第4話 明楽君の塩と砂糖
小さな猫の妖が、両の前足を目にあてて、えぐえぐと泣いている姿は、なかなかに庇護欲を掻き立ててくるのものがある。猫好きなら、いてもたってもいられない光景だろう。さっきのウソ泣きとは違って、本当に悲しそうに泣く猫又パンチ君に、小野子爵と明楽君は、明らかに動揺していた。
「ね、猫ちゃん、じゃなかった、パンチ君、泣かないでよ。うちが嫌なら、どこか他のお家にお世話になればいいし」
「風が嫌なら、土の二条家とか、水の三条家なら可愛がってもらえると思うよ。魔力持ちの家が嫌なら、ふーちゃんに喜代水に連れて行ってもらえばいいし」
明楽君も、小野子爵も、猫又を宥めようと必死だ。うーん。私の経験からして、そういう態度に出ると、妖はたいていつけあがるからダメなんだよ。ここは、ばしっと言わないとね。
「パンチ君、いい加減、泣き止もうか。絶対強者さまはお待たせするもんじゃないよ」
瞬間、猫又がぴたりと泣き止んだ。さすがに銀狼サマの影響力は絶大だよ。うひひ。
パンチ君が、恐怖でぼわぼわになった尻尾を両手で抱え、ごくりと唾を飲み込んで、私を見た。
「で、お返事は?」
「はい、若様。この小さい風の魔力持ちのところに行きます」
うん、大変、素直でよろしい。でも、言っとくけど、君の方が明楽君より小さいからね。
いきなり人格ならぬ、猫格が豹変してしまったパンチ君に、小野子爵と明楽君は呆気にとられたようで、視線が私とパンチ君との間を行ったり来たりしている。
「えっと、パンチ君、うちに来てくれるの?」
明楽君が、遠慮がちに尋ねると、小さな猫股が、急に尊大な態度で答えた。
「こっちにいる間、ちょっとだけだぞ」
生意気だな、この猫又は。お世話になるくせに、何で、そんな上から目線なんだよ。ふんぞり返っている偉そうな猫股を抱き上げて、耳元で囁いた。
「パンチ君、明楽君は、私の親友だってこと忘れないでね。それと、私の後ろの存在、分かっているよね?」
「若様の親友様、お世話になりまーす。よろしくお願いしまーす」
私の腕の中で、パンチ君が直角に体を曲げて明楽君に頭を下げた。ころころと態度を変える猫又に、小野子爵と明楽君は、気を悪くすることもなく、ニコニコしていた。いやいや、何で、そんなに嬉しそうな顔になるかな。小野家は、ブレない猫好きだね。
「うん、こちらこそ、よろしくね」
明楽君が、嬉しそうに手を差し出すと、パンチ君が、「けっ」と言って、また、顔をつーんと背けた。この子は、学習しない妖なの?そういう態度なら、私だって、最終兵器を出すからね。そのまま、猫又を抱いた腕を明楽君ではなく、牧田が立っている方向に差し出した。
「あっ、猫ちゃんが」
「気絶しちゃった」
パタリと倒れた猫又に、小野家の二人は取り乱したが、これは、教育的指導だよ。妖は、小さくても、人間よりは、はるかにタフに出来ているからね。猫又だったら、その爪や牙は小さくても、人間を十分に傷つけることもできる。小野家で悪さされたり、明楽君に酷い態度を取られたら大変だ。
「牧田、大丈夫かな?」
「小さな式を出してもらえますか。それで監視して、何かあれば、すぐに駆けつけることができるように」
なるほど。さすがは、牧田だよ。
「じゃあ、わんころ、出て来い」
ぴょんっと、銀色の子狼が宙返りして出て来た。最近のわんころは、以前のぽちゃ柴ではなく、完全に牧田忖度仕様になっている。父様たちには、かなり評判が悪いが、牧田本人は、気に入ってくれているので、今後もこれで行くよ。それに、この銀の毛皮が、猫又には良い脅しになるはずだ。
「あうんっ!」
銀色に輝く子狼が、きちんとお座りをして、小野子爵と明楽君に挨拶をした。ぱたぱたと尻尾を振って、良い子アピールも欠かさない。どうよ、この愛らしさ。これは、猫派の二人にも刺さるんじゃないの。
「ふーちゃん、何、この子?」
あら?明楽君の反応が、ちょっと予想と違うような。明楽君、結構、冷静だな。
「スパイわんころだよ。この子の目を通して、猫又の様子を監視するから。生意気な態度を取ったり、反抗的だったり、悪さをするようだったら、直ぐにうちに引き戻すね」
「ふーちゃん、猫ちゃんは、だいたい、生意気で反抗的で悪戯好きな生き物だよ」
小野子爵が、そう言いながら気絶した猫股を愛おしそうに見て、私から受け取った。明楽君も、うんうんと頷いて、嬉しそうに、小野子爵の腕の中にいる猫又を覗き込んでいる。いやいや、そこの猫派の御二人、その寛容さは、野良の妖には絶対にダメな態度だから。助長するだけだよ。あと、その子は、猫じゃなくて、猫又なんだってば。
「小野子爵、その子は、猫じゃなくて、妖だってことは忘れないでくださいね」
「うん。大丈夫だよ。うちには、父も母もいるし。特に母は、この手の生き物には強いからね」
篤子お婆様か。小野子爵の母君で、明楽君の祖母でもある篤子お婆様は、元々は、風の南条侯爵家の出身の魔力持ちだ。嘉承の側近の家の血を引くだけあって、篤子お婆様の魔力は、今でも強い。多分、小野家の中で一番大きな魔力量を保有しておられるんじゃないかな。明楽君は、自分の魔力以外に、まだ実父の故・鷹邑卿の魔力を持っているので、実は、魔力保有量が、篤子お婆様並みにあったりするんだけど、生まれる前にもらった魔力なので、本人曰く、馴染み過ぎているせいか、自分の魔力との区別がつかないそうだ。
明楽君の実母の速水の大姫は、水の魔力持ちで、彼女の血の影響のせいか、明楽君本人の魔力は、微妙に鷹邑卿の魔力と色が異なるんだよ。鷹邑卿の魔力は、峰守お爺様と小野子爵と二の君の良真卿の魔力と、全く同じ色で、魔力だけ視ると区別がつかない。鷹邑卿の魔力は、明楽君を守るように覆っているので、明楽君も、上面だけだと、皆と同じ魔力に見えるんだけど、時間が経つにつれて、鷹邑卿の魔力は消えていくから、明楽君本人の魔力が出て来るはずだ。つまり、遅かれ早かれ、明楽君は、小野一族の中では毛色の違う子になってしまう。
それが歴代の小野の中でも群を抜く戦略家と言われた峰守お爺様が、明楽君を連れて、わざわざ妻の実家の敷地に家を建て、私の側近に仕立て上げようとしている理由の一つだ。毛色の違いランキングなら、帝国で、私が一番になるはずだからね。嘉承も瑞祥も二属性の家だから、嘉瑞山では、魔力の色が多少変わっていたとしても、気に留める人なんか誰もいない。それ以外の小野家の理由は、大人の事情。政治的な思惑ってやつだ。
「ああ、小野には、南条の姫がいらっしゃいましたね。こんな小物には、過剰戦力ですが、確かに安心です」
牧田がそう言うなら、問題ないのかな。それに小野は【風壁】の守りで知られた家だしね。でも、念のため、わんころは一緒に連れて帰ってもらうよ。
「明楽君、わんころも一緒に連れてってね」
「あうんっ!」
小さくて良い子のわんころが明楽君にご挨拶をした。
「いいけど、猫ちゃんに酷いことをしたら、すぐに出てってもらうからね」
・・・まさかの塩対応。我ながら、銀のわんころは、なかなか愛らしく仕上がったと思うんだけど、ガチガチの猫派の心には響かなかったようだ。
「じゃあ、僕たちは、もう帰るね。ふーちゃん、真護君、また学校でね。牧田さん、ありがとうございました」
明楽君は、いつも帰り際には、お茶やお菓子を持って来てくれる牧田に、ぺこりと頭を下げてから帰るので、この礼儀正しさも牧田に気に入られているポイントなんだけど、牧田いわく、「猫派」は許容できないらしい。
「じゃあ、犬君、ついて来て」
「あぅ・・・」
自慢の三角の耳ともふもふの尻尾が、へにょりと垂れてしまった銀のわんころが、とぼとぼと明楽君と小野子爵の後をついて行った。その切ない姿を、犬派の真護は、しょっぱい顔で見送っていた。
「ふーちゃん、小野家には、にゃんころの方が良かったんじゃないの?」
「そうですね、若様の猫は、風ですし」
真護と牧田は、そう言うけど、にゃんころで対応できることは、小野一族でも出来るだろうからね。あの猫又に釘をさすには、銀の子狼仕様の火のわんころの方がいいかと思ったんだよ。
「人選ミスだったのかなぁ」
三人で小野家の車を玄関で見送りながら、ちょっとだけ反省してみた。
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