キャラクターヘッド
葉島航
第1話
コーヒーを飲み干し、読みかけの本を閉じる。
時刻は午前三時三十分。極力音を出さないよう立ち上がり、寝室を覗く。
妻と幼い息子が寝息を立てている。頭を撫でたいが、起こしてしまってはよくない。
いってきますと唇だけ動かして、私は家を出る。
手に持った車のキーには、昨日妻からもらったキーホルダーが下がっている。鷲のような頭の人間。エジプトの壁画に出てくる図柄だ。
妻は「『トート』って名前で、なんかえらい神様だって。ヒエログリフを生み出した『書記』の神様でもあるから、あなたにぴったりと思って」と言っていた。
無類の本好きで活字中毒の私には、確かにぴったりだった。
私はわずかに、唇をほころばせる。
「朝早くから人使いが荒い」
同僚の佐藤が目をこすりながら現れる。
その眠そうな様子に、私は笑った。
「仕方ない。これも職務のうちだ」
「へいへい。平和のために頑張りますよ」
私はハンドルを握り、佐藤は助手席に乗り込む。
エンジンをかけると、無線が何度かノイズを立てた。
「いまどき、覆面パトカーなんて車種もナンバーも割れている。これに乗る意味あるのかね?」
佐藤の愚痴に、私は「まあまあ」と返すしかない。
アクセルを踏み込むと、車がぬるりと動き出す。
「息子さんは何か月だっけ?」
佐藤がそう聞いてくる。
「もうすぐ一歳」
「お前は早く安全な部署に回されるべきだな」
私と佐藤は、俗に言うマルボウに所属している。と言ってもまだ若手で、重大な任務など任されたことがない。
「言うほど危険はないよ。本当にヤバい案件は、先輩たちが引き受けてくれているだろう?」
私たちの部署には、屈強で強面な先輩たちが揃っている。高校・大学とラガーマンとして活躍した佐藤はともかく、特に武術の心得があるわけでもない細身の私は出る幕がなかった。
「馬鹿言え。権力だ仁義だって争っている連中は、まだいいのさ。一番怖いのは、話の通じないような半グレだ」
「その半グレのアジトを偵察するために、今まさに動いているわけだけどね」
「遠くから観察するだけでいいんだよな? ああ、早く終われ、早く終われ」
「はい、そんな君にプレゼント」
私は佐藤の膝に双眼鏡を放る。
「プレゼントね。はあ、どうしてクリスマスの早朝にこんなことをせねばならんのだ」
「タレコミがあったんだからしょうがない。うまくすれば、取引の現場を押さえられる」
「知ってらあ」
大通りの裏手にあるコインパーキングに、私たちは車を乗り入れた。
うまい具合に、助手席側の窓と監視対象の工場の間に遮蔽物はない。双眼鏡を使えば、敷地内をほぼ見渡すことができた。距離も十分にある。
取引が実際に行われるかどうかも分からない中で、私と佐藤は交代で工場を見張った。
「うっすら日が出てきたぞ。もう今日はないんじゃないか? 帰ろう」
「とりあえず七時までは居ろって言われているだろう」
「げえ、あと二時間近くある」
佐藤が吐く毒にも慣れた。文句ばかりで辟易することもあるが、彼のしゃべりで間がもつのはありがたかった。
「はい交代だ。すまんが、コンビニで用を足してくる。何か欲しいものあるか?」
「ホットコーヒーを頼む」
「了解した」
往復四、五分のところにあるコンビニへと、佐藤は小走りに向かっていった。
私はため息をつき、双眼鏡を構える。
依然動きはない。今回はガセだな、と思った。情報が信用に足るという上層部の判断が間違っていたようだ。
後部のドアが開いた。佐藤が戻って来たにしては早すぎる。財布でも忘れたのだろうか?
双眼鏡から目を離すと、車の周りを大人数が囲い込んでいるのが見えた。
一瞬にして、私の全身を冷や汗が流れ落ちる。
双眼鏡ばかり覗いていたので、彼らの接近に気付かなかったのだ。
明らかにカタギではない。これ見よがしの入れ墨に、ぎらついた装飾品。バットや工具など、武器を携えている者もいる。
バックミラーを見ると、スキンヘッドの男が後部座席に座っていた。
にやにや笑いながら、男は言う。
「おいおっさん。ちょっと外出ろや」
私は身震いした。
工場の中はがらんどうだった。
やはり、工場としての実体はなく、彼らにとっての「たまり場」または「取引場所」であるに違いない。
天井から鎖で吊るされながら、私はそう思った。
それからワンテンポ遅れて、自分はこの後どうなるのだろうかという恐怖がやって来る。
「おっさん、朝早くからえらい嗅ぎまわってくれたみたいやな」
下っ端らしい若者が言う。まだ高校生だろうか。
「テツ、スイングしたれ」
スキンヘッドの指示で、テツと呼ばれた下っ端は金属バットを取り出した。
構える暇もなかった。
私の腹部をフルスイングの鉄棒が打ちすえた。
視界が一瞬、真っ赤に染まった。直後、黒ずんだ液が私の口から噴出する。
衝撃に悶えながら、「朝のコーヒーが出た」と間抜けなことを思った。
私の全身がブランコのように揺れ、ポケットから車のキーが落ちる。それは乾いた音を立てて地面に転がった。
内臓に熱い痛みがじわじわと襲いかかってくる。私は再び嘔吐した。
「うわ、汚ねえな」
テツが怒鳴り声をあげ、私のすねを金属バットで殴った。これも飛び上がらんばかりの痛さだった。
「下手くそか、テツ。あばら狙わんかい。腹打ったら吐くのは当たり前だろうが」
周りから野次が飛ぶ。
腹の痛みは引いてくれなかった。もしかしたら、腹の中にある何かの臓器が、弾けてしまっているのかもしれない。
下半身の感覚が遠くなっている。液体が足をつたうのをうっすら感じた。自分は脱糞している、と思った。
「ワンストライクやぞ。もう一球やってみんかい」
チンピラたちがふざけて野球の応援歌を歌い始める。
テツがバットを構えた。
私はそのまま、三度殴打された。
一度目は左のあばら骨に当たり、私は骨が真っ二つになるのを感じた。
二度目は腰に当たり、麻痺しているのか痛みは感じなかった。
三度目は私の唇を真正面からとらえた。
チンピラたちからもうめき声が上がる。
「あれは痛え」
「膨れ上がって来た」
自分でも、唇がパンパンになっているのが分かる。
「ていうか、腹、黒っ」
誰かが言う。
唇の重みに耐えかねてうつむくと、私の腹が青黒くなっていた。異常が起きていると一目で分かる色だ。
「もうやめとけ。すぐ死ぬぞ」
次の殴打をどこにしようか迷っている様子のテツを、スキンヘッドが止めた。
「次は爪、いっとけ」
「きゃはは」
明らかにラリっている様子の女が、笑いながらテツにナイフを渡した。
別の男が、私の靴を脱がせようとする。
足を動かそうとするが、思うように抵抗できない。声を上げても、膨張した唇が邪魔をして、くぐもった音にしかならなかった。
テツが私の足元にかがみこんだ。彼が何をどうしているのか、私の目からは確認できない。
しばらくの後、鋭い痛みが私のつま先から脊椎を通って脳天まで駆け抜けた。
思わず甲高い悲鳴を発する。
「おー、見事なホイッスルボイス」
やる気のない声が聞こえた気がするが、私にはもうよく分からない。
私は全身をくねらせ、浅い呼吸を繰り返して痛みを散らそうと試みる。
スキンヘッドの声が遠くから聞こえる。
「飽きてきた。途中で気を失われても面白くない。手早くやれ」
テツが、分かりました、と返事をした。
「次は足の指。次は舌。その次は目。後は任せる」
私は全身をがくがくと震わせながら絶叫し、ナイフは不器用に踊り始める。
地面に転がった『書記』の神様は、真っ赤に染まっていた。
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