ラストソング
口羽龍
1
ここは北海道のオホーツク海の沿岸にある小さな集落、空別(そらべつ)。空別は小さな漁港の町だ。ここで獲れる海の幸は特上品で、インターネットで大人気だという。だが、ここの人口は年々少なくなっていき、現在では100人を下回った。かつては地元の漁師がほとんどだったが、ここ最近は集落外の漁師が多い。
空別の春は遅い。まだ雪が積もっていて、なかなか解けない。時々、粉雪が降り、春はまだまだ遠い事を実感させる。そんな厳しい自然よりも、豊かな生活を求めて人々は都会に行く。そして、空別は寂れていく。
そんな空別を、1台の銀のベンツが走っている。運転しているのは本吉和孝(もとよしかずたか)。この空別が生んだ世界的に有名なピアニストだ。小学校を卒業して、東京に行ったっきり、全く帰ってきていない。
「ここが空別の集落だよ」
和孝の横にいるのは、メアリー。和孝の妻で、アメリカ人だ。
「ここが、故郷なの?」
メアリーは信じられない表情で見ている。こんな田舎で生まれ育ったとは。ここで生活していた頃は、どんな状況だったんだろう。
「うん」
和孝は昔を懐かしみつつ走っていた。だが、あの時に比べて民家の数が少なくなっていて、その中には廃屋も目立っている。あの時と比べると、人口は減っていると聞いている。その影響に違いない。こんなに寂しくなってしまうとは。
和孝の車はその中心にある道の駅にやって来た。その周りには塀がある。建物はまるで小学校のようだ。
「着いたぞ!」
和孝とメアリーは車から出た。メアリーは寒さで身が震えた。父から聞いたが、こんなに寒いとは。
「ここに空別小学校があったの?」
「ああ。この建物がそうなんだよ」
この道の駅はかつて、空別小学校だった。空別小学校は和孝の母校で、思い出の場所だ。だが、和孝の卒業とともに、その歴史に幕を閉じた。現在は道の駅として再利用されている。
「この辺りには多くの家屋があって、とても賑やかだったんだよ」
和孝は昔を思い出しながら、卒業が迫った日々の事を思い出した。今でもその事を思い出す。そして、いつか絶対に帰ろうと思っていた。
それは、卒業が迫った日の事だった。和孝は空別小学校のたった1人の6年生だ。空別小学校は明治時代に開校した。最盛期には数百人の生徒がいたそうだが、空別の過疎化と共にその数を減らしていき、現在はたった3人だけだ。そんな学校も、今年度限りで閉校になる。和孝は、そんな空別小学校の最後の卒業生になろうとしている。
和孝はピアノの天才だ。小学生ながらかなりの実力を持ち、日本のみならず、世界から注目を集めている。そして、そのピアノの実力を上げるために、小学校の卒業と共に東京に引っ越す事になった。故郷を離れるのは寂しいけれど、ピアノの腕を上げるためだ。後悔はない。東京で大きくなって、豊かな生活を送るんだ。
「いよいよあと少しで卒業式だね」
実家の部屋にいる和孝は振り向いた。そこには母、徳子(とくこ)がいる。徳子は専業主婦で、エプロンを付けている。
「うん」
和孝は寂しそうな表情だ。小学校を卒業するのは寂しい。それに、自分の卒業を最後に小学校が消えてしまうのも寂しい。
「色々あったけど、もうすぐお別れだね」
「寂しいけれど、成長するためには大事な事なんだね」
だが、和孝の意志は固い。いつか、世界的に有名になり、故郷に錦を飾るんだ。それが、僕を育ててくれた両親への恩返しだ。
「僕、もうすぐ東京に行くけど、いつか有名なピアニストになってくるんだ!」
「期待してるわよ!」
徳子は笑顔を見せた。ピアニストになろうとしている和孝を誇らしげに見ている。この子はいつか、この町が生んだ偉人になるかもしれない。
「世界的に有名になってみせるよ!」
和孝も笑顔を見せていた。もうすぐ東京に行ってしまうけど、ここから僕の活躍を見ていてね。
「そうね。だって、和ちゃんは誰もが認める期待の星だもん」
「ありがとう」
徳子は部屋から出て行った。和孝は外を見ている。窓の向こうには漁港がある。今日も父、重幸(しげゆき)は漁に出ていて、なかなか帰ってこない。こうして漁港の様子を見るのも、もうすぐ見納めだ。東京に行けば、そんな風景が見られない。見えるのは、立ち並ぶ家々やマンション、そしてビルぐらいだ。この風景をしっかりと目に留めておかないと。
卒業が迫ったある日の放課後、和孝は音楽室にいた。ここの音楽室は普通の小学校並みの大きさだ。昔はもっと多くの椅子があったのだろう。だが、生徒数の減少によって椅子の数は減り、今では数席だけだ。椅子の数がとても少ない。
「じゃあねー」
突然、誰かが入ってきた。たった1人の4年生、高木だ。年上の和孝をとても尊敬していて、よく家に遊びに来た。だけど、あと少しでお別れだ。
「バイバーイ」
和孝は手を振った。高木は扉を閉めて、学校を出て行った。音楽室にいるのは、和孝だけだ。和孝は辺りを見渡した。壁には、有名な音楽家の写真が飾られている。自分もこんな風に写真が残るぐらいに努力しないと。
和孝はピアノの椅子に座り、ふたを開けた。ピアノを弾くようだ。もうすぐこのピアノを弾く事も出来なくなる。放課後になると、よくピアノを弾いて楽しんだ。そして、みんなに拍手を送られた。東京に行ったら、もっと多くの人に拍手されるだろうな。楽しみだな。
「ねぇ?」
突然、誰かの声が聞こえた。和孝は辺りを見渡した。すると、左にオバケがいる。オバケはハンサムな顔をしている。
「えっ、オバケ?」
和孝は驚いた。まさか、ここにオバケがいるとは。だが、悪さをしないオバケのようだ。とてもかわいい見た目をしている。
「うん」
「ピアノ、好きなの?」
オバケはピアノをじっと見ている。ピアノに興味があるようだ。このオバケもピアノに興味があるんだろうか? ピアノを弾けるんだろうか?
「うん。それに、得意なんだ」
「ふーん」
オバケはそんな和孝の夢を聞いて、嬉しそうだ。夢を持つって、素晴らしいな。目標を持って、成長する力になる。
「僕、世界的な有名なピアニストになりたいんだ!」
「そうなんだ」
それを聞いて、オバケは何かを考えた。ピアニストという言葉に反応したようだ。
「ど、どうしたの?」
「僕も世界的に有名なピアニストになるのが夢だったんだ」
まさか、このオバケにそんな過去があったとは。ピアニストになりたかった人のオバケだとは。だからこの音楽室に現れるんだな。
「本当?」
「うん。だけど僕、乗っていた船が沈んじゃって、死んじゃったんだ」
船が沈没と聞いて、和孝はある事を思い出した。青函トンネルができる前、JRが国鉄の頃から青函連絡船を運航していたという。
「えっ、その船、何という船?」
「洞爺丸」
和孝は驚いた。洞爺丸の話は聞いた事がある。昭和29年に起こった遭難事故だ。洞爺丸の他に、4隻の連絡船が沈没・転覆したという。この事故がきっかけで、青函トンネルの建設が始まったと言われている。まさか、その犠牲者だったとは。
「それ、おばあちゃんから聞いた事ある。まさか、その事故の犠牲者だとは」
和孝は、おととし亡くなった祖母からその話を聞いた事があるし、度々先生から聞いた事がある。
「あと少しで夢に向かっての第一歩を踏み出せると思ったのに」
オバケは泣いていた。世界的に有名なピアニストになりたかったのに、志半ばで不幸な事故で死んじゃった。
「辛いよね」
和孝は、オバケの頭を撫でた。大丈夫大丈夫。僕がその夢を引き継ぐから、泣かないで。
「だから僕、ここに来て昔に思いをはせてるんだ」
「そっか」
オバケは辺りを見渡し、何かを考えている。この風景が恋しいんだろうか? もうすぐ閉校になるのが残念だと思っているんだろうか?
「でも、この小学校、閉校になるんだよね」
「うん。閉校になるんだよ。僕、この小学校の最後の卒業生なんだ」
和孝もオバケも寂しそうだ。もうこの学校は今月でなくなってしまう。人々の思い出の中でしか存在しなくなってしまう。
「本当に?」
オバケは驚いた。まさか、最後の卒業生に会えるとは。最後の卒業生となる和孝は、どんな気持ちだろうか?
「うん」
「卒業したら、僕、東京に行くんだ」
まさか、東京に行くとは。僕も東京に憧れた。東京でたくさん学んで、ピアニストになって、世界的に有名になるんだ。だけど、叶わなかった。
「どうして?」
「名門中学校に進学するんだ。そこで、世界的な有名なピアニストになるための勉強をするんだ」
オバケは生きていた頃を思い出した。僕も憧れた。東京の名門学校に進み、そして、世界的に有名なピアニストになる。
「そうなんだ。頑張ってね!」
「うん」
オバケは両手で和孝の手を握った。ひんやりとしているのに、寒さを感じない。どうしてだろう。
「ここから応援してるよ!」
オバケに応援された。和孝はとても嬉しくなった。このオバケのためにも、必ず世界的に有名なピアニストになる!
「そうだ、せっかくだから、君の演奏、聞かせてよ」
和孝はオバケに席を譲った。それを見て、オバケは椅子に座った。
「いいよ」
オバケはピアノを弾き始めた。ショパンの『別れの曲』だ。もうすぐ卒業、そして閉校だ。今にふさわしい。和孝はオバケの弾くピアノの美しい音色に聞き入っている。ここが小さな小学校の音楽室なのに、まるでコンサートホールにいるようだ。素晴らしいな。
弾き終わった時、和孝は目を閉じていた。思わずうっとりしているようだ。
「素敵だね。思わずうっとりしちゃった」
「ありがとう。生きているうちにこれをプロで聞かせる事ができなくて、悔しいよ」
この子はもう人前で聞けなくなってしまった。だからその分、僕が頑張ろう。
「その気持ち、わかる! だから、僕が君の分も頑張ってみせるよ!」
「本当? 本当にありがとう! じゃあ、僕からも約束だよ!」
和孝は驚いた。そんな約束だろう。とても気になるな。
「どんな約束?」
「世界的に有名なピアニストになったら、またここに来てよ! そして、また会いたいな!」
その時、和孝の脳裏に、ある合唱曲が目に浮かんだ。『故郷』だ。その歌の3番に、こんな歌詞がある。
志を果たしていつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷
この約束は、まさにこの歌詞そのものだ。この約束を叶えるために、必ず世界的に有名なピアニストになってやる!
「いいよ! 絶対にここに帰ってくるから!」
和孝はオバケと指切りげんまんをした。この日は絶対に忘れない。必ず帰るんだ。
「ありがとう! 待ってるよ!」
「うん!」
そう言うと、オバケは消えていった。音楽室は再び静かになった。外を見ると、もう昼時だ。そろそろ家に帰ろう。母が昼食を作って待っているだろう。
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