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夏虫光希

CLOUD9の後から

 ある日の朝だった。

「お父さんは旅に出なくちゃならない」

 開口一番、ハルに向かって父親はそう告げた。

 天気の良い日だった。どこからかやってきたのか外では鳥が鳴いていて、それから、雲の一つも無い快晴日和だった。

 穏やかでなかったのは、ハルの心中だけだった。

 ハルは言葉を探した。何かかける言葉はなかったか。いってらっしゃい、などと気の利いた返事でもすればよかったのだろうか。けれどそうした思考の移ろいがあって、結局出たのは、「どうして?」というただの問いかけだけ。

「少し、野暮用でね。いつ帰ってこれるか、分かったもんじゃないよ……」

 頬を掻きながら父親は答える。髭を生やした野暮ったい顔は、少しだけ苦笑いしていた。

「私も行くよ。だって、お父さんは一人じゃ何もできないから…」

「まだ早いさ。ハルは、お母さんの心配だけしていなさい」

 父親は、いつもハルを子ども扱いする。いつも、そう言って言葉をあやふやにする。

 ハルの脳裏にはある不安が過ぎった。確証もなければ、ただの憶測でしかない不安。けれどハルのその憶測は、一瞬で脳内を埋め尽くすに足る大事である。

「お父さん。絶対に、帰ってくるよね?」

「……。もちろんだとも。約束する」

 その顔は、辛そうだった。罪悪感と、何か後ろめたい気持ちがあるような、顔。ハルは、父親がその家を去るのを見ていた。送る言葉は無く、送られる言葉も遂には無いままだった。そしてそれが、彼女が見る父親の最後の姿となる。


 それから長い時間が経った。長い長い時間だった。


 ―

 ――

 ―――

 ――――


 廃墟の街を、一体の機械が歩いていた。全長はおおよそにして4m程。虫と思しき脚部と人間の上半身をくっつけたような奇妙な外観を持ちながら、その全身を鋼鉄の装甲で覆っている。かつて帝国において自立無人兵器として運用されていた機体である。戦場の第一線を戦った過去を持ちながら、今の時代まで稼働し続ける稀有な個体。最もその姿は、過去にあったであろう幾度もの戦闘の果てに大きく破損しており、今の今まで機能停止に陥っていないのが不思議なくらいであった。

 虫の形の背には、多くの荷物と共に、一人の少女が乗っかっていた。

「疲れたよ。オートマトン」

 拾い物の軍服を身に纏う少女はそう呟いた。名をハルという。個体名をオートマトンと呼称する無人兵器と行動を共にする、この世界の数少ない生き残りだ。

「搭乗者に身体的な疲労は見られません」

「精神的に疲れたの。ずっと行っても何も無いし、お尻も痛いし」

「理解不能。より正確な返答を要求します」

 高架線の上から見える景色は全てが灰色に覆われている。どこまでも朽ちたコンクリートのビルと積乱雲に覆われた空が続いていて、彼女の言う“物珍しい出来事”というのには出会えそうもない。ハルとオートマトンが数日前にと呼ばれる街の首都圏に入ってからは、概ねそうした景色ばかりが続いていた。

「昔は、この国で一番人が住んでた場所なんでしょ?」

「はい。かつての帝国において東京を上回る人口の都市は存在しません。周辺の領域も含めれば、その規模は更に拡大されます」

 東京。かつては帝国において最大の規模を持つ都市であった。摩天楼がどこまでも立ち並ぶ、神の住む都。夜も眠らず、それ自体が生命と呼べる程に活気のあった街だ。遠国との戦争が起きオートマトンなどを初めとした自立無人兵器が投入されるまでは、少なくともそうだった。

「……。でも、やっぱり、ここにも誰もいないんだね」

「…………。」

「ねえ、オートマトン、人間に出会った事ってある?」

「データの破損による初期化が行われて以来、活動時間の中で人間を観測した記録はマスターのみです。それ以外は……弊機のような、無人兵器との戦闘ログしか残されていません」

「……。要するに、いないって事?」

「あくまでも確認されていないというだけに過ぎません」

「どっちも同じでしょ……。まあ、そっか」

 この世界に人がいなくなってから、どれほどの月日が巡ったのであろうか。正確な記録が残されていない今では、推定するしかないが、それとて大して短い時間でないことくらいは、ハルにだってわかる。

「マスターは、人間に出会った事はないのですか」

「あるよ。あった」

 ハルも、人間と関わった機会が無いわけではない。彼女にとってのそれは両親に当たる。ハルが初めて目覚めた時からその2人はずっと側にいた。最もそれはというだけに過ぎず、その日から長い年が経った今、その行動は共にしていない。

 ハルの父親は旅に出ると言ったきりで帰ってこなかったし、母親はそれから程なくして病気で亡くなった。

「お母さんは死んじゃったし、お父さんはどこかに行っちゃった」

「死んでしまったのですか」

「うん。でも悲しくはなさそうだった。死んじゃえば何も残らないのにね」

 結局は、置いていかれたのだ。ハルの手の届かない遠くへ。子供だったからという理由で、いつも。

 母親は、病に罹っても平気でいられるくらい健康な人間ではなかった。

 父親がどこへ行ったのかは誰も知らない。優しい人間だったから、きっと何か理由があったのだ。決して、ハルと母親の2人を置いていったのではなかったはずだ。ならばどのような理由があったのだろう。

「まだ早い、かぁ。……。よく言うよね。ちゃんとした理由なんてないのに、いつもそればっかりで。……大人って、なんで嘘ばっかりつくんだろ」

 オートマトンは何も言わない。独り言だと判断していた。

 線路を頼りに、黙々と歩を進めている。その脚が、唐突に止まった。

「……。あ、」

 これ以上進めない場所まで来ていた。高架線を続く道が途切れている。

「この先は通れそうにありません」

 橋は崩壊していた。高架を支える橋脚が折れて横に倒れてしまったらしい。向こう側へ渡る事は叶いそうにない。

「うーん……参ったね。向こう側へは…………渡れないしなぁ」

 ならば降りるという話になるが、これもどうにも難しい。倒れた分だけ地表までの距離は縮まっていたが、それとてビルの二階に相当する高さはある。着地に失敗すれば怪我をする可能性があった。

「降りれそう?」

「可能です」

「……。冗談じゃないよね?」

「弊機は冗談を言いません。安全確保の為、機体に掴まっていてください」

 オートマトンは六脚を動かし、機体の重心を下げて踏み込む。ハルは咄嗟に荷物を縛る紐にしがみついた。

 ──跳躍。何tにも及ぶ重量の機体が宙へと躍り出る。

 その体躯は重力に従い落ちていき、高架下へと着地した。六脚を折り曲げて衝撃を受け流したからか、ハルや積んでいた荷物にはほとんど何ともない。

「いてて……」

「問題はありませんか」

「急に跳ぶなんて聞いてなかった」

「失礼」

 ハルはぶつけた額をさすりながら顔を上げた。どこにでもある普通の街。どこまでもコンクリートの建物とアスファルトの地面が続く普通の街。最もそのほとんどは過去にあった地震の影響なのか、どこかひび割れていたり歪んでいたりした。アスファルトの地面に至っては、そこら中にひび割れた中に雑草が生えている有様だ。人間の手を離れれば、すぐに朽ちていく。

 どこか凍える風が吹いて、ハルの外套を揺らした。

「……。随分、寒くなってきたね」

「日差しがしばらく当たっていませんから」

 ハルは上空を見る。空を覆って晴れない雲。夏の初めにも関わらずどこか薄ら寒いのは、きっと積乱雲のせいだ。ついでに言えば、この時期は丁度梅雨に入りかけた頃でもあった。

 空を向けたハルの顔に、ぽつぽつと冷たい感触があった。指先でその感触があった場所を触る。

「雨、だ」

「そのようですね」

 噂をすれば、というわけである。良い状況ではない。空は暗くなっていたし、そうでなかったとしても雨が降れば気温は更に下がる。

「そろそろ野営の準備をしなきゃ」

 雨風を凌げる場所が必要だった。ハルは辺りをざっと見渡して、高架下なら雨風も凌げると判断する。なるべく浸水しない場所を選んで、オートマトンをそこに誘導した。

「高さは大丈夫だよね。ここまで水が来ると面倒だから、なるべく舗装もしっかりしてるところがいいけど」

「ならばここはどうでしょう」

「おーけー。……。だいたいその位置で」

 ハルが言った位置に行って、オートマトンは六脚を折り曲げて器用に座った。

 ハルは軽快な動作でオートマトンから降りた。数時間振りに立つ脚はどこかぎこちなく降りたときの衝撃で転びそうになったが、ともあれ。ずっと座りっぱなしで痛い体を動かして、背中に括りつけられた荷物を降ろしていった。荷袋、折り畳まれた幌、燃料タンク……それからなんの用途に使うのか分からない支柱やら、用途の不明な箱型の機械やら、どう贔屓目に見てもガラクタとしか思えない道具も中にはある。

 一通り必要な道具を降ろし終わった後に、ハルは支柱を軸に幌を張っていく。

 三分ほどかけて出来上がったのは、風を凌ぐ為の簡易的なオープンテントだ。そうして作ったテントの中に、荷袋や鞄が運び込んでいく。

「げ、随分軽くなっちゃったなぁ。……。はあ。灯油も少なくなっちゃったし……」

 ハルはほとんど空になった鞄を抱えながら愚痴る。 鞄には元々食料の類が 収められているが ハルの力でもやすやすと持ち上げられるぐらいには その重量も減っていた。燃料タンクもそうだ。

 旅に必要な道具や物の確保を渋っていたから、当然と言えたが。しかし。こ、れから気温は下がるというのに、体を温める火もお腹を満たす食糧もないのは文字通りの死活問題だった。着火装置は生きているから、燃料の代わりになる物を探せば火も得られるはずだったが。

「オートマトン。しばらくそこで待っててくれる?すぐに戻るから」

「同行させてくれませんか?」

「積荷が濡れたら困るでしょ? 装甲が錆びちゃってもいけないし」

 オートマトンは物申したげだったが、ハルの視線を感じ取ってか反論はしないでいた。ハルの動向は気がかりだったが、周辺に機体反応や生体反応がないことを見るに、際立った危険はないようだと認識していた。

「了解しました」

 ハルはレインコートを羽織って、ライトや護身用の機関拳銃が詰められた荷袋を背負う。

 小雨、と言うには降る勢いが強くなり始めた頃合いだった。


 ◆


 オートマトンを残して、一人で大通りに出る。

 車が渋滞した状態のままで放置されていて、ほとんどそれ一色で埋め尽くされている。誰もいない街に、履いた軍靴と雨の音だけが響いている。静かだった。

 文明は滅んでいるのに荒らされた形跡はないし、誰か他に人間がいたという痕跡もない。

 ある日突然、街から人間が消えてしまったような、そんな状態。


 あてのない道を進んでいると、ハルは一つの建物に目をつけた。集合住宅のようだった。何が良い、悪いという考えはなく、ただそこにあったという理由で、そこへ立ち入った。

 エントランスホール へと続く玄関ドアのガラスは全て割れている。軍靴で足元に散らばったガラスを割りながら中に入った。それから、雨を避ける必要はないと思ってフードを取り払った。

 全てが停滞した場所。ハルはそのまま進む。廊下にはいくつもドアが並んでいた。

 ハルは一番近くの ドアに手をかけた。どうやら鍵はかけられていないようで、レバーを捻るとあっさりと扉が開く。

「お邪魔しまーす。……。」

 ハルは扉をくぐる。廊下の突き当りを右に曲がると、居間に出た。四人家族で住むには丁度良いが、それ以上の人数になると狭く感じるくらいの広さの部屋。白を基調とした壁紙。地震の影響なのか家具はいくつか倒れていて、窓ガラスも無残に割れていたが、当時から変わっている所はそれくらいの物だろう。調度品は全て残っていたし、誰かに奪われた形跡もない。

 ──埃が酷い。

 ハルは口元を抑える。歩くたびに長年の間に積もった埃が舞い散る。ベランダからはかすかに光芒が伸びていた。長くここにいるべきではない。そう思い、さっさと目当ての物を探す事にした。

 目に付いた棚を前に膝をついて、一番下の段を開けて、無かったらその次を探して……

「食料品はきっとここにあるはずだけど……あ、あったあった」

 缶詰やレトルトパウチが入っている棚を見つけて、特に保存状態が良さそうな物だけを鞄に詰めていった。ついでといったように燃料に使えそうな油や紙束なんかも拝借して鞄に詰めた。当面は食糧に困窮しない量。

「私が生きる為に必要なんだ。ごめんね」

 よいしょ、と立ち上がってレインコートにくっついた埃を払う。

 目的は全て終わる。帰るか、とハルは踵を返す。

 その瞳に、更に奥へ続くドアが目に入った。

 ――あの先って何かあったかな。

 てくてくと寄っていって、レバーに手をかけた。深入りするつもりはない。あと少し、何か有用な物が手に入るかもしれないと見て帰るだけのはずだった。

 レバーを捻って開けた先は、六畳ほどの広さの部屋。小さな机とベッドと、倒れた木の本棚だけがある。

「子供部屋、か」

 本棚が倒れた影響で、辺り一面に本や雑誌が散らばっている。本棚自身も、倒れた衝撃で割れてしまっているらしい。 木材はバラバラになって いる 元はそれなりに 質の良いものだったのだろうが 今となってはその価値もない。

 ハルは 割れた本棚の材を 焚き火に使えると思って 小脇に抱えた。 落ちていた 雑誌や本もついでに拾って。もっとも、ほとんどは本棚の下敷きになっていたり、ハルが抱えられるほどの大きさではなかったりしたのだが。他に何か燃料にできるものがないかと探していると、ふとそれが目に焼き付く。

 埃が溜まった机の上に、一冊の本が置かれているのだ。ハルは本棚をぴょんと飛び越えて、 その向こう、小さな机の 近くに行く。そこまで来て机の上に置かれているのが本ではなく、日々の記録を書き記す為の帳面なのだと知る。

「日記、か」

 被った埃を手で払いのけると、表紙が露わになる。『秋庭和樹』と所有者の名前が記されていた。それから、日記に気を取られていてすぐには気づかなかったが、その傍らには腕時計があるのにも気づいた。錆びた真鍮のモデル。電池が切れているのか、その秒針は時間を刻まない。持ち主が大事にしていたのだろう、何度か研磨された形跡がある。けれどその割には、ハルの腕に合う大きさではない。

「……子供だったのかな」

 暫し逡巡して、その二つを持って帰ろうとした。何か深い理由があった、というのではない。ただの気まぐれだった。時計はとっくに動かなくなっているが電池が手に入ればまた動くかもしれないし、日記は燃やす事ができる。日記は鞄に詰められ、時計は丁度収まりが良いからと服のポケットに入れられる。

 ハルはこれ以上ここにいても何も出来る事はないと思って、帰ろうと決めた。生きる為に必要な物は全て手に入れたし、これ以上持っていっても返す事はできないのだから。


 ◆


 日の落ち始めた時刻だった。

「お帰りなさいませ」

 オートマトンは、ハルが帰りの言葉を言うより早く迎えの言葉を放った。

「ただいま。帰ったよ」

 ハルは軽く微笑む。ちょっとだけオートマトンの様子が可笑しかったから。

「今日は色々と持って帰ってきちゃった」

 ハルは鞄を置いた。たった一日じゃ食べきれない量の食糧が詰まっている。

 着ていたレインコートは濡れてしまっていたから、脱いで、建てたテントの支柱に引っ掛けた。明日には乾いているといいのだけれど、と思いながら。

 今日は食糧が多く手に入った。けれど、食べ物がいくらあっても暖かくないのではその美味しさも半減だ。だからハルは、焚き火の準備をする事にした。抱えていた木材と紙の束を一か所に集めて、空気の道が通るように配置していく 。ナイフの背に着火装置を当てて擦ると火花が飛び散って、丸まった紙束に引火する。その火もまた木に伝播して、瞬く間に火の勢いを増していった。

「さて、っと。これで十分かな」

 鯖缶や貝が詰まった缶詰をナイフで開けて、そのまま火にかける。

 ハルにとってこの時間が堪らなく好きだった。1日の終わりに火を見ると、心が安らぐ。そうして料理の良い匂いを嗅ぎながら、その日の事を思い返すのだ。

「いつもは軍用食とか味気ない保存食しか食べないから、嬉しいね」

 ぐつぐつと煮えてきたら頃合いだ。缶詰を木の棒で挟んで器用に火から取り出すと、暖かい食べ物が待ってる。

 全て食べ終わってしまうと、ついでに火が絶えないようにぽいぽい、っと焚き火に燃料を突っ込んだ。

「それは何ですか?」

 オートマトンは、火の中に突っ込んでく予定の日記の故を聞いた。

「日記。誰かの。 燃料にはなるでしょ」

「何が書いてあるのですか」

「オートマトン。あんまりいい趣味じゃないと思うよ。……見ないからね」

 とはいえ、そう言われてしまうとどうしても気になってしまうのが人間の性というやつである。

「……。まあ、どうせ持ち主ももういなくなっちゃってるし、いいけど」

 ハルは若干の罪悪感と共に、その表紙を開いた。


 曰く、それは1人の少年についてのことだ。

 その家で生まれ育った少年は生来体が弱かったという。 決して激しい運動ができる体質ではなかったし、燻る臭いが漂うこの先の時代を生きていけるかも怪しい人間だった。そんな彼の唯一の楽しみが読書だった。どこか遠くへといざなってくれる物語。文字の紡ぎが彼に知らない知識を与えてくれる。

 ある日、彼は誕生日の祝いに一つの時計を貰った。彼の父親が身に着けていて、ずっとほしいと願っていた物だった。

 父親は、どうせなら新品をと思って新しく買ってこようとしたのだが、少年はどうやら父親が持ってる物が良いのだという。そこに深い理由があるのだと思って父親はその通りにしたのだが、実際は少年が小説に影響されただけという何ともあっさりとした理由であるようだ。家にずっとい続けている少年に腕時計を使いこなせるはずはないのだけど、それでも彼のお気に入りだった。

 ある日、少年は医師に手術を受ける事を提案される。曰く。肺に人工の呼吸器系を取りつける事で一般人並みに体を動かせるようになるだろう、という事だった。前例の少ない手術だとあって、その日にちはずっと遅くなってしまうようだったが。


「……。ここで終わり」

 日記は途切れていた。A.D.2031の10/23を区切りに、ぷっつりと。 日記の持ち主がいなくなってしまったか、書くのに飽きてしまったか理由は定かではないが。

「この日は……その、オートマトンの記憶では、何かあったりした?」

「データのログにその日の出来事は 記されていません。なので正確な事はお答えできかねますが……。しかし、当機が東京の軍事基地に配備される約三か月前の出来事のようです」

「帝国が侵略された後の出来事?」

「はい。その通りです」

 東京の周辺は、それ自体が多くの人間が居住する重要な地域だ。外国が攻め入るとなった時に真っ先に目標とされるのは想像に難くない。その程度ならハルにだって分かる。東京近辺が避難区域に指定され、その家族も逃げてしまった。予想として考えられる可能性の一つだ。

 ハルは日記を焚き火の中へ放った。炎の中で黒い炭へと変わっていく。

「よろしかったのですか」

 焚き火の炎の輝きはいっそう強くなっていく。

「過ぎた思い出に縋る人生なんていらない」

 ハルはかっこつけたセリフを吐いて、それきり日記の話題はやめた。

 ぱちぱちと音を立てて薪が燃えていく。暖かいと思う。溜まった疲れに染みる温度だった。旅の全てがオートマトンに頼り切りでいられたわけではなかったし、自身の足で歩まなければならない場所もあった。寒さで風邪を引きかけた事も、転んでできた怪我の痛みが引かなかった事も、そうだ。

 ハルは思い出したようにポケットをまさぐると、もう一つの拾い物を取り出した。

 真鍮の腕時計。ハルはしばらく悩んだが、捨てずにそのまま取っておく事にした。深い意味はなく、ただの気まぐれだった。


 ずっと長い旅を続けていた。実際の時間は果たして1ヶ月にも満たない期間であったかもしれないが、ハルにとっては ずっと長く感じられるのだ。安穏とした日々を抜け出して、いなくなった父親を探す旅に出た日。かつてハルが暮らしてたあの家のこと。ハルは、世界を変えたかったわけじゃない。自分を変えたかったわけでも、ない。何も変わって欲しくないだけだった。

「オートマトン」

 ハルは機械の名前を呼んだ。伏せた目。

「ずっと独りでいるのは寂しいよ」

「そうですか」

 オートマトンの口調はいつもと変わらない。抑揚のない声だ。

「なんで私だけ置いてっちゃったの。 お父さんもお母さんも」

 この世界に人間はいない。ハルの気持ちのやり場はどこにもない。たった一人で 生きていくしかないのだから。

「何も変わらなくてよかったし、何で私が寂しいと思うって分かってるのに一人だけ変わろうとするの」

 独りよがりのわがままな願いだった。けど、自分の家族くらいしか、そのわがままを聞いてくれる人間なんていない。

「……。寂しい、という感情は、辛いのですか」

「当たり前だよ。ずっと一人でいるのが辛くないわけない」

「弊機では、 寂しさを埋めるのに 不足ですか」

「オートマトンにはずっと助けてもらったし、感謝もしてる。そうじゃなきゃ、お父さんを探してここまで来るなんてできなかったし。…………。でも、私とオートマトンとじゃ分かり合えないし、やっぱり、だめだよ」

 ハルはオートマトンに体を寄せる。冷たい鋼鉄の装甲。人の温度を持たない無機質な体躯だ。ハルの孤独は決して癒える事はない。

「私は人間だから」

 オートマトンは何か言葉をかけようとした。そのようだったが、終ぞ発せられない。

 ハルはぼろぼろの毛布に包まり、夜明けをただ呆然と待つ。明日にはもっと良い事がある。昔はそう思えたから、暗い夜を耐えられたのだが。

「オートマトン。ずっと側にいてくれるよね?」

「勿論です」

 オートマトンは二つ返事で了承する。プログラムされた応答だったのだとしても、その言葉だけは本当だと信じた。

「おやすみ」

「おやすみなさいませ。マスター」


 ……。

 …………。


 ハルは夢を見ていた。何の夢かは分からない。思い出せなかったから。

 ハルは夢を見ていた。何の夢かは思い出せなかったとしても、悪い夢であることはわかっていた。ゆらゆら動く視界が、ゆらゆらと揺れて、それから……何かがあって。

 意識が完全に覚醒したのは、長い時間が経った後だった。

 一番最初にハルの目が見たのは、一筋の光だった。夢の中の光ではない。網膜を刺激する、朝の日差し。夜明けがやってきた。

 ハルはゆっくりと目を開けた。眠たくて重い眼を、しかし確かに動かして。

 雨や雲はすっかり上がっているようで、道路にたまった水溜りが眩しいくらいに太陽を反射していた。

「おはよう」 寝ぼけた声でハルは挨拶した。

「おはようございます。マスター」

 コンマ数秒後に返事がある。寝る前と変わらず、オートマトンはそこにいた。

 ハルは泣き腫らした目で、右手に掴んでいた物の感触を確かめた。壊れた腕時計。なんの役にも立たないガラクタだ。時間を示さなければその道具に意味はない、なのに手放すのを拒んだ。

「どれくらい寝てた?」

「およそ10時間程です。お疲れのようでしたので」

「寝すぎちゃったね。……でも、良い朝」

 眠気なんてのは明後日に飛んで行ってしまったようで、後にはぐっすりと眠った後の清々しさだけが残っている。

 起き上がって、時計をポケットの奥に突っ込んで、後は旅支度を済ませるだけだ、だが。

「昨日の事……その、怒ってる?」

「怒っているとは、なんの事でしょう?」

「……えっと、気にしてないなら、いいけど」

 説明すべきか迷ったが、これ以上昨日の事を掘り起こすのも性に合わないから、やめた。テントを畳んで、荷物を全てオートマトンの背に積み込んで、そのままハルも背に乗っかる。

「弊機には、人間の感情という物が理解できません」

「知ってる」

「だから、もっと学習が必要だと、改めて認識した次第です」

「……。そっか」

「出発しますか?」

「うん。東京まで行くのに、まだあと一週間はかかるんだよね?」

「ええ。GPSと現状の歩行距離を参照する限りではそのようです」

「だったら、行くのは早い方がいいよね」

 東京に至る道筋に、その先を見た。

「一つ忘れ物があるようです」

「何かあったっけ?」

「ああ、うっかりしてしまいました。弊機とした事がしまったようです。……。冗談です」

 ハルは目を丸くした。人生の中で一番驚いたような顔だ。

「何かおかしな事でもありましたか?」

 オートマトンだけが、ハルが笑っている理由に気づかず首を傾げていた。機械なのに随分愛嬌のある奴である。

「ふふ、あはは!」

 昨日は、冗談は言いませんなどと言って堅物っぽく振る舞っていたのに、どうやらオートマトンにも空気を読む力が身に着いたようである。

「あはは、うん。いいと思う。もーちょっとだけ“ゆーもあ”を身に着けなきゃだめだけど」

「ゆーもあ、とはどのような物なのでしょう」

「後で教えてあげる」

 ずっと変化を恐れていた。今の生活が脅かされると思いながら生きていたから、ずっと抱いていた恐怖。けれどその変化も、本当は悪い事ばかりではないのだと思う。オートマトンにも、ハルにも、その機会が訪れているとするなら。

「早く行かなきゃでしょ?オートマトン」

 ポケットの中身の感触を確かめて、そして何事もなかったように旅を続ける。

 この首都圏の中心部、東京を目指して。

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