何も言ってこないあたり、自分がどれだけのものを見せたか理解はしているらしい。


 とはいえ……だ。

 リリーシュカをまともな婚約者に育て上げると約束した手前、問題解決には真剣に取り組むつもりではある。


「歩く、走る、ジャンプと基本動作は問題なかったはず。リズムに乗って両手足を別々に動かすのがダメなのか?」

「……私、音楽は本当にわからないの。リズム感がないから手足の動きもごちゃごちゃになって…………あとは見ての通りよ」


 どうやら原因に自覚はあるらしい。


 ダンスと同じように音楽も上流階級の嗜みとしては珍しくないものだ。

 俺も楽器は一通り習ったし、気が向いた時は部屋で軽く弾いていたりもする。


 貴族が芸術や文化に敏感なのはコミュニケーションに使える道具が多い方が色々と有利に働くことがあるため。

 その経験がないのなら俺が見たリリーシュカの惨状も納得できる。


 ……惨状は流石に失礼か?

 俺としてはリリーシュカを馬鹿にする意図はない。


 最善を尽くした人間を馬鹿にするのは愚者のやること。

 向上心を失わせる要因になるし、誰も得をしない。


 前向きに改善策を考える方が建設的だ。


「こういうのは継続が大事だ。毎日コツコツ練習して少しずつ出来ることを増やせばいい。目下、ダンスを披露する機会は決まってないからな」

「…………」

「そんなに俺をじーっと見てどうしたんだ。言いたいことがあるなら言った方が楽になるぞ」

「……ええと、その。てっきり「なんで出来ないんだ」って怒られるかと思っていたのに、そうじゃない反応ばかりで気が抜けちゃったのよ」

「自分以外の誰かが何かを出来ないことに感情を荒げるのは無駄なことだと思わないか? 怒って出来るようになるなら怒るかもしれないが、今後を考えれば悪手。折角やる気になったやつのやる気を削いでどうする」

「やる気なし王子なのに?」

「俺のやる気がないことに他人は関係ないからな」


 俺にやる気がないのは完全に俺個人の事情によるもの。

 そこに他者の意思や行動が介在する余地はない。


「この分だとダンスに注力した方がよさそうか? 身体を動かす必要があるから覚えるのに時間がかかる。知識だけで繕いやすい礼儀作法やテーブルマナーは……まあ、ダンスパーティーの時は付け焼刃でも仕方ない」

「……そうね。ちゃんと踊れなくてウィルに恥をかかせるなんて嫌だもの。私も自分の酷さを痛感して悔しいから」


 膝の上で握った拳。

 リリーシュカの目に諦めの色はなく、挑戦する意思だけがあった。


 その意気だと思うが……しばらくは俺も付き合う方がいいよな。

 正解を知らないのに独学で練習していたら歪みが生まれかねない。


 当分は時間が潰れることになると考えると面倒だが、どうせ向き合わなければならない面倒事だ。

 解決できるなら早いうちがいい。


「今日の夕食でテーブルマナーを見るか。内容は王国流の一般的なコース。前菜、スープ、メイン、デザート、ティーだな。時と場合によって間に他の料理が挟まったりするが、おおむねこんな感じの順番になる」

「……あの寮ってそんなのも用意してくれるの?」

「王族専用の寮だからな」


 ここでやることは終わったので立ち上がり、


「先に出ているぞ。着替えを済ませるまで待っている。婚約騒ぎに乗じて変な奴が絡みに来ないとも限らないからな」

「心配されるほど弱くないつもりよ」

「知っているさ」


 本当に心配はしていないと示すようにさっさと背を向けて部屋を去ると、少し遅れて後ろをついてくるリリーシュカの足音が聞こえるのだった。

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