プロビデンスの目

エテルナ(旧おむすびころりん丸)

プロビデンスの目

「はぁ……」気が付けばまた一つ溜め息を吐いていた。

 いつものようにデスクに着いたものの、まったく仕事が手に付かない。

 いったい何度吐き出せば、心に留まる闇は晴れてくれるのだろう。



 私、七原ルルはつい先日、家族の全てを失った。

 母は幼い頃に他界しており、仕事で家を空けがちな父は、私が寂しくないようにと、一匹の仔犬を家に迎えた。

 犬の名はハルにした。SF好きな父は、いつか裏切られるぞと冗談を言ったが、ハルにそのような表裏は一分もなく素直で、そして限りなく優しかった。

 幼い私にとってハルは親代わりであり、だけで過ごす夜も多かった。

 ハルは私の心を埋めてはくれたが、コミュニケーションの上達はめっきりだったので、より内向的な性格となった。

 話し下手な私にはこれといった友達もできず、寂莫とした学生生活が続き、気が付けば就職まで進んでいた。

 仕事先は片道一時間半も掛かる。父は一人暮らしを勧めてくれたが、家にはハルがいるし、父にまともな家事ができるとは思えなかったので、往復三時間かけて会社に通った。


 社会人三年目の秋のこと、急性心不全で父が亡くなった。

 悲しむ暇もなく、淡々と物事が進み、葬式を終えて家に帰ると、老いたハルが父の部屋の前で伏せていた。

 父の帰りを待っているのか、はたまた上天に気付いているのか。

 瞬間、目頭がじんわりと熱くなるが、ハルの萎れた毛並みを撫でる内に、自然と心は落ち着いた。

 しかし改まることで、かえって目の前のハルが浮き彫り見えてくる。昔は両手いっぱいで抱いていたハルが、今ではこんなにもか細く弱々しい。

 いずれ近い内に……不穏が頭を過るが、しかしいずれ間もないハルの天寿は急逝した父より以前に既知のこと。

 永遠がないことなど分かってる。理性はハルとのお別れを知っている。


 父を亡くして十日目。

 帰宅した私が玄関の戸を開けると、黒い塊が眼下に映った。

 それは暗がりの廊下、冷たい床の上でひっそりと、静かに横たわるハルだった。

 ここ最近はじっと毛布から動かなかったハルが、力を振り絞りここまで来て、願い叶わぬままに息絶えたのだ。

 永遠がないことなど分かってた。理性はハルとのお別れを知っていた。しかし……

 母の死に目は覚えていない。父は突然に逝った。そしてハルは最後まで踏み止まったが、私と相まみえることなく尽き果てた。

 私は誰一人看取ることもできず、遺言を賜ることもない。想いは胸裡に留り、未来永劫、通わぬまま。

 全ての繋がりが途切れたことを悟った私は、私を動かす原動力からも切り離され、操り人形のようにくずおれた。

「お母さん、お父さん、ハル……」



 また一つ溜め息を吐くと、ふいに私の背に手が伸びた。

「大丈夫?」背中を擦ってくれたのは隣席のルカ。テキパキと仕事をこなすが寡黙な同僚。

 もっとも、私から話しにいかないだけで、根はどうだか知らないが。

「ルルさん、今日はお休みしたらどうかしら?」目尻を下げるルカはいかにも心配といった顔を私に向ける。

「でも……」沈んだ目線を上げると、デスクに齧りつく同僚たちの頭がずらりと並ぶのが目に入る。「皆の迷惑になるよ」

 ついこの間、父の急死で忌引きしたばかりなのだ。おまけに私の会社はペット忌引きというものがない。

 有給はあるけれど、当日に願い出るのはいかがなものだろう。申し出るべきか逡巡する私にルカは頭を振る。「仕事のことは気にしないで。私が二倍がんばっちゃう!」そう、臆面もなく言ってのけた。

 堅物だと思っていたのに、なんと逞しい。そのうえ人に分けられるほどの優しさを持っている。

 ルカから迸る後光を浴びることで、胸裡から改悛の念が沸き上がる。

「私って弱いね。立ち直れる気がしないよ」

「ルルさん、決してそんなことは――」

「そんなことあるよ」ルカの言葉に被せるように、袖を捲る私は左の手首を露わにする。「私、耐えられなくて……」

 べたべたと貼られる朱に滲む絆創膏。目の当たりにしたルカの目は大きく見開かれる。

「あはは……」何も面白くないことなど分かってる。けど笑わずにはいられなかった。「私の繋がりは全て切れてしまった。あとはこれを断ってしまえばお終いなのに」

 自嘲する私に微笑みを返すルカは、唐突に私の手を取ると、両手で優しく包み込んだ。

「ねぇ」語調はゆったりと、湛える笑みに嘲る素振りはまったくない。「繋がりは切れたりしないよ、絶対に」

「ルカさん……」ルカから伝わる温もりが、私に失ったはずの繋がりを思い出させる。

「ルルさんの心には、皆の想いが残っているでしょう?」

「それは、そうだけど……」しかし皆の死に目に、想いを授かることも、贈ることも叶わなかったんだ。

「それなら、皆の気持ちも分かるはず。分かるなら、心は未だに通じてる。別れ方は関係ないのよ」

 視線を外し、窓に目を向けるルカは続ける。「ご両親は今のルルさんを見たらきっと悲しむ。ハル君は必ずルルさんの幸せを願ってる」

 うん、きっとそう。私の想う皆の願いはきっとそう。

「ご両親はいつまでも、天国であなたのことを待ってる」

 朧げだった母の笑顔が明瞭に浮かぶ。私を気遣う父の顔、ぐっと唇を噛みしめる仕種、息遣いまでもが、脳裏にありありと浮かんでくる。

「ハル君も、虹の橋のふもとで、あなたをずっと待ってる」

 体を躍動させて喜ぶハル。元気だったころのウォンウォンという鳴き声が、魂の声がはっきりと聞こえる。

 ルカの言葉はありきたりかもしれない。これらは幻かもしれない。

 しかし真実の姿と変わりない。今だけは本当だと信じたい。

 その裏付けが欲しくて、縋るようにルカの横顔に目を遣ると、憐憫とした様子もなく活き活きと精彩を放つ姿がそこにあり、それが奇妙な信憑性を帯びていて、単なる慰めであることを忘れさせ、遂には私を覆う分厚い殻を貫き通し、一条の光が心の底に差し込んだ――


「ずっと? いつまでも? そんなに待てねぇよ」


 刺々しい声が降り注ぎ、胸中は針の筵へと変わり果てる。

「ったく……」振り向くと同僚の針木はりきが、怒気を露わに見下ろしていた。「父親の時は黙ってやったが、次は犬っころだと? いい加減にしてくれよ!」

「ハ、ハルは……ハルは……」

 ハルは犬ころじゃない。ハルは家族だ。少なくとも針木、血の通わぬあなたよりはよほど人間らしい。

 だというのに私は、それすらも言葉にできない、出せない。針木の圧に押され、ハルの名誉さえ守れない。

「おまけにルカまで」矛先は弱小の私からルカに向けられる。「虹の橋? 天国? 少しは仕事のできる奴だと思ったが、がっかりだぜ。神やら魂やら、んなもんある訳ねぇだろう! 科学的に考えてよ!」

 怒声が轟き、通夜のような沈黙が職場を包むが、私の胸裡ではガラガラと轟音を立てている。

 針木のルカへの暴言は、私へのそれより、深く心を傷付けた。

 天国はなく、虹の橋も存在しない。私を支える拠り所が崩れ去れば、どうやって立てばいいのだ。

 引き上げてくれる手はもういない。生きたところで、死んだとしても、私は永久に一人ぼっちなのだから――


「科学的に考えて……ねぇ?」


 その妖しげな声がルカのものだと分かったのは、続く言葉が間違いなく、ルカの口から発せられていたのを目の当たりにしたからだった。「この世界が現実である可能性は数億分の一である」

 針木はぽかんと口を開け、今の私を鏡に写したような顔をしている。

「いま現実に思えるこの世界は、実は仮想世界かもしれない。そういうことよ」

 先までの神々しさから一変し、ルカの相貌には不気味な笑みを浮かぶ。

「何をいきなり」針木は言う。「そんな馬鹿げたこと、ある訳ねぇだろ」

 針木と被るなど悔しいが、こればかりは私とて信じ難い。しかし豹変したルカが唯一かわらない点、それは未だに妙な信憑性を感じるということだ。

「現にメタバースがあるじゃない。今はまだゲーム程度の代物だけど、究極まで発達したメタバースは、現実そっくりの世界を生み出すことも可能では?」

 メタバース、インターネット上に構築される仮想空間。確か数年後には、何百兆円とかの市場規模になるとかどうとか……

「天国も虹の橋も、仮想空間なら生み出せる。天国というサーバを作り、魂というデータを送って、管理者という神が保管する。そのような世界がいずれ作れるならば、逆説的に今の私たちの世界が仮想空間でないと言い切れる?」

 そんな、そんなことって……

 ならば両親もハルも、悩める私も全てデータということ?

 冗談じゃない! 冗談じゃないけど……

 もし本当にそうならば、私はデータであるがゆえに、天国に行け、家族と再会し、救われることができるのだ。

「科学的にある訳ない、ではなく、科学的に言えば無いとは言い切れない――そう言えるんじゃないかしら? ならば天国も虹の橋も否定できず、つまり……」

「だから何だよ! くだらねぇ話だ——」

 聞く耳持たぬといった針木だが、そんな針木の右耳は――


 窓から飛来した隕石が、頭ごと撃ち抜き吹き飛ばした。


「天罰だって、あるかもねぇ」

 飛び散る鮮血に濡れる私。しかしルカといえば、緑色のワイヤーフレームとなって首から迸る噴血を透過する。

 まるでゲームのように、悪戯な笑みを浮かべるルカは……管理者。

 私は救われた。しかし神の恩寵には気付けないというのがこの世の決まり。

 次の瞬間には壊れた職場も、針木も救いもルカの正体も、綺麗さっぱり忘れてしまっているのだろう。

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